(通称号:弓6822部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
茨城県水戸 | 昭和14年 | 第33師団 | モールメン南方 |
編成は仙台の歩兵第4連隊留守隊で行われ、初年兵は茨城県出身者が中心でしたが、昭和14年徴集兵からは全員が茨城県出身の現役兵で構成されました。
編成完結直後に他の第33師団所属の連隊と共に第11軍の隷下に入って新潟港から中国の華中戦線へ出征。
昭和16年3月の第1次錦江作戦で中国軍を破り、第2次錦江作戦では中国軍に包囲されて危機に陥っていた第33師団の救出作戦を敢行。
昭和16年11月7日、南方軍の戦闘序列が下令され、昭和17年2月10日に中国大陸を離れビルマに向かいました。
タイのバンコックに上陸し、タイ・ビルマ国境を越えプローム附近で師団主力と合流。
直ちに英印軍を主力とした連合軍と戦闘に入りました。
イワタン、ミギャンギー、マグエ、エナンジョンと北に向かって英印軍を追いつめ、4月27日にはチンドウィン河畔に迫りました。
昭和17年9月から連合軍がビルマ奪還の反撃を開始。
これ以降、熾烈な防衛戦が展開されました。
昭和17年10月、アキャブ防衛に派遣されていた第2大隊方面が急を告げたので、連隊はアラカン山脈を越えて合流。
更に、エナンジョンの警備についていた第1大隊にもアキャブに進出せよとの命令。
標高3,000フィートのアラカン山脈を50日間余の難行軍の末に突破して連隊に復帰合流。
当時アキャブ方面の英印軍の反撃は激しく、連日死闘が展開されました。
昭和18年9月22日、インパール作戦準備のためタウンギーからヤザギョウ、モーライク地区へ転進。
昭和19年1月15日、正式にインパール作戦が発動される。
補給もおぼつかない無謀な作戦のため、飢餓と病気で戦線全域は戦死傷者であふれ、戦闘力を失っていきました。
昭和19年7月2日、インパール作戦中止。
急迫する英印軍と戦いながら南へ撤退を続け、昭和20年6月にタイの国境付近のラマイン地区に到着。
その後、終戦により同地で軍旗を奉焼しました。
連隊の延べ戦死者は、中国戦線で260名、ビルマ戦線で4,278名、大半は無謀なインパール作戦の犠牲者でした。
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「鎮魂」の碑 歩兵第二百十三連隊 (弓6822部隊) 茨城県護国神社前 (平成16年1月12日) |
碑文
昭和12年支那事變勃發し 次いで昭和16年大東亞戰争に突入するや八紘一宇の聖戰のみ旗のもと 支那大陸並びに南方戰線に遠征し 史上最も惨烈を極めたる「インパール」作戦を始め 各作戰に於て 軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪へて善戰敢闘せり 此の間祖國の平和の礎となりて異國の山野に散華戰歿されし戰友や将又幾許ぞ あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖國に捧げける崇高なる戰友の魂魄は 今や髣髴として甦り 春は櫻に匂い秋は紅葉に色染めて 世々是れ照覧し給ふ あゝ尊き哉 清國の神々 戦後三十有余年堅き戰友愛に結ばれし戰友会は み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し 以て不滅の祖國愛の久遠の光を万古不變に輝かすべく その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり
昭和52年11月吉日
建立者 第33師団歩兵第213聯隊(弓6822部隊)戦友会一同
碑名 宮脇幸助書 部隊名 河原右内書 碑文 米田清吉稿 設計施工者 田辺誠司
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