歩兵第25連隊

(通称号:要2221部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
札幌 明治33年 第88師団 樺太(真岡)

日清戦争後、独立第1大隊として創設。
明治32年、歩兵第25連隊第1大隊と改称。
明治35年、中隊を増設し、連隊の編成を完了。
明治36年、第6中隊を中国の山海関へ派遣。

(日露戦争)
明治37年10月下旬、札幌を出発し、第3軍(司令官:乃木希典)の隷下に入る。
連隊は旅順要塞の補備砲台・松樹山を巡る攻略戦に参加、更には203高地の攻撃にも参加した。
明治38年、奉天作戦に参加。
奉天陥落後、連隊は各地の警備に当り、明治39年3月に札幌に帰還。

大正6年4月、満洲駐剳。
奉天の北方・鉄嶺、満州里方面に出動し、大正8年5月に帰還。
大正9年、北部沿海州に派遣され、同10年7月に帰還。

昭和7年、第2大隊が混成第14旅団に編入され満州事変に参加。
第2大隊は昭和9年から約1年間、満州黒河省に駐屯する。

昭和13年3月、連隊は満州・チチハルの南部に移駐。
5月から6月まで徐州会戦に参加。
7月、張鼓峰事件に参加。
昭和14年5月から9月までノモンハン事変に参加し、昭和15年10月に札幌に帰還。
連隊の編成替え後、翌年の11月に樺太の上敷香に移駐、国境警備に当る。

昭和20年4月、歩兵第125連隊の進駐により、連隊主力は逢坂に移駐し、樺太中部地区の警備に当る。
8月9日、北樺太から越境してきたソ連軍と第125連隊が戦闘状態に入り、応戦中に終戦を迎える。
終戦後、逢坂神社境内で軍旗を奉焼。
連隊は帰還準備を始め、約500名が除隊させたが、8月20日に突如、真岡地区からソ連軍が襲撃。
艦砲射撃の下、上陸を開始してきたので、やむなく連隊はこれを迎撃。
その結果、終戦後にもかかわらず多数の死傷者を出す。
8月23日、日ソ両軍の停戦協定が成立し、矛を収める。


札幌護国神社・遺品殿展示資料
軍旗祭の写真 歩兵第25聯隊軍旗
於 樺太上敷香

第43回軍旗祭(昭和17年7月22日)
旗手 陸軍少尉 高宮行男
慰霊祭場の写真 歩兵第廿五連隊慰霊祭場
軍装検査模様の写真 軍装検査の模様
菊の御紋章 菊の御紋章

戦前25連隊より予約がありしに敗戦となり
不必要となったものを当社に寄進された

奉納者 米原仏具店殿

(説明板より)
軍旗の写真 歩兵第二十五聯隊軍旗
軍旗遺影 歩兵第二十五聯隊軍旗遺影
遺品 歩兵第25連隊関係遺品

(平成22年5月26日)




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