歩兵第18連隊

(通称:雷3219部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
愛知県豊橋 明治17年 第29師団 主力=グアム島で玉砕
第1大隊=サイパン島で全滅

歩兵第18連隊は明治17年に歩兵10個連隊が増設された際に、名古屋の第6連隊内に編成され、明治18年から19年にかけて豊橋に移りました。


戦歴

名古屋第3師団の隷下として日清・日露戦争に参加。
明治40年、第15師団に移るも、大正14年に再び第3師団に戻る。
昭和3年、済南事件で動員され天津に駐屯。
昭和9年〜11年、佳木斯に駐屯。
昭和12年8月、盧溝橋事件で動員、上海上陸戦・南京攻略戦等に参加。
昭和17年7月、関東軍の第29師団に編入、満洲に駐屯。
昭和19年3月、サイパン島に進駐。途中で米軍の攻撃を受け輸送船が沈没、門間連隊長以下2,200名が戦死。サイパン島に上陸したのは約1,800名。
昭和19年5月、グアム島に一部移駐。
昭和19年6月20日、グアム移駐に間にあわなかった第1大隊、第3迫撃砲中隊、衛生隊は米軍のサイパン上陸に遭遇、ガラパン神社前の米軍陣地夜襲で全滅。
昭和19年7月21日、グアム島に移った連隊主力は米軍上陸地点で防御戦を展開するも戦闘能力は著しく低下、戦車第9連隊の1個小隊を先頭に残余の兵力で攻撃前進中、集中砲火を浴び大橋連隊長以下大部分の将兵が戦死、玉砕する。


歩兵第18連隊跡の碑



「歩兵第18連隊之址」の碑
(愛知県豊橋市・吉田城跡内)




(平成14年9月15日)
顕彰慰霊之記(碑文)

我歩兵第18聨隊ハ明治17年夏名古屋鎮台下ニ創設
8月15日軍旗奉戴
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
創隊後10年日清戦役ニ参加シ平壌玄武門ノ戦闘ニ勇名ヲ揚グ
尓来日露戦役西伯利及山東出兵満洲事変等ニ参加シ亦功アリ
昭和12年以降支那事変ニ参加シ華中地区ニ転戦5年勇名嘖々タリ
後満洲海城ニ移駐ス
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ19年2月南方ニ赴援シ防守に努ム
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ
抑我隊ガ育成訓練セシ隊員ハ概ネ参遠駿豆ノ健児ニシテ其父祖亦往古海道無双ノ勇名ヲ馳ス我隊ガ夙ニ国威ヲ宣揚シ長ク邦家ノ鎮護タリ得シモノ固ヨリ隊友ガ報国ノ丹心ニ因ルト雖モ亦父祖冥助ノ賜ノ多大ナルヲ知ル
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ

昭和39年8月
元歩兵第18聨隊隊員 有志 建
 同              鈴木基次 書
 同    岡崎石匠    菅沼由雄 刻
歩十八会の碑



「歩十八会」の碑
(副碑)





(平成17年4月2日)

歩十八会(戦友会)(副碑・碑文)

志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである。

昭和31年10月12日 創設 会長 佐野哲太郎
昭和41年10月10日 第2代会長 土屋正一
昭和53年10月 8日 第3代会長 本多久一

平成9年3月15日建之

歩十八会(戦友会)記事(副碑・碑文)

毎年10(11)月 聨隊戦没将兵慰霊祭奉祀
毎年8月15日 旧陸軍墓地の清掃供花参拝
昭和53年7月 グアム島及びサイパン島にそれぞれ慰霊碑建立
昭和55年5月 聨隊写真集刊行
平成6年12月 毎年7月25日永代神楽を靖国神社、護国神社に、永代供養を豊川閣妙厳寺にそれぞれ委託
付記 同年グアム島バンザイ嶺は米国立記念公園となる






豊橋公園(吉田城)に残る哨舎跡
(愛知県豊橋市)





(平成14年9月15日)
衛門跡

歩兵第18連隊西門


歩兵第18連隊西門

(愛知県豊橋市・市役所立体駐車場脇)





(平成17年4月2日)

歩兵第18連隊西門

これは 昭和34年9月 国道1号線工事のために移転し復元した門である。

昭和39年7月
歩兵第18連隊西門保存会

(説明板より)

門の位置



右の木のあるところに門が移築されています。
左は国道1号線です。




(平成17年4月2日)





歩兵第18連隊戦没者慰霊碑
(グアム島・南太平洋戦没者慰霊公苑)



旅日記

(平成21年3月19日)

歩兵第18連隊は明治17年豊橋に創設以来累次の戦役には常に大陸に出征して偉勲を重ねた
太平洋戦争末期中部太平洋方面の守備についた連隊は主力をグアム 一部をサイパンにおいて壮烈な玉砕をとげ光輝ある60年の歴史を閉じた
時に昭和19年7月25日
戦没将兵5千有余名

昭和53年7月25日
歩兵第18連隊関係有志建之

(碑文より)


【海没】

第29師団は関東軍司令官直轄部隊。
(駐屯地)
司令部=南満州の遼陽
歩兵第38連隊歩兵第50連隊=遼陽
歩兵第18連隊=遼陽から50km南方の海城

昭和19年2月10日、動員下令。
昭和19年2月24日、船団は釜山を出発。
昭和19年2月25日朝、広島・宇品に一時入港。
昭和19年2月28日朝、第29師団の将兵を満載した輸送船団が長崎沖の五島灘を12ノットの速力で南下。
(輸送船)
東山丸(歩兵第50連隊乗船)、安芸丸(歩兵第38連隊・師団司令部の主力乗船)、崎戸丸(歩兵第18連隊乗船)
(護衛)
第31駆逐隊=岸波、沖波、朝霜

歩兵第18連隊は、若干の15年現役兵が、初年兵の時に第二次長沙作戦に従軍しているが、その他の兵隊たちは実戦の経験はなかった。
しかし、他の連隊と違って、年配者の補充兵を含まず、全てが現役で編成された、師団の中では最も戦力の充実した強力な連隊。

昭和19年2月29日、船団の位置は沖大東島(ラサ島)の南方、約200kmの地点。
崎戸丸、雷跡3本を発見。
2本は崎戸丸船首前方を通過、1本が崎戸丸の左舷煙突真下やや後方(機関室の中央)に命中。
崎戸丸、機関停止、火災発生。
崎戸丸の船首を通過した2発目の魚雷が安芸丸に命中。
黒煙が上がるが、航行に支障がないため、東山丸の後尾に続行し、朝霜の護衛のもとサイパンへ向かう。

岸波、沖波が崎戸丸周辺に爆雷を投下。
崎戸丸は6番艙のガソリンに爆発の危険が迫ったため退船命令が出る。
輸送指揮官・門間連隊長と内田船長は火の回ったブリッジを離れ、船首に並べられた山砲の砲架の上に立っていた。(船長の進言で門間連隊長が舷側から退船する途につくところまでは確認されている)
真夜中を過ぎた頃、崎戸丸は大爆発を起こして沈没。
夕方まで付近海域を駈けまわった2隻の駆逐艦に、重傷者570名を含む約1720名が収容された。
他の約2300名にのぼる将兵は海没・戦死。
将校の死亡は特に多く、連隊の将校約130名のうち、門間連隊長、浜下第3大隊長など幹部をはじめとする将校100名以上が海没。
歩兵第18連隊は、ほとんど再起不能に近い全滅の大打撃を受けた。
(崎戸丸乗組員87名のうち生存者は35名のみ。生存者の中に内田船長・新岡一等運転士の姿はなかった)

グアム島

海没した歩兵第18連隊の残存兵力は、その後、サイパンで第13師団の先遣隊191名を吸収して戦力の回復を図る。(後任連隊長:大橋彦四郎大佐)
昭和19年6月上旬に、第2大隊、第3大隊がグアムに移駐。
6月11日には第1大隊が移駐する予定だったが、米軍の大規模な空襲のため断念した。

サイパンが苦戦に陥っていた6月22日、サイパン逆上陸の軍命令により、行岡支隊(第3大隊)が13隻の大発で出発。(第2大隊はグアム北端の白浜地区に配備)

[行橋支隊]
海没後任第3大隊長:行岡節生少佐(歩兵第6連隊から着任)
第3大隊副官:山下康裕少尉
軍旗小隊はグアムに残置。
第9中隊、第10中隊、第11中隊を主力とする。(約600名)
(重機関銃×5、山砲×2、速射砲×1、迫撃砲×2、軽機関銃×27)
通信隊1個小隊、工兵隊1個小隊を帯同。
軍参謀・泉中佐同行。

第3大隊がサイパン逆上陸部隊に選ばれた理由は、もともと海上機動大隊として編成されテニアンに配備される予定であったということと、グアムに転進後、日も浅く、陣地構築も不完全で、更に大宮港(アブラ)に一番近い位置にいたこと、そして歩兵第18連隊がバラバラに分散していたことが考慮されて決められた。

第一次挺進地点であるグアムから約70km北方のロタ島へ向かい到着。
途中、第10中隊の1個小隊、迫撃砲小隊、工兵小隊を含む2隻の大発が行方不明となる。(約100名を失う)
第二次挺進地点のテニアンに移り、そこからサイパンへ逆上陸の予定だったが、ロタ島待機を命じられる。
出発から1週間たった28日、グアムへの帰還命令が届く。
6月29日、ロタ島からグアムに帰還。

港町(ピティ)正面、ちょうど大宮(アブラ)港を見下ろすことのできる丘陵地帯が、行岡大隊(第3大隊)の守備範囲。
その中の、比較的海岸寄りの小高い丘(統軍台)に大隊本部を置く。
統軍台の前面の海岸線に第9中隊(左第一線)、第10中隊(右第一線)を配置。
第11中隊は予備隊として本部後方の谷間に待機。
昭和19年7月21日早朝、米軍の艦砲射撃。
米軍(米海兵第3師団)の上陸地点が、見晴岬(アデラップ)の南側を主点とした朝井(アサン)海岸に向けられていることを確認した連隊本部は、行岡大隊(第3大隊)に守備態勢を右翼の日向台へ転換するよう命じる。






アサン岬の丘頂上からアプラ港方向を見る





(平成21年3月20日)




アサン海岸

遠くに見えるのが「北岬」(リチジアン)
その向こう側に「白浜」(タラギ)がある。



(平成21年3月20日)




アサン海岸

海に突き出たところが「見晴岬」(アデラップ)
後方の丘は「パラソル台」
更にその後方の「マンガン山」へと連なる。


(平成21年3月20日)

午後1時頃、海岸線を守備する第10中隊(第2小隊・第3小隊)の右翼陣地に戦車を伴う米軍が進攻。
第3小隊(長:山田曹長)=重機関銃1個分隊・工兵1個分隊配属。
山田小隊は、爆雷を抱えて戦車に突入する工兵と共に熾烈な肉薄攻撃を決行し全滅。(生存者4名)
第2小隊(長:工藤少尉)=砲兵小隊(速射砲)配属。
工藤少尉戦死後、太田軍曹が指揮をとり反撃を続行。(残存兵力10名)

午後2時頃、駿河台陣地を新手の米軍1個大隊が攻撃。
第10中隊長・池田中尉指揮の第1小隊(長:鈴木少尉)、第3砲兵中隊(山砲4門)の守備地。
中隊の全残存機関銃で攻めのぼる米兵を台上から猛射。
第1小隊長鈴木少尉は部下と共に反撃に転じて陣地を躍り出て米軍の激しい射撃を受け陣前に戦死したが、中隊は陣地固守に成功した。(残存兵力20名)

第10中隊に隣接左翼の港町正面の第9中隊(長:宇津大尉)は独断で右側面に移動。
伝令戦死のため移動命令が届かず港町(ピティ)三叉路の水際陣地に1個小隊(深谷小隊50名)が取残される。
ここに第10中隊山田・工藤両小隊を突破した米軍が殺到し、深谷小隊は殲滅される。(生存者なし)

日向台へ転進できたのは、大隊本部、第11中隊、作業隊、迫撃砲小隊のみ。
眼下の朝井川に沿って約2個大隊の米軍が進攻。
行岡大隊長は全機関銃と中迫撃砲(2門)に迎撃を命令。
更に第10中隊前面の敵に照準を合わせ援護射撃。(米軍敗走)
続いて日向台攻撃の米軍も撤退を始め、米艦砲射撃が日向台に対して行なわれる。(迫撃砲1門破壊される)
青葉山後方台地に転進した連隊本部から、日向台放棄、青葉山占領の命令が届く。
1個小隊(山岡小隊)を日向台に残置し、午後7時ごろから青葉山へ移動。
この命令のおかげで、奪取されなくても済んだ日向台を放棄し、後に米軍の手中に陥った日向台を今度は攻撃しなければならないという矛盾に立たされることになる。






アサン海岸(米軍上陸地点)から見た「パラソル台」


旅日記


(平成21年3月20日)

米軍が上陸した正面丘陵地帯には独立混成第48旅団が布陣。
パラソル台が守備第一線だが守備隊は艦砲射撃で全滅。
後方のマンガン山陣地も全滅する部隊が続出。
師団司令部は急遽、白浜海岸(タラギ・ビーチ)から呼び戻した歩兵第18連隊第2大隊を旅団の指揮下に入れ守備につかせる。
連隊本部命令で、1個分隊(第11中隊第3小隊の分隊=長:袴田曹長)と陣地破壊班として第3作業隊から大林上等兵ら3名をマンガン山から夜襲に出撃する第2大隊第5中隊の指揮下に派遣する。
夜に入って、第2大隊(第5中隊・第6中隊・第7中隊)と増援に駈けつけた独立混成第10連隊の一部が敵が占拠しているマンガン山山頂に肉薄。
戦闘はマンガン山山頂を挟んで、彼我入り乱れての手榴弾戦となる。
夜襲は失敗。(生存者50名)
行岡隊(第3大隊)からの応援部隊の生存者は大林上等兵1名のみ。

昭和19年7月22日の早朝から青葉山には前線の兵力が撤収して来た。
第9中隊は、深谷(深岡?)小隊を失っただけでほぼ無傷。
全滅かと思われていた駿河台方面の第10中隊の生存者は20名に達し、中隊長の池田中尉も健在。
正午頃から米軍は駿河台から日向台をめがけて攻撃を開始。
日向台には残置されていた第9中隊の山岡小隊(50名)が警戒陣地についていた。
行岡少佐は、大隊の全機関銃を青葉山の山頂に配置、迫撃砲1門と共に駿河台上の米軍を攻撃。
この日は終日、谷を隔てた駿河台の米軍と、日向台の山岡小隊の間で、熾烈な攻防戦を展開。
行岡少佐は翌日の黎明とともに山岡小隊を青葉山へ撤退させる。(小隊の兵力半減)

7月23日は青葉山前面での戦闘はなかった。
米軍は日向台に進出して、迫撃砲と機関銃の陣地を台上の各所に構築。

マンガン山の第2大隊は、丸山大隊長以下50名になりながら持ちこたえていた。
師団司令部は独立混成第10連隊の総力、負傷兵でも軽傷の者は再度出動させ、兵だけではなく、設営隊、民政部、民間人の如何を問わず、戦えるものを総動員する。
7月24日、増援部隊が到着したこともあり、第2大隊は独立混成第48旅団の配属を解かれ、原隊の歩兵第18連隊に復帰する。
大橋連隊長は、青葉山の山峰に連なる砲台山の丘陵に第2大隊を集結させて守備につかせる。
午後2時頃、米軍が大攻撃をかけた。
行岡少佐は全火砲で砲台山へ支援射撃を行なう。
日本軍の反撃の射撃と米軍の妨害の砲撃が夕刻まで続いた。
この日、ついに砲台山を守り抜き、米軍に打撃を与えて追い返すことに成功。
しかし、迫撃砲弾はことごとく撃ち尽くし、1発の残弾もなくなっていた。
行岡隊(第3大隊)の現有兵力は300名(正規の大隊兵力の3分の1)となる。
この頃、師団司令部から総攻撃が下令。

迫撃砲小隊(長:塚野少尉)は夜9時、部下15名を率いて砲弾が集積してある三河山へ向かう。
同時刻、第3作業隊から編成された挺進攻撃班(1個分隊)が海岸の米重火器陣地破壊に出撃。
明日の総攻撃の前に、前もって敵の重火器を排除しておこうという作戦。
丸山大隊(第2大隊)からも挺進班が出撃する。

7月25日、早朝から青葉山一帯に敵の迫撃砲弾が激しく降り注いだ。
連隊本部との電話線がたびたび途絶し、ついに保線不能となり連隊本部との連絡は不通となる。
砲台山裏手後方の谷間にある連隊本部へ大隊副官山下少尉・松井上等兵の2名が、敵の迫撃砲弾の落下の中、命令受領に向かい無事に命令を受領。
連隊命令は、行岡大隊(第3大隊)は、青葉山から一直線に進撃し、浅間岬(アサン)まで突入せよというもの。
行岡大隊の進撃は、第9中隊が大和山から駿河台を経て浅間岬へ、第10中隊は十勝山右翼から一直線に浅間岬へ、第11中隊は十勝山左翼から日向台北側を攻撃して浅間岬へ、大隊本部・作業隊・砲兵隊は大隊長指揮のもと日向台北側を攻撃して浅間岬へと攻撃ルートを決定。

大隊長指揮下の大隊本部・作業隊・砲兵隊の約120名は駿河台正面に向かって匍匐前進。
敵前50mの地点で鉄条網の障害物に当たり迂回。
十勝山の麓で偶然、第10中隊(中隊長池田中尉指揮の約30名)と遭遇した。
この時、大隊長の一団の後続が指示の不徹底のため取残され、大隊長につき従っていたのは大隊本部の一部と作業隊の一部(合計約50名)だけであった。
大隊長は第10中隊を指揮下に入れ更に前進。
大隊副官山下少尉は残留している兵を捜しに戻り、約30名を連れ帰るが大隊長の一団とはぐれ、大隊長の後を追い日向台を襲撃。
敵陣内での白兵戦となり攻撃は失敗、後退する。

このころ、東側の砲台山から総攻撃を敢行していた連隊本部と第2大隊は、大橋連隊長を先頭に、敵の第一線を突破して朝井川の東側谷地を突進。
手榴弾と白兵突撃で米軍戦車と機銃陣地に突入していた。
連隊本部と丸山大隊(第2大隊)は、わずか20名に激減。
その後、米軍の機銃、迫撃砲弾、戦車砲の集中射撃を浴び全滅。

この間に、行岡少佐の一隊は、日向台を素通りして一直線に浅間岬に向かっていた。(約80名)
海岸線の米軍橋頭堡になだれ込んだが、そこは米第21海兵連隊第3大隊の陣地の背後。
師団の野戦病院や通信指揮所が設置された安全地帯で、第3大隊のほとんどの海兵隊員は前線に出払っていた。
行岡大隊長は陣頭に立って奮戦、敵橋頭堡を蹂躙し、米軍師団司令部の陣地にまで突入する勢い。
しかし、そこへ米軍師団司令部の直轄部隊が増援に駈けつけ反撃。
行岡隊は全滅した。

日向台を後退した山下隊(長:大隊副官山下少尉以下14名)は午後9時頃、青葉山の大隊本部跡に撤退。
やがて生き残った兵がポツポツと青葉山に集結し山下少尉の指揮下に入る。(合計約20名)
そこへ三河山へ出撃していた塚野少尉の一隊(約16名)が合流したが、残留させず師団本部へ向かわせる。

7月27日、米軍、青葉山を包囲。
夜陰を待って、山下隊は青葉山を下り、マンガン山の後方に退く。
進撃目標を失い彷徨していた砲兵隊(行岡隊の渥美砲兵准尉指揮、中隊長高町少尉は独断戦場離脱)に出遭い指揮下に入れ(総勢約60名となる)、茶屋山(チャチャオ)攻略を企図するが失敗。(生存者約30名)
その後、山下隊一行は戦場から遠ざかり敗走する。
山下隊が武装解除を受け入れたのは、終戦の日から1ヶ月を経過した昭和20年9月12日である。(山下隊24名投降)

(参考:佐藤和正著 『グアム島玉砕戦記』 光人社 1999年発行)

(平成22年12月12日追記)






投降する歩兵第18連隊の兵士

(グアム島・太平洋戦争博物館展示写真)





(平成21年3月19日)

Japanese 18th infantry marching out of the Bubulao Valley to turn themselves in to American officials.
1st Lt. yasuhiro yamashita, assistant to Colonel Ohashi, is at rear of column.
First soldier on left is Mr. Kimura, a member of the Kaikuntai, was responsible for food production, and also selected the site of Manenggon as a concentration camp for the Chamorro people.
The dog was named Chaco, and did alert the soldiers if American soldiers were in the area.

(展示写真説明文)





捕虜収容所の日本兵
(グアム島・太平洋戦争博物館展示写真)





(平成21年3月19日)

Large group of Japanese prisoners of war in a detention camp.
This camp was most likely located in the northern part of Guam.
Several POW camps existed on the island of Guam.
Historical records indicate that at least two existed on North Field, now known as Andersen AFB.

(展示写真説明文)





PACIFIC WAR MUSEUM
(グアム島)





(平成21年3月19日)

(平成22年12月15日追記)


 (関連商品のご紹介)



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