歩兵第32連隊

(通称号:山3475部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
山形県山形市 明治31年 第24師団 沖縄


日清戦争後の軍備拡充に伴い、明治29年4月に秋田に設置され、編成時は第8師団に所属。
日露戦争では、当時、弘前の第8師団の隷下にあった連隊は、乃木希典司令官の第3軍の予備隊として後方勤務につき、旅順では戦闘の機会を与えられなかった。
続く黒溝台戦では、第2・第3大隊は全滅に近い損害を受けながらも戦闘に耐え勇名を馳せる。
生還者は将兵約3,000名のうち、1,000名に満たなかった。
日露戦争後、衛戍地が山形に移り、第2師団に編合された。
兵営のあった山形城の異名からとって「霞城連隊」とも「霞城部隊」ともいわれた。
日露戦争後のシベリア出兵では北樺太の警備。
大正14年、軍備整理で第8師団に編合され、青森・弘前・秋田の各連隊と兄弟連隊となる。
満洲事変では1個大隊程度のみが派兵。
昭和12年、日中戦争勃発後、満洲駐剳ちゅうさつの命を受け、11月17日、霞ヶ城(山形城)を出発しソ満国境地帯の警備にあたる。
昭和14年10月、軍制改革により第24師団に転属。
兵員構成も現役兵は北海道出身者と入れかわり、山形県出身者は幹部下士官と一部の古参兵のみとなる。
山形の郷土兵は「雪部隊」「三原部隊」に分散された。
大東亜戦争末期までソ満国境警備。
昭和19年3月、1個大隊がサイパン島に派遣される。
昭和19年7月8日、連隊主力に出動命令が下り沖縄へ派遣される。
連隊主力は沖縄の北の渡見地地区に上陸しの後、嘉手納前面の洞窟陣地の構築を行なう。
また、連隊の一部は宮古島に向かった。
第24師団が沖縄防衛第32軍に編入されたため、連隊には現地召集の新兵1,800名が配属された。
昭和19年11月末、南部島尻の糸満地区に転進して洞窟陣地の構築を始める。
昭和20年3月26日、米軍上陸。
6月23日、軍司令官牛島満中将が自決。
米軍は7月2日に沖縄戦の終結を告げたが、当初、現地召集した軍人・民間人を併せて5,000名の兵を持っていた連隊は、200名足らずになりながらも終戦も知らず国吉台の丘陵の洞窟で過ごしていた。
8月22日、米軍情報将校が軍使として北郷連隊長に面会を申し入れてきたことで敗戦を知り、8月29日に米軍の収容に応じる。
この時の生き残りは将兵約50名だったという。


山形歩兵第32連隊之碑


山形歩兵第32聨隊之碑
(山形県山形市・霞城公園=山形城

昭和43年7月 山形三十二聨隊会建之



(平成17年6月18日)

建碑由来

霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第32聨隊は明治31年3月軍旗親授とともにここに創設され尓来鋭意國防訓練に励み霞城聨隊と稱す。
明治37,8年日露戰役には黒溝台の戰斗に勇名をはせ、大正7年朝鮮守備、同11年サガレン派遣、こえて昭和7年満洲事変には万里の長城古北口等の戰斗に参加して数々の功績を樹てり、同12年再度渡満しソ満國境警備の任につき原田山ノモンハン事件に出動し同16年遂に大東亜戰争を迎う同19年主力は沖縄本島に轉進し歩兵1ヶ大隊をメレオン島に派遣す。
翌20年3月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戰敢斗し多大の損害を與えたるも聨隊もまた死傷續出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を續けること5ヶ月余、遂に終戰の大命を拝し同年8月28日夜軍旗を奉焼して終る。
ここに異國の丘に眠る幾多戰友の武勲をしのび恒久平和えの願ひをこめて霞城聨隊跡にこの碑を建て永久に伝う。

昭和43年7月 山形三十二聨隊会

歴代の連隊長

初代 岩本 貞英
2代 安村 範雄
3代
6代
森川 武
4代 高山 公通
5代 山本 延身
7代 岡澤 慶三郎
8代 柴 豊彦
9代 大川 盛行
10代 山田 留太郎
11代 宮路 太郎
12代 倉茂 三蔵
13代 堀之内 直
14代 佐藤 正三郎
15代 田中 清一
16代 阿部 規秀
17代 山本 源右エ門
18代 野地 嘉平
19代 川村 修
20代 泉 可畏翁
21代 北郷 格郎

(銘板より)


歩兵第32連隊跡の碑



「歩兵第三十二聯隊趾」の碑

(山形城二の丸北不明門跡)




(平成17年6月18日)

歩兵第32連隊補充隊=東北第138部隊


沖縄戦 

昭和20年6月19日頃、軍としての組織的な戦闘は終わり、牛島軍司令官と長参謀長は、23日摩文仁の丘で自刃し、沖縄地上作戦の終末を告げた。
各師団長も自決し、軍や師団としての指揮組織は消滅したが、残存部隊でなおも遊撃戦を続けたものが少なくない。
その代表的なものとして、歩兵第32連隊がある。
連隊長以下数百名は、完全な組織をもって国吉付近の洞窟陣地に健在し、終戦後まで遊撃戦を継続し、敵を悩まし続けた。
米軍から戦争は終わったと伝えられても、敵の謀略かと疑い、軍使を派遣し真偽の程を確かめた後、堂々と降伏したという。

(参考:田中賢一著 『帰らぬ空挺部隊』 昭和51年10月30日 原書房 発行)

(平成30年12月18日追記)


連隊長 北郷格郎大佐

沖縄で軍司令部が崩壊した後も終戦まで勇猛果敢に抵抗し、8月28日に軍旗を奉焼し、29日に武装解除を受けたが、連隊長の北郷格郎大佐は、「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と言って、最後まで「降伏」という言葉を吐かなかったという。

参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」

(平成17年7月23日追記)


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