歩兵第2連隊

(通称号:照7746部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
茨城県水戸 明治7年 第14師団 パラオ諸島ペリリュー島

日露戦争時は第1師団隷下の部隊として出征しましたが、明治41年9月の軍備拡張によって新設された第14師団に所属が変更され、駐屯地も千葉県の佐倉から茨城県の水戸に移りました。
大正7年の「シベリア出兵」では、沿海州方面警備のためハバロフスクに出動。
その後、第3大隊は「尼港にこう大虐殺」で知られる約4千のパルチザンとの戦いで、一般市民も含めた約1,500名とともに全滅してしまいました。
「上海事変」に出動し、停戦後は満州戦線に転用され、昭和9年5月に日本に帰還するまでに、大小55回に及ぶ戦闘に参加しました。
昭和12年の日中全面戦争により、動員下令。
保定会戦では軍司令官から感状を授与されました。
昭和13年、山西作戦・徐州会戦・黄河北岸陽動作戦に参加。
昭和14年9月26日に復員下令、水戸に帰還しました。
昭和15年8月、第14師団の軍備改編のため満州に永久駐屯となり、北満の嫩江ノンコウに駐屯。
日米開戦で、第14師団の南方転用のため昭和19年にパラオ諸島のペリリュー島の守備につきました。
その後、歩兵第15連隊第3大隊、独立歩兵第346大隊、師団戦車隊などが増加。
陸軍約6200名、海軍約3,650名、合計約1万名となり、全島を洞窟要塞化して米軍の来攻に備えました。
昭和19年9月15日、米軍第一陣が上陸しましたが、米第1海兵師団は将兵の50%の死傷者を出して2週間後には撤退。
米軍の「作戦は3日間で終了する」はずが、守備隊が「万歳突撃」を一切行わず、ゲリラ戦法による徹底抗戦をしたため11月末まで続きましたが、11月24日、遂に中川大佐はパラオ本島の師団司令部に訣別電報を送り自決。
連隊は玉砕しました。


佐倉
佐倉兵営跡の碑

『佐倉兵営跡』碑
(千葉県佐倉市・佐倉城址公園自由広場)

昭和41年建立
国立歴史民俗博物館建設のため現在地に移転。
題字は歴代連隊長の今村均陸軍大将。



(平成18年8月30日)

副碑・碑文

こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。
佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。
同7年歩兵第2連隊がおかれた。
後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。
こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。

昭和41年10月吉祥日

衛兵所跡


衛兵所跡

(千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館入口)

ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

(説明板より)


(平成18年8月30日)

衛兵所跡古写真 (説明板より)

佐倉城から佐倉連隊兵営へ

廃藩の後、佐倉藩堀田氏11万石の居城だった佐倉城は、明治政府の方針により陸軍の兵営に転用されることになった。
城は解体され、郭内に住んでいた士族たちは移転させられた。
そして徴兵制により、庶民を主体とする兵士が集められたのである。
兵営の敷地には、彼らを収容する兵舎や連隊本部・厩うまや・酒保しゅほ・病室・弾薬庫・練兵場など各種施設が置かれた。
文明開化の時代を象徴するように、最初建てられた兵舎はフランス式であり、そのことは発掘された洋式のジェラール瓦などからもわかる。
起伏のあった地形は大幅に埋め立てられ、平坦地が造成された。
施設は拡張・改築され、漆喰しっくい仕上げの白壁で四隅にコーナーストーンを貼った当初のフランス式兵舎は、やがて下見板したみいた張りの和風の外観に変わっていく。
兵舎の建物は、戦後も新制中学校の校舎として使用されたりしたが、国立歴史民俗博物館の建設にともない最終的に姿を消した。

(国立歴史民俗博物館特企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』パンフレットより)

佐倉連隊関係略年表
1873年 明治 6 3月 旧佐倉城の士族住居の移転、兵営建築が開始される
1874年 明治 7 3月 歩兵第2連隊創設
5月 歩兵第2連隊第1大隊、佐倉営所に入る
同時に佐倉営所病院開設
12月 歩兵第2連隊、日比谷練兵場にて軍旗を拝受する
1875年 明治 8 5月 歩兵第2連隊本部、東京から佐倉に移る
1876年 明治 9 5月 歩兵第2連隊第3大隊、佐倉に移駐
10月 不平士族永岡久茂らの千葉県庁襲撃計画発覚(思案橋事件)
これに際し、歩兵第2連隊は千葉町に警戒出動する
1877年 明治10 2月 歩兵第2連隊、西南戦争に出動(戦死者339名)
1884年 明治17 6月 増築により、宇都宮の第2大隊、佐倉に移る
1885年 明治18 7月 歩兵第2連隊、歩兵第3連隊とともに歩兵第2旅団に属す
1889年 明治22 5月 佐倉営所病院、佐倉衛戍病院と改称
1894年 明治27 9月 歩兵第2連隊、第2軍に属し日清戦争に出征
1895年 明治28 6月 歩兵第2連隊、佐倉に凱旋
7月 佐倉収容の清国人捕虜2名病死(8月にも1名病死)
1896年 明治29 1月 千葉憲兵分隊佐倉町屯所が置かれる
3月 佐倉連隊区司令部設置
5月 第2・第3大隊、威海衛守備に赴く
1897年 明治30 3月 歩兵第2連隊第1大隊、東京青山に移駐
代わって近衛歩兵第4連隊が佐倉兵営に入る
1899年 明治32 3月 近衛歩兵第4連隊と入れ代わり、歩兵第2連隊が佐倉に戻る
1904年 明治37 3月 歩兵第2連隊、日露戦争に出征
旅順攻略戦・奉天会戦に加わる
1905年 明治38 4月 佐倉町の寺院等にロシア軍捕虜300名が収容される
(5月、習志野へ移送)
1906年 明治39 2月 歩兵第2連隊、佐倉に凱旋
1907年 明治40 9月 歩兵第2連隊は第14師団に編入
代わって歩兵第57連隊(1905年青森にて創設)が第1師団に編入
千葉一円を徴募区とする
1909年 明治42 3月 歩兵第2連隊、佐倉から水戸へ移駐
歩兵第57連隊、佐倉兵営に入る

(国立歴史民俗博物館特企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』パンフレットより抜粋)


水戸
水戸歩兵部隊の跡碑



『水戸歩兵部隊の跡』碑

(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園真向かいの公園)





(平成18年5月30日)

碑文

大東亜戰争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治7年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治42年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戰争の戰勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下5千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和19年11月遂に玉砕し 70年の歴史を閉じた
また歩兵百二聯隊は ニューギニアに転戰敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第37部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戰の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である

昭和41年4月
水戸歩兵聯隊遺跡保存会

(碑文より)

尼港殉難者記念碑



尼港殉難者記念碑
(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園真向かいの公園)

大正11年3月建立



(平成18年5月30日)

尼港殉難者記念碑

この碑は、大正9年(1920)シベリヤ出兵の際、尼港事件にこうじけんに遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである。

尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港にこう)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
大正8年4月第14師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第2聯隊第3大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に至り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
9月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
2月5日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、28日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため3月12日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、19日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
5月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「5月24日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、6月3日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。

平成8年5月24日

水戸歩兵第二聯隊会
(社)日本郷友連盟茨城県支部
建之
(撰 加藤保男

(説明板より)

水戸歩兵部隊の跡



水戸歩兵部隊の跡
(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園真向かいの公園)





(平成18年5月30日)




ペリリュー島戦没者慰霊碑
(茨城県水戸市・茨城県護国神社





(平成16年1月12日)

碑文

明治7年建軍以来、幾多の困難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第2聯隊は、大東亜戦争酣の昭和19年3月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男大佐は、1万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
9月15日、4万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。
爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、持久の任務を遂行したが、11月24日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武功は畏くも天聴に達し御嘉賞11回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、世界戦史に比類なき精強部隊の名を残した。
ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、50年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。

平成5年(1993)11月24日
歩ニ会・ペリリュー島慰霊推進会

碑文

ペリリュー島守備部隊

陸軍部隊
歩兵第2聯隊
歩兵第15聯隊第2大隊・第3大隊及 同配属部隊
独立歩兵第346大隊
第14師団戦車隊
特設第33、第35、第38機関砲隊
海上機動第1旅団輸送隊ノ一部
第14師団通信隊ノ一部・同経理勤務部ノ一部・同野戦病院ノ一部
第23野戦防疫給水部ノ一部
第3船舶輸送司令部パラオ支部ノ一部

海軍部隊
西カロリン方面航空部隊
第30建設隊ノ一部
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第3南西方面航空廠ノ一部
第3通信隊ノ一部
第30工作部ノ一部
第214設営隊
第3隧道隊


ペリリュー島守備隊

陸軍:6,822名
海軍:3,646名
合計:10,468名

ペリリュー地区隊直轄部隊
歩兵第2連隊本部
歩兵第2連隊第1大隊
歩兵第2連隊砲兵大隊(第1中隊・1個小隊欠、迫撃砲1個中隊配属)
歩兵第2連隊工兵中隊
独立歩兵第346大隊第1中隊
第14師団戦車隊
その他諸隊
海軍部隊

北地区隊
独立歩兵第346大隊(第1中隊欠)
歩兵第2連隊第3中隊
野砲1個中隊
衛生中隊の一部
7.5cm野砲×4、47mm速射砲×1、37mm速射砲×1、高射機関砲×7

東地区隊(9月14日夜に地区隊主力と合流する)
歩兵第2連隊第3大隊(第7中隊欠)
歩兵砲1個小隊
衛生小隊
歩兵砲×2、37mm速射砲×1、高射機関砲×3

西地区隊
歩兵第2連隊第2大隊(第7中隊配属)
野砲1個小隊
7.5cm野砲×2、47mm速射砲×2、37mm速射砲×2、高射機関砲×4

南地区隊
歩兵第15連隊第3大隊
7.5cm野砲×1、47mm速射砲×1、37mm速射砲×1、高射機関砲×1

(参考:『歴史群像』 2009年8月号)

(平成21年12月31日追記)


ペリリュー島の戦い

昭和19年4月26日、第14師団が島嶼防衛に適した編制替えをしてパラオに進出。
上級司令部である第31軍の作戦は、ペリリュー、アンガウルを重要航空基地として確保し、ペリリュー、アンガウル、ヤップ方面に米軍が来た時は、パラオ本島の兵力を海上機動で送り込むというもの。
9月6日から10日間にわたり米機動部隊艦載機による空襲。
上陸支援の艦砲射撃を受けるが、洞窟陣地とコンクリート製トーチカのおかげで守備隊にはほとんど損害なし。
9月15日、米第1海兵師団(28,400名、うち歩兵兵力は約12,000名)が西南海岸に上陸開始。
中川連隊長は、東地区隊の全兵力を地区隊反撃予備として島中央部に移動させる。
西地区(米軍名:ホワイトビーチ)では、日米が入り乱れて近接戦闘を展開。
このため、米軍は友軍相撃の危険から砲撃できない。
守備隊は西地区(米軍名:ホワイトビーチ)、南地区(米軍名:オレンジビーチ)で、地区隊予備を海岸に投入して戦闘を続行。
米軍は後続の海兵第5連隊第2派が日本軍地区隊の間隙に上陸。
中川連隊長は、第1号反撃計画に基づいた逆襲を発動。
砲兵と迫撃砲の支援を受けて、第1大隊、第7中隊、師団戦車隊(歩兵600名、九五式軽戦車17両)が反撃に出るが、開始時間が遅かったため米軍に防御態勢を整える時間を与えてしまい、対戦車砲、バズーカの猛射を受けて反撃に失敗する。
第3大隊を中心とする南地区隊でも反撃を繰り返したが、大隊長が戦死し、兵員の60%を失い、飛行場東側の海軍防空隊陣地まで後退する。
9月16日、米軍、飛行場を占領。以後、北部へ攻撃を指向する。
9月16日夜半、中川連隊長は海軍を含めた残存部隊を「大山」を中心とする高地に後退させる。
通信が通じず、撤退命令が届かなかった南地区隊は孤立。
9月18日、南地区隊全滅。(生存者皆無の為、状況不明)
9月19日には歩兵第2連隊の戦力は3分の1に低下。
9月22日、歩兵第15連隊の1個大隊がパラオ本島から舟艇でペリリュー島に逆上陸を敢行するが、米軍の攻撃を受け大損害を出す。
9月24日朝、逆上陸部隊の約半数がどうにか到着し、中川大佐の指揮下に入る。
主隊に合流できなかった一部の逆上陸部隊は、北地区隊と共に「水戸山」まで後退し、そこで持久戦を続けた後、10月2日に玉砕した。
9月23日、米第1海兵連隊は損害続出し後退。(損耗率54%・事実上の壊滅状態)
10月1日、米戦車大隊が損害続出のため戦闘不能となる。(戦車の半数を失う)
10月4日、米第7海兵連隊も損害続出のため戦闘不能となる。
10月15日〜30日、米第1海兵師団は米陸軍第81歩兵師団と交代してペリリューから撤退する。
11月5日、守備隊の兵力が480名まで減少する。
11月24日、守備隊は最期を伝える電文「サクラ・サクラ」を発して玉砕する。

玉砕後、連隊本部と行動を共にしていた56名の生存者が少人数の遊撃隊に分散して戦ったが、11月27日までに全滅。
海軍部隊の60名が脱出を試み、10名ほどがパラオ本島に辿りついたが、敵前逃亡扱いになるため再出撃して戦死。
「天山」にいた約80名は部隊の玉砕を知らずに終戦後も抵抗を続け、終戦2年後に最後に生き残った34名が降伏した。

(参考:『歴史群像』 2009年8月号)

(平成21年12月31日追記)






顕彰碑

(パラオ共和国・ペリリュー島)

旅日記参照)


(平成22年9月13日)




顕彰碑

(パラオ共和国・ペリリュー島)




(平成22年9月13日)

【碑文】

顕彰碑
歩兵第2聯隊長中川州男大佐の指揮する下記のペリリュー守備部隊は、昭和19年(1944)4月下旬
この島に転進、先着の海軍部隊とともに鋭意作戦を準備した。
同年9月15日米軍部隊が上陸するや絶対優勢の戦力に対し勇戦敢闘2ヶ月余の長期にわたり、
よく持久の任務を遂行したが11月24日ついに戦力尽き、中川大佐は自決、残る将兵も遊撃戦に転じ
祖国のため壮烈な最期をとげた。
この地は平和を念じて雄々しく散華した英霊に感謝し、その武勲を顕彰するにふさわしい戦跡である。
ペリリュー守備部隊
陸軍部隊 海軍部隊
歩兵第2聯隊
歩兵第15連隊第2大隊 第3大隊 
  及配属部隊
独立歩兵第346大隊
第14師団戦車隊
特設第33 第35 第38機関砲隊 
海上機動第1旅団輸送隊ノ一部
第14師団通信隊ノ一部
同経理勤務部ノ一部 
同野戦病院ノ一部
第23野戦防疫給水部ノ一部
第3船舶輸送部ノ一部
西カロリン方面航空部隊
第45警備隊ペリリュー派遣隊
第3通信隊ノ一部
第214設営隊
第30建設隊ノ一部
第3南西方面航空廠ノ一部
第30工作部ノ一部
第3隧道隊
昭和64年2月(FEBRUARY)
歩2会ペリリュー島慰霊推進会


鎮魂の碑
(パラオ共和国・ペリリュー島)

ここが、中川連隊長が自決した場所と言われているが・・・
実際は、ここではない。
多分、ここで軍旗を奉焼したので「終焉の地」としたのではないかと思われる。


(平成22年9月13日)




鎮魂の碑
(パラオ共和国・ペリリュー島)




(平成22年9月13日)

【碑文】

終焉の地

この大山周辺は、日米両軍によるペリリュー島攻防戦の最後の激戦地である。
歩兵第2聯隊の本部はこの地に位置し聯隊長中川州男大佐は、攻撃を反復する米軍に対し、
守備隊の持久戦闘を指揮し、独創の肉攻斬込戦法により■大な戦果をあげ頑強な抵抗を続けた。
しかし昭和19年(1944年)11月下旬にはついに守備隊の戦力は尽き果て戦況急迫するに至った。
11月24日中川大佐はこの場所■■いて軍旗を奉焼し「サクラ・サクラ」の訣別電報を発したのち
作戦指導の (〜以下判読不可能〜)


連隊長 陸軍大佐 中川洲男くにお

明治31年、熊本県出身。陸軍士官学校30期。
中肉中背、無口、平凡、真面目という人。
ペリリュー島に着任と同時に指揮下の大隊長に猛訓練を厳命。
「兵の精強さはすべて訓練による。戦いに勝てる軍隊とは、訓練どおりに戦い得る軍隊である」
ペリリュー島守備隊は、歩兵第2連隊3,590名を中核に、増援の陸海軍部隊を加えて7,000余名。
昭和19年9月15日、米軍がペリリュー島に上陸作戦を開始。
米軍は第1海兵師団、第81歩兵師団を中心に総勢48,700名以上。
中川大佐が造った陣地は強固で、米軍の砲爆撃にも人員、兵器とも殆ど損害を受けず、頑強、かつ猛烈に、訓練通りに迎え撃つ。
上陸1日目の夜には米軍は早くも死傷1,300名近くの大損害を受ける。
米軍は2〜3日で占領できると予測ていたが、上陸2週間経っても中川大佐の本陣のある中央台地群は手付かずのまま。
日本軍の洞窟陣地は、旧燐鉱石の廃坑を利用し、深い竪坑に横坑を整備、モグラとして戦う作戦を取り続け、突撃に転じたくなる部下の焦りをきつく戒めた。
「一兵といえども過早の出撃は許さぬ」
ペリリュー島の執拗にして頑強な抵抗と、少数精鋭による夜間斬り込みは各方面の日本軍全体の士気に活を入れる作用となる。
ラバウルの今村均大将は「ペリリュー精神を見習え」と言ったという。
また、大本営では「ペリリューはまだ落ちない」が朝の挨拶代わりとなり、天皇は毎朝侍従武官に「ペリリューはどうなったか?」と聞かれるのが日課となった。
11月20日、米軍は連隊本部の100メートル前面に迫るが、中川大佐は玉砕突撃を許さなかった。
11月24日、米軍が数十メートルに迫った時に、軍旗を奉焼し、部下に対して各個にゲリラ戦の続行を命じ、副官の根本甲子太郎大尉に介錯を頼んで自決。
「軍人は最後の最後まで過早の死を求めず、戦うのが務めというものだ。百姓がクワを持つのも、兵が銃を握るのも、それが務めであり、務めは最後まで果さんならんは同じこと。務めを果す時は誰でも鬼になる。ましてや戦じゃけん。鬼にならんで、できるものじゃなか」
根本大尉に語った中川大佐の、死に臨んでの最後の言葉。
守備隊の抵抗は、昭和22年4月21日に残存日本兵34名が投降するまで続いた。

(参考:半藤一利著『戦士の遺書』)

(平成19年8月12日追記)







中川連隊長最期の地
(パラオ共和国・ペリリュー島)





(平成22年9月13日)



中川連隊長最期の地

(パラオ共和国・ペリリュー島)

この洞窟で歩兵第2連隊長の中川大佐が自決したという



(平成22年9月13日)

ペリリュー島の「女性兵士」伝説

ペリリュー島の激戦場で、うら若い女性兵士がアメリカ海兵隊員86名を倒したのち玉砕したという「伝説」。
彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。
その時、彼女は機関銃を乱射して抵抗し、海兵隊の死傷者は86名を数えた。
ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意を引いている間に背後に迂回してやっと射殺したという。
この日本人女性は、南洋庁と第14師団司令部が所在したコロール島4丁目の一流料亭『鶴の家』の22〜23歳の美人芸者「久松」ではないかという。
独立歩兵第346大隊長、引野通広予備役少佐(陸士26期・53歳)と恋仲となり、部隊がペリリュー島へ渡ると、髪を切り軍服をまとって同行したという。
ペリリュー島北部の「水戸山陣地」を守った約600人の引野隊(独歩346大隊)は9月末までに全滅した。
400人ばかりいた島民は既に5月頃、数人の慰安婦を含め全員がパラオ本島へ疎開していたので、米海兵隊と戦った女性は「久松」以外はありえないことになる。
元島民の証言によれば、「久松」の本名は梅田セツ。
親に売られて島に来たという、コロールきっての美人の人気芸者。
身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、合う軍靴がなかったので地下足袋をはいて出陣したという。
機関銃で米兵を射ちまくり、本人は重傷のまま病院へ運ばれ、2週間後に息を引き取ったともいう。

(参考:『諸君 2008年6月号』)

(平成20年8月17日追記)


澄川元少将の残存日本兵救出

澄川道男すみかわみちお(明治29年8月5日〜昭和52年6月28日)
山口県出身の海軍少将(海兵45期を3番で卒業)
海軍兵学校を卒業後、ほぼ一貫して海軍航空のポストを歩み、第4艦隊参謀長としてトラック島で終戦を迎える。
終戦後も投降しないペリリュー島の生き残り日本兵を説得するため同島に赴き、1ヶ月間粘り強く説得を続けて34名の日本兵の救出を成功させた。

参考:『歴史読本 2007年9月号』

(平成19年9月5日追記)





「約2年6ヶ月西地区で潜伏していた壕から道路に整列」
(パラオ共和国ペリリュー島)

ホテル『マユミ・イン』の食堂に展示されていた写真


(平成22年9月12日)
「東地区に潜伏していた永井軍曹以下6名が帰順整列」
「米軍司令部前に山口少尉以下28名整列し帰順式」



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