歩兵第222連隊

(通称号:雪3523部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
弘前 昭和14年 第36師団 西部ニューギニア・ビアク島

昭和14年2月7日編成下令。
弘前にて編成を完結し、北支那派遣軍の隷下に入る。
神戸経由で中国・河北省塘沽タンクーに上陸し、三交鎮、呉城鎮地区の警備につく。
五台作戦後、山西省西地区「ニシ」作戦、高平作戦、晋南作戦、路晋作戦、晋中作戦、中原作戦、第27軍封鎖作戦、太行作戦に参加。
南方戦線に転進するまでの5年にわたり、山西省の東南部の警備、中国の第1戦区軍および共産軍を相手に治安維持に任じた。

昭和18年8月、南方転進の内命。
南京を経て上海に到着と同時に海上機動打撃連隊に編成改正。
11月に出帆するまでの約1ヶ月間、猛訓練を実施。
連隊は「ベンガル丸」「三ヶ月丸」のの2隻に分乗し、第36師団輸送船団と共に出港し、西部ニューギニアのビアク島へ向かう。
連隊は師団の指揮下から離れ第2軍直轄となり、兵力・装備を増強。
「ビアク支隊」となり、飛行場の建設と築城を進める。

昭和19年5月27日、連合軍は砲爆撃の1時間後の午前7時半ごろ、ビアク島東南部ボスネック付近一帯から上陸し、モクメル飛行場に向かって進撃。
敵は米第41師団、支援部隊を含めて約3万名。
ビアク支隊は歩兵第222連隊約3500名、海軍配属部隊約2120名、後方勤務隊員約3700名等の合計1万2800名。
連合軍は戦車を先頭に火炎放射器をもって進撃。
我が軍は寡兵をもって肉薄奮戦し、たびたび敵の企図をくじき後退させたが、各指揮官の戦死が相次いだ。
特に残存主力戦力だった第2大隊の消耗は支隊の士気に甚大な影響を与えた。
敵上陸26日目には食糧、弾薬なく、組織的な抵抗は不可能となり、軍旗を奉焼して玉砕することを申し合わせた。
7月2日、葛目支隊長自決。
その後、支隊に現地自活をしつつ次期攻撃を準備すべし、との軍命令が伝えられた。
各隊は食料を求めてジャングルの中に散ったが、自決者、罹病者が続出し、急速に将兵の数が減った。
終戦後の昭和20年9月上旬、ただちに生存者の捜索を始めたが、救出できた生存者は80余名だった。


ビアク支隊戦没者顕彰碑



ビアク支隊戦没者顕彰碑
(岩手県盛岡市・岩手護国神社


内閣総理大臣 大平正芳 書


(平成21年11月4日)

ビアク支隊戦史

ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。
満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。
以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。
これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。
しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。
しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。

  ビアク島その名忘れそみちのくの
          ますらたけおの聖き奥津城

昭和54年5月27日
ビアク戦友会

(碑文より)

 (顕彰碑より)


ビアク戦

昭和19年5月27日、赤道直下の小島ビアク島に米軍3万が上陸した。
日本軍守備隊は陸軍1万400、海軍2000、合計1万2400名。
多くが飛行場建設のため動員された台湾やインドネシア出身者で占められていた。
このため、基幹部隊である第36師団(雪兵団)歩兵第222連隊3500人と野戦高射砲第49大隊第3中隊100余人は、圧倒的な空軍・海軍力と火力を誇る8倍以上の敵を一手に引き受けるかたちとなった。
これらの戦闘部隊は2ヶ月にわたって天然の洞窟を活用して善戦敢闘を続けた。
「(戦死者の)死体ハ収容セズ」「重傷者ハ自決」。
その凄まじいばかりの戦いぶりは米公刊戦史でも特記されている。
歩兵第222連隊は弘前で編成され、将兵の多くが岩手や青森の出身者だった。
かねて陸軍部内では、ねばり強く「実直な連隊」として知られていた。
この時の戦いで米軍側に死傷病者9700人の損害を与えている。
その後もジャングル内に潜み、皇軍大挙再来の日に敵陣営攻撃の先導となることを期して自存持久に努めている。
戦後、捜索隊により救出された雪部隊将兵はわずか83人に過ぎなかった。(ほかに他部隊の3人)

(参考:土井全二郎著 『生き残った兵士の証言』 光人社 2004年)

(平成23年6月26日追記)




 トップページに戻る   陸海軍部隊リストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送