歩兵第238連隊

(通称号:河3565部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
群馬県・高崎(朝鮮・龍山) 昭和14年 第41師団 東部ニューギニア


朝鮮の龍山で編成。
中国の山西省に急行し昭和14年10月25日、臨汾りんぷんに本部を置き、12月5日から本格的に戦闘に参加。
昭和15年4月からの春季晋南作戦では、中国共産党と熾烈な山岳戦を展開。
包囲攻撃され、補給を断たれ、一時は軍旗を奉焼して全員で打って出ようかという瀬戸際まで追い詰められた。
その後、翼城に駐留。
昭和16年3月から、第15軍撃滅作戦、中原会戦などの各戦闘に参加する。

昭和18年1月、第41師団に南方転進が下令される。
連隊は河北省から青島に集結し、パラオを経由して、2月24日、東部ニューギニアのウエワクに上陸。
6月末、米豪軍がサラモア東方のナッソー湾に上陸し、サラモアに総攻撃をかけてきたため、第51師団が苦境に追い込まれた。
このため連隊主力は同師団の指揮下に入ってサラモアに向かう。
ウエワク~サラモア間は直線距離で700kmを超え、東京~岡山間に匹敵する。
約40日後の8月上旬にサラモアに到着したが、すでに第51師団の全兵力は既に2500名前後まで激減していた。
9月に入り、米豪軍がサラモアの後方のラエに上陸したため、サラモアの日本軍は危機的状態に追い込まれた。
9月10日、第51師団の中野師団長は全軍に撤退を命じる。
海岸線は連合軍に抑えられていたため、人跡未踏の山岳地帯を通って退却する。(通称「死のサラワット山系越え」)
昭和19年3月、連隊は師団の残存兵と共に師団司令部のあるマダンに辿り着く。

4月22日、連合軍は今度はウエワクの西方約180キロのアイタペ、ホランジアに大部隊を上陸させ、日本軍を東西から挟み撃ちしようとしてきた。
日本軍の組織的戦闘は、このアイタペの戦いをもって終止符が打たれた。
もはや戦うに兵なく、武器も弾薬もなく、かろうじて生き残っている者も多くは飢餓に見舞われ、さらにマラリアや赤痢に冒されて〝生きる屍”に近かった。
連隊を含めた日本軍主力は、アイタペの敗戦後は山岳地帯に入り、自活と遊撃戦を展開。
同地で終戦を迎えた。

昭和18年1月の連隊の人員は3981名だったが、帰還できた者は、わずかに75名だった。

(参考:『日本陸軍歩兵連隊』 新人物往来社 1994年10月 2刷発行)







 二三八会 奉納燈籠

 (群馬県護国神社




(平成26年11月16日)






 顕彰碑
 (高崎市・群馬音楽センター前の公園)






(平成26年11月16日)

顕彰碑

明治維新の大業成るや、明治6年旧高崎城内に兵営が置かれ、東京鎮台高崎分営となった。
郷土群馬を中心とした壮丁は徴されて兵士となり、国家防護の責に任じた。
ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来太平洋戦争の終結まで60余年間、国民皆兵制度の下、郷土の健児はここに起居を共にして武を練った。
明治、大正、昭和を通してこれら健児が従軍した戦役は、明治維新の際をはじめとして熊本の乱、西南の役、日清戦役、北清事変、日露戦役、大正3年乃至9年戦役、済南、満洲上海事変、支那事変、太平洋戦争等枚挙にいとまないほどで、ことに太平洋戦争には東部第38部隊として、歩兵第15聯隊を始め、歩兵第115聯隊、同215、85、238、173、330、435、521聯隊の基幹部隊及び大小数十部隊を編成送り出した。
これら諸部隊の健児は、全国陸海空軍部隊に召された県出身将兵と共に、あるいは万里の波濤を乗り越した異郷に、あるいは国内の要所など広大な戦域にその身をささげ、ついに郷土関係戦没者は5万2千余名を算すに至った。
昭和20年8月15日戦争は終止を告げ平和がよみがえった。
その礎にはこれら健児の尊い犠牲があることを忘れてはならない。
すなわち県内外の生存者相寄り、これらの事績を顕彰しその英霊を慰めたく、明治百年の記念の年に際し、兵営跡に碑を建立し、永遠に伝えようとするものである。

昭和43年10月23日
元歩兵第15聯隊並郷土出身陸海空
戦没者合同慰霊祭実施期成連盟

(碑文より)




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