歩兵第214連隊

(通称号:弓6823部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
福島県会津若松
のち
栃木県宇都宮
昭和14年 第33師団 モールメン南方

昭和14年2月7日に編成下令。
3月25日に会津若松の歩兵第29連隊留守隊において編成を完結。

第33師団(弓兵団)所属の水戸、高崎の連隊と共に第11軍の隷下に入り、昭和14年4月4日、新潟港から華中に出征。
湖北省大冶県大冶付近の警備につく。
9月以降、「かん湘作戦」等の各種作戦に参加。
昭和15年4月、江西省安義県造門揚付近に移駐。
昭和16年4月、華北に転進し、山西省で中原会戦などに参加。

太平洋戦争突入するや第33師団は南方軍の戦闘序列が下令され、第15軍の隷下となりビルマへ転進。
昭和16年12月14日、連隊は浦口を出航。
昭和17年1月10日にタイ・バンコクに上陸しビルマへ進撃。
2月1日、タイ・ビルマ国境を通過し、ラーヘン、メソードを経て南部ビルマに進攻。
ビリン付近の戦闘、シッタン東北地区の戦闘、ラングーン付近の戦闘に参加。
3月には北部ビルマに転戦し、レバダン付近の戦闘、パウディゴン付近の戦闘に参加。
4月にはエナンジョンの戦闘、マニワの戦闘に参加。
6月末、インド・ビルマ国境の警備につく。
昭和19年3月、インパール作戦開始。
第15師団が北から攻め、第31師団はコヒマへ向い、第33師団は南方からインパールを攻撃。
将兵は飢餓と疲労、マラリアに冒され次々と斃れ、英印軍の攻撃で全滅する中隊も出た。
7月2日、インパール作戦中止。
連隊の生存者は昭和20年1月17日からのイラワジ会戦に参加。
さらにメイクテーラー付近の会戦にも参加し、ビルマ南部のモールメンに辿り着いた時に終戦を知る。







第33師団歩兵第214連隊戦没者慰霊塔
栃木県護国神社





(平成22年10月14日)

【碑文】

吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国バンコックへ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝ラングーンそしてエナンジヨンの油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。 
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦の転換を余儀なくされた方面軍はインパール作戦を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。 
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。 
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 
茲に吾等はその御遺功をたゝえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。

昭和四十六年九月廿六日
元支那、元ビルマ 派遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊
             生存者一同




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