歩兵第15連隊

(通称号:照7757部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
群馬県高崎 明治18年 第14師団 パラオ

戦歴

初陣は日清戦争。
当初は第2軍に編入されて戦ったが、後に乃木希典将軍の第3軍に編成替えになり”203高地の戦い”に参戦。
大正8年4月「シベリア出兵」、その後は満洲駐在。
昭和4年4月高崎に帰還。
満洲事変で、上海派遣軍の指揮下に入り中国へ行くが停戦協定のため満洲へ転用され、北満の戦線に投入される。
昭和9年4月高崎に帰還。
日中戦争勃発により昭和12年8月中国へ。
昭和14年12月復員。
昭和15年8月満洲移駐(チチハル)。
昭和19年2月、南方派遣令により、砲兵大隊・工兵中隊・輜重兵中隊・軽装甲車中隊などを編入し、南方の島嶼作戦向けに編成を改正。
昭和19年4月、第14師団直轄部隊としてパラオに到着。
第3大隊(千明ちぎら武久大尉)は歩兵第2連隊の指揮下に入りペリリュー島へ。
ペリリュー島の危機に際し、第2大隊(飯田義栄少佐)が逆上陸を敢行。
昭和19年11月、第2・第3大隊玉砕。
本隊はパラオで守備を継続中に終戦を迎えた。


歩兵第15連隊跡の碑


「歩兵第15連隊跡」の碑


群馬県高崎市・高崎城乾櫓の目の前に建っています。



(平成15年7月19日)




 「歩兵第十五聯隊趾」碑 
 (高崎城・乾櫓の前)

 元の正面営門歩哨舎の位置




(平成26年11月16日再訪問)

阯碑之由来 

上毛の三山を仰望し 烏の清流を俯瞰する此の地は 正長元年の昔 和田城が築かれて三百余年を閲歴 後に名を高崎城と改め 中仙道を扼する要衝であった
明治五年国民皆兵令の施行に伴い東京鎮台第一大隊の屯営となり 明治十七年五月歩兵第十五聯隊が創設され 翌十八年七月軍旗親授の栄に輝き威容を充実 
城内は一新されて外郭の城塁と烏川沿いの懸崖のみが依然古城の歴史を誇り 朝に嚠喨たる喇叭の響き夕べに勇壮なる練武の雄叫びは 坂東武士の流れを汲む郷土の人心と相和して精強高崎聯隊を育成した
宜なる哉 日清戦役以来国軍の赴くところ聯隊の征かざるなく 特に日露戦役の旅順においては死命を制する展盤溝を攻略して高崎山の名を残し 奉天大会戦においては其の天王山とも称すべき三台子の要衝に楔を打込み 大勝の端緒を開き以て上毛健児の心魂を天下に顕示した
而して其の偉大なる伝統は 後の歩兵第百十五聯隊を始め外征各郷土部隊及び常駐東部第三十八部隊に遍く継承発揮され今尚誇り高く語り継がれている
爾来 歩兵第十五聯隊は シベリヤ 満洲その他累次の征戦に勇名を馳せ 日支事変の勃発と共に黄河の南北に進攻後 チチハルに移駐して北辺に備え 太平洋戦争の急迫に因り急遽おパラオの島嶼作戦に南征するや峻烈を極むる敵の攻撃はペリリュー島の第三大隊に集中され逆上陸を敢行した増援の第二大隊と共に死闘四ヶ月 凄絶無比の最期を飾って全員玉砕した
歩兵第百十五聯隊は 杭州湾の敵前上陸に引き続き南京 徐州の作戦後ダンピール海峡の死闘を経て ニューギニヤに転戦 ラエ サラモアの激戦に次いで標高四千五百米のサラワケット山系を越え ウエワクの激戦に
歩兵第二百十五聯隊は 中支方面の作戦後 ビルマに進駐 ラングーンの一番乗りを敢行し ビルマ及び苛烈極まるインパール作戦を経てイラワヂ河畔の激戦に
歩兵第二百三十八聯隊は 北支方面の作戦後 ニューギニヤに転戦 歩兵第百十五聯隊と呼応してラエ サラモアの激戦に次ぎサラワケット山系を越え アイタベの作戦に
歩兵第八十五聯隊は 中南支方面の作戦を経て仏印に進駐 ラオス タイ方面の作戦に
大要以上の如く 裏面記述の各郷土部隊も亦共に朔北より南溟に亙る広大且つ悪疫瘴癘 人跡未踏の戦野に身を挺して勇戦敢闘 想像に絶する困苦と飢餓に堪え 至誠一貫 身を捧げて郷土の負託に応えた
然るに 空前絶後の太平洋戦争は 昭和二十年八月十五日終戦の大詔を拝するところとなり 生存将兵慟哭の裡に各聯隊すべて軍旗を奉焼し 終焉となった
憶えば 此の地に兵営が創設されて七十二星霜 この間 練武の貔貅三十数万 華と散った英霊実に五万二千余柱の多きを算う
寔に痛恨の極みである
茲に広く県内外の関係者相寄り相議り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求し祈念する

昭和五十一年五月二十五日
歩兵第十五聯隊趾之碑建立委員会

(副碑・碑文より)

高崎兵営編成部隊
郷土出身将兵従軍戦没者之記 

明治維新前後 戦没者54名
東京鎮台高崎分営時代 熊本の乱 西南の役 131名
歩兵第15聯隊創設以来従軍せる戦争 事変と戦没者の状況
  明治二十七 八年日清戦役169名
  明治三十七 八年日露戦役1,506名
  北清事変3名
  台湾 韓国事件22名
  大正3年乃至9年シベリヤ事変142名
  昭和3年山東出兵4名
  昭和6年上海 満州事変187名
  昭和12年日支事変5,282名

日支事変につぐ太平洋戦争に兵営は東部第38部隊となり
広大なる戦域に 多数の部隊 将兵を送った
◎主なる方面 部隊 方面別戦没者の状況
中部太平洋 南洋群島 パラオ諸島方面
  歩兵第15聯隊 第14師団 第52師団
  独立混成第53旅団 他 4,125名
南太平洋 ニューギニヤ ソロモン諸島方面
  歩兵第115聯隊 第51師団 高射砲大隊
  歩兵第238聯隊 第41師団 独立混成第128旅団
  第76兵站病院 船舶 海軍 航空
  衛生諸部隊 他 9,230名
印度 ビルマ タイ 佛印 マレイ方面
  歩兵第215聯隊 第33師団 第33野戦道路隊
  鉄道第10聯隊 混成第26旅団 歩兵第85聯隊
  第22師団 他 4,755名
比島 レイテ ミンダナオ島方面
  独立混成第54旅団 第58旅団
  第19 第23 第1 第26師団 他 6,429名
ジャワ スマトラ ボルネオ方面
  独立混成第25旅団 同第28旅団 迫撃第5大隊
  第100飛行場大隊 他 884名
中国 朝鮮方面
  独立機関銃第9大隊 支那駐屯歩兵第2聯隊 細矢部隊
  第5航空軍 戦車第3師団 鉄道隊
  第47 第59 第63 第127師団
  独立混成第5旅団 他 7,574名
南西諸島 沖縄 台湾方面
  陸勤第72中隊 第71師団 他 1,819名
ソ連 千島 樺太 アリューシャン方面
  満洲 北鮮部隊 第89師団 他 917名
北太平洋 小笠原諸島方面
  海軍 航空部隊 第109師団 他 1,188名
日本本土 近海 その他の方面
  本土防衛隊 赤城 納 常盤 護宇部隊
  戦線からの還送戦傷病没者 他 5,579名
  その他県外出身郷土部隊従軍戦没者 2,000名

歩兵第十五聯隊趾之碑建立にあたり
 本県関係戦没者5万2千余名の合同慰霊祭を実施し
 永えに英霊を弔う  合掌

昭和51年7月25日
歩兵第十五聯隊趾之碑建立委員会

(副碑・碑文より)






 顕彰碑
 (群馬音楽センター前の公園)






(平成26年11月16日)

顕彰碑

明治維新の大業成るや、明治6年旧高崎城内に兵営が置かれ、東京鎮台高崎分営となった。
郷土群馬を中心とした壮丁は徴されて兵士となり、国家防護の責に任じた。
ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来太平洋戦争の終結まで60余年間、国民皆兵制度の下、郷土の健児はここに起居を共にして武を練った。
明治、大正、昭和を通してこれら健児が従軍した戦役は、明治維新の際をはじめとして熊本の乱、西南の役、日清戦役、北清事変、日露戦役、大正3年乃至9年戦役、済南、満洲上海事変、支那事変、太平洋戦争等枚挙にいとまないほどで、ことに太平洋戦争には東部第38部隊として、歩兵第15聯隊を始め、歩兵第115聯隊、同215、85、238、173、330、435、521聯隊の基幹部隊及び大小数十部隊を編成送り出した。
これら諸部隊の健児は、全国陸海空軍部隊に召された県出身将兵と共に、あるいは万里の波濤を乗り越した異郷に、あるいは国内の要所など広大な戦域にその身をささげ、ついに郷土関係戦没者は5万2千余名を算すに至った。
昭和20年8月15日戦争は終止を告げ平和がよみがえった。
その礎にはこれら健児の尊い犠牲があることを忘れてはならない。
すなわち県内外の生存者相寄り、これらの事績を顕彰しその英霊を慰めたく、明治百年の記念の年に際し、兵営跡に碑を建立し、永遠に伝えようとするものである。

昭和43年10月23日
元歩兵第15聯隊並郷土出身陸海空
戦没者合同慰霊祭実施期成連盟

(碑文より)







 歩十五会 奉納燈籠 

 (群馬県護国神社




(平成26年11月16日)

ペリリュー島守備隊

陸軍:6,822名
海軍:3,646名
合計:10,468名

ペリリュー地区隊直轄部隊
歩兵第2連隊本部
歩兵第2連隊第1大隊
歩兵第2連隊砲兵大隊(第1中隊・1個小隊欠、迫撃砲1個中隊配属)
歩兵第2連隊工兵中隊
独立歩兵第346大隊第1中隊
第14師団戦車隊
その他諸隊
海軍部隊

北地区隊
独立歩兵第346大隊(第1中隊欠)
歩兵第2連隊第3中隊
野砲1個中隊
衛生中隊の一部
7.5cm野砲×4、47mm速射砲×1、37mm速射砲×1、高射機関砲×7

東地区隊(9月14日夜に地区隊主力と合流する)
歩兵第2連隊第3大隊(第7中隊欠)
歩兵砲1個小隊
衛生小隊
歩兵砲×2、37mm速射砲×1、高射機関砲×3

西地区隊
歩兵第2連隊第2大隊(第7中隊配属)
野砲1個小隊
7.5cm野砲×2、47mm速射砲×2、37mm速射砲×2、高射機関砲×4

南地区隊
歩兵第15連隊第3大隊
7.5cm野砲×1、47mm速射砲×1、37mm速射砲×1、高射機関砲×1

(参考:『歴史群像』 2009年8月号)

(平成21年12月31日追記)


ペリリュー島の戦い(昭和19年9月15日〜11月27日)

【歩兵第15連隊第3大隊】

昭和19年4月26日、第14師団が島嶼防衛に適した編制替えをしてパラオに進出。
上級司令部である第31軍の作戦は、ペリリュー、アンガウルを重要航空基地として確保し、ペリリュー、アンガウル、ヤップ方面に米軍が来た時は、パラオ本島の兵力を海上機動で送り込むというもの。
第14師団は、第31軍の方針に沿って、歩兵第2連隊をぺリリュー、歩兵第57連隊をアンガウルに派遣。
歩兵第15連隊を基幹とした兵力をパラオ本島とマラカルに配置して、状況に応じて機動的に運用することにした。
米軍がマリアナ攻略を優先したため5ヶ月もの準備期間を確保できたので、歩兵第15連隊第3大隊、第14師団戦車隊などの増援部隊がペリリューに配属できた。
9月6日から10日間にわたり米機動部隊艦載機による空襲。
上陸支援の艦砲射撃を受けるが、洞窟陣地とコンクリート製トーチカのおかげで守備隊にはほとんど損害なし。
9月15日、米第1海兵師団(28,400名、うち歩兵兵力は約12,000名)が西南海岸に上陸開始。
中川歩2連隊長は、東地区隊の全兵力を地区隊反撃予備として島中央部に移動させる。
西地区(米軍名:ホワイトビーチ)では、日米が入り乱れて近接戦闘を展開。
このため、米軍は友軍相撃の危険から砲撃できない。
守備隊は西地区(米軍名:ホワイトビーチ)、南地区(米軍名:オレンジビーチ)で、地区隊予備を海岸に投入して戦闘を続行。
米軍は後続の海兵第5連隊第二派が日本軍地区隊の間隙に上陸。
中川歩2連隊長は、第1号反撃計画に基づいた逆襲を発動。
砲兵と迫撃砲の支援を受けて、歩兵第2連隊第1大隊、第7中隊、師団戦車隊(歩兵600名、九五式軽戦車17両)が反撃に出るが、開始時間が遅かったため米軍に防御態勢を整える時間を与えてしまい、対戦車砲、バズーカの猛射を受けて反撃に失敗する。
歩兵第15連隊第3大隊を中心とする南地区隊でも反撃を繰り返したが、大隊長が戦死し、兵員の60%を失い、飛行場東側の海軍防空隊陣地まで後退する。
9月16日、米軍、飛行場を占領。以後、北部へ攻撃を指向する。
9月16日夜半、中川連隊長は海軍を含めた残存部隊を「大山」を中心とする高地に後退させる。
通信が通じず、撤退命令が届かなかった南地区隊(歩兵第15連隊第3大隊主力)は孤立。
9月18日、南地区隊全滅。(生存者皆無の為、状況不明)

【歩兵第15連隊第2大隊】

9月22日、歩兵第15連隊の1個大隊がパラオ本島から舟艇でペリリュー島に逆上陸の作戦を企図する。
第14師団長は成功の可能性の低いこの作戦に反対。
中川歩兵第2連隊長も同じ理由で反対したが、歩兵第15連隊長の強い意見具申で逆上陸が実施された。
しかし、ペリリューを保持するための補給物資と兵員を満載した舟艇は、案の定、米軍の攻撃を受け大損害を出し、物資の大半を失う。
9月24日朝、逆上陸部隊の約半数がどうにか到着し、中川大佐の指揮下に入ることに成功。
主隊に合流できなかった一部の逆上陸部隊は、北地区隊と共に米軍と交戦しつつ「水戸山」まで後退し、そこで持久戦を続けた後、10月2日に玉砕した。

11月24日、ペリリュー島守備隊は最期を伝える電文「サクラ・サクラ」を発して玉砕する。

(参考:『歴史群像』 2009年8月号)

(平成21年12月31日追記)

【第2大隊(飯田大隊)】

第2大隊長・飯田義栄少佐は、歩兵第2連隊出身で歩兵第59連隊第1大隊長を経て歩兵第15連隊に転属したので、歩兵第2連隊の将兵に信望があったためペリリュー島への逆上陸に起用された。
9月23日午後8時30分、パラオ島を出発した。
アルミズ桟橋に集結した大隊は、軍旗に最後の参拝をし、ラッパ吹奏と共に宮城を遥拝したのち、23隻の舟艇に分乗して出発。
飯田少佐以下将校が白襷たすきをかけて、兵隊は全員白鉢巻をしていた。

第2大隊出発地(推定)

(平成22年9月17日・旅日記参照)

夜陰に乗じペリリューに接近した逆上陸部隊は、北地区隊地域に上陸寸前、敵に発見され海上にて相当の損害を出したが、飯田少佐以下約400人が上陸に成功、水府山陣地に進出し、歩兵第2連隊長・中川大佐の指揮下に入った。





飯田大隊上陸地点(推定)





(平成22年9月12日・旅日記参照)

(参考:高橋文雄 著 「壮絶 宇都宮第14師団の激闘」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月11日 追記)




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