歩兵第38連隊

(通称号:雷3211部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
奈良 明治31年 第29師団 グアム島

明治29年12月、大津歩兵第9連隊に創設。
第4師団歩兵第19旅団に編入され、明治30年、京都の深草に移駐した。
明治34年、台湾に派遣。
明治36年、朝鮮に駐屯。
日露戦争では、大陸に進出し、明治37年5月10日、遼東半島塩大澳に上陸した。
金州、得利寺、遼陽の各作戦、奉天会戦に参加して、明治38年12月に帰還。
明治40年、編成改編により第16師団隷下に編入。
大正8年、満州に渡り、2年間旅順、大連の警備に当たる。
大正14年の軍縮によって廃止された歩兵第53連隊に代わり奈良に駐屯。

昭和4年から2年間、満州の長春に、その後の2年間をチチハルに駐屯し、各地の警備に当たる。
昭和12年、日中戦争が勃発し、北支に派遣。
塘沽に上陸し、天津を経て南趙扶鎮に進出、9月20日から大城付近を攻撃し、安慶、東馬村を占領。
中国軍の重要拠点沙河橋鎮を攻撃し、激戦の末に攻略する。
11月5日、大連に集結して上海派遣軍に編入される。
11月11日、大連から揚子江を上って徐六経口に上陸、常熱に進出し、無錫周辺を攻略する。
12月13日、南京を攻略。
昭和13年2月、華北へ転進して高邑付近の警備に付く。
同年5月、徐州作戦に参加し、金郷、徐州北方高地の九里山と占領し5月20日に徐州を占領。
翌日には西南方へ逃走する中国軍を追撃するため反転し、これを追ったが、中国軍が追撃を阻止するため黄河南岸の堤防を破壊して氾濫をさせ、連隊は河南省尉氏付近で水中に孤立。
第10師団に救出されるが追撃は停滞してしまい、東方に反転した。
8月末、漢口攻略作戦のため盧州に集結。
9月に商城を占領し、大別山系の突破作戦を開始。
敵を撃破しながら約1ヶ月後に突破に成功した。
昭和14年4月、南昌作戦に、5月には襄東作戦に参加した後、漢口に集結して奈良に帰還。

昭和16年4月、関東軍隷下の第29師団に編合され満州遼陽に移駐して警備に当たる。
昭和19年2月19日、第29師団に南方マリアナ方面への派遣命令が下る。
2月20日、遼陽を出発し釜山に集結、広島市宇品を経てマリアナに向かう。
2月29日、米軍の魚雷攻撃を受けて歩兵第18連隊を乗せた崎戸丸が沈没。
連隊が乗った安芸丸も第一船倉に魚雷を受けたが、30数名の死者を出しただけで沈没は免れた。
3月4日、グアム島に上陸し、直ちに陣地構築を開始した。
7月21日、米軍がグアム島に上陸。
米軍上陸地点の真正面のアガット湾地区の警備をしていた連隊は、米軍を海岸近くまで引き寄せて一斉に砲撃を開始。
一時、米軍を撃退したが、連隊が海岸線から撤退するやいなや米軍の熾烈な爆撃と艦砲射撃により、第1大隊、第2大隊はほぼ全滅してしまった。
その夜、残存兵を結集して末長常太郎連隊長が自ら指揮して夜襲を決行したが、末永連隊長以下、大半が戦死し夜襲に失敗する。
米軍上陸の初日に比較的軽い損害だった第3大隊も夜間攻撃の命を受け、翌日まで続く凄まじい攻撃を行なう。
翌朝、海岸には敵味方入り混ざり折り重なった死体の山を築き、第3大隊はほぼ全滅。
それでも生き残った兵士たちはジャングルに逃げ込み戦い続けた。

昭和20年9月15日、終戦1ヵ月後に敗残兵の主力が米軍に正式投降したが、その後、歩兵第38連隊の輜重兵である『元日本兵・横井庄一』が現地人に発見され、昭和47年2月2日、戦後28年目にして日本に帰還した。


糧秣倉庫
(現:奈良教育大学教育資料館)
糧秣倉庫 糧秣倉庫
糧秣倉庫 糧秣倉庫

奈良教育大学教育資料館

【設置の趣旨・目的】
教育資料館は、我が国の学制発足以降における奈良県下の初等中等教育に関する資料を中心として、教育関係資料を収集、整理し、これを展示並びに保管する。
また、これらとともにこれと関連した調査研究を行い、広く教育研究に資することを目的として設置された。
【建築年及び沿革】
明治41年、陸軍連隊糧秣庫として建築された。
本学では、まず附属図書館倉庫、工作実習室、ついで書類、物品倉庫として使用、このたび教育資料館に改修した。
【建物の構造】
煉瓦造平屋建 屋根日本瓦 (玄関鉄骨造)
【建物の面積】
346u

【利用のご案内】
開館時間
曜日=月曜〜金曜
時間=9時〜15時30分
休館日
国民の祝日に関する法律に定める休日
開学記念日(11月18日)
12月28日から翌年1月4日まで

(パンフレットより)

奈良教育大学



奈良教育大学
(奈良市高畑町)





(平成19年4月10日)

奈良連隊跡記念碑



奈良聨隊跡記念碑

(奈良第2地方合同庁舎)

奈良教育大学の隣り。



(平成19年4月10日)

奈良聯隊跡記念碑々文

この南側約4萬5千平方米の地域に設けられた兵營には明治41年歩兵第53聯隊が創設され大正14年の軍縮にあたり癈止され その跡に歩兵第38聯隊が京都から移駐した
同聯隊は昭和16年の軍備改編により満洲遼陽に移駐して 新設第29師團の基幹となり その跡に歩兵第153聯隊が新設されたが昭和20年終戦となる
この兵營に駐屯した将兵の數は延7萬におよび シベリヤ出兵 満洲事變 支那事變に引續き大東亞戰争に参加し遠くシベリヤより満洲支那大陸 東南アジア及び太平洋諸地域に亘り赫々たる戰果を擧げた
又當時の兵營は盡忠報国の至誠に燃ゆる若人の道場であり 大和民族傅統の日本精神 即ち生を捨て義をとり 名節を尊び進んで國難に赴き従容として死につく大和魂の練磨と武技の鍛錬に精進した誠に意義深きところであった
茲に有志相圖り由緒ある奈良聯隊跡を偲び 先輩戰友の遺勲を永く後世に傅える為記念碑を建立する

昭和44年3月24日建之
奈良聯隊跡記念碑建設委員會

奈良第2地方合同庁舎


奈良第2地方合同庁舎
(奈良市高畑町552)

奈良地方法務局
自衛隊奈良地方協力本部
奈良労働基準監督署


(平成19年4月10日)

南京攻略戦

【投降兵受け入れ拒否問題】

第16師団の中島師団長は南京攻略戦においては、中山門(東門)から北の太平門、玄武門、和平門を担当していた。
その周辺一帯は蒋介石の精鋭部隊「教導総隊」が防衛していた。
そのため、城門陥落と前後して、南京から脱出しようとする支那軍部隊と、第16師団は死闘を演ずることになる。
紫金山を中心に、東の湯水鎮とうすいちん(南京より東に約25キロ)から、西の和平門や太平門に至るまで、「数里の長きに亘って」激戦と、死闘と、投降が続いた。

歩兵第38連隊副官であった児玉義雄大尉は、戦後になって次のように回想する。
引用は「証言による『南京戦史』D」からである。
《連隊の第一線が、南京城1、2キロ近くまで接近して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた。(略)部隊としては実に驚き、困却しましたが、命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。》

これが12月12日か13日のことであったと、児玉大尉は振り返る。
歩兵第38連隊の「戦闘詳報」によれば、このころ歩兵第38連隊は、紫金山北側の興衛村から和平門東側の十字街近辺にいた。
その紫金山北側一帯、即ち「興衛村及び十字街付近」は、すでに支那軍の手で家屋が焼き払われていた。
住民はほとんどいなかった。
しかも、この辺り一帯は「敵ノ平素ニ於ケル演習地帯」であった。
つまり、支那軍は地理に明るかった。
そこに血路を求めて、第38師(支那の師団)、第48師、教導総隊が逆襲して来たのであって、降伏してきたのではない。

これに対して師団副官(第16師団)は「支那兵の降伏を受け入れるな」と電話で伝令した。
当然であろう。
すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。
それを佐々木到一少将(第16師団歩兵第30旅団長)は拒否していた。
そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。
このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、自軍の戦力をそぐことになる。
それは自軍の部隊の敗北を招くかもしれなかった。

日本軍にも自己防衛の権利があったのである。
従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、かならずしもない。
投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。
むしろ戦闘行為に属すると、認識された。

ハーグ陸戦法規は「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」(第23条)を禁じていた。

紫金山周辺は、旅団命令(第16師団歩兵第30旅団)の冒頭に指摘されたように「敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在す」という状態にあった。
それどこか、紫金山周辺の敵軍は山麓の至る所で猛反撃してきていたのである。
日本軍から見ると、組織としての全軍的な降伏がないまま、ある一ヶ所では降伏してくるが、そのほかでは猛攻してくるという、バラバラの支那軍であった。
組織的な整然たる行動はなかったのである。

ダーディン記者は『ニューヨーク・タイムズ』(1938年1月9日付)において次のように指摘する。
《配下の参謀にさえ知らされなかった唐生智の逃亡は、支那軍を、指揮官不在とした。そして、それが完全なる崩壊の引き金となったのである》
指揮官不在の軍隊は、そもそも戦闘員としての義務を踏みにじった軍隊である。
そして、義務を蹂躙する軍隊は、そもそも戦闘員の権利も与えられない。
つまり捕虜となっても、捕虜たる法的資格がない。
そのような投降兵を殺戮したとしても、それは戦時国際法違反とはならない。

敵軍が「抵抗ノ意志ヲ有スル」限り、それを打ち砕くことは合法であった。
日本軍としては戦うよりほかはなかった。

一般的に言って、投降兵が戦場で不穏な行為や抵抗の意志を示せば、投降兵を処刑するという厳重な処置が取られるであろう。
それを戦時国際法違反と言うことはできない。
あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、日本軍はさんざん悩まされていた。
つまり「降ヲ乞ヘル敵」に対して日本軍が戦時国際法通りに攻撃を控えると、それが敵の攻撃を招いた。

第16師団歩兵第9連隊第1大隊副官の六車むぐるま政次郎少尉は『惜春賦』の中で、ダムダム弾(ニッケルなどの被覆のない裸の鉛弾)に被弾したことを回想している。
「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(1899年)が禁止するダムダム弾まで使った支那兵は、小銃を捨てても、手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。
敗残兵を捕えても「ヤッテシマエ」と襲いかかる例があった。

全軍が完全撤退した後、ポツンと取り残された支那兵ならばともかく、支那兵が退路を求めて死に物狂いで逆襲してきている時には、「手をあげて来る敵兵に抵抗の意思があるか無いかをいちいちおもむろに判断し、国際法に照らして捕虜として取り扱う余地はなかった」であろう。
「敵を倒さねば、それは自分が殺されることを意味する」のである。

(参考:東中野修道 著 『「南京虐殺」の徹底検証』 展転社 平成10年8月 第1刷発行)

(平成31年4月4日 追記)


グアム島



グアム島戦没者慰霊碑

(グアム島・南太平洋戦没者慰霊公苑)

昭和49年7月21日
奈良聯隊会グアム島慰霊団

旅日記

(平成21年3月19日)

昭和19年7月21日早朝、朝井(アサン)海岸に上陸作戦を敢行した米軍は、同時に南部地区の昭和(アガット)海岸にも上陸。
二面上陸作戦で、南北に延びている壁のような日本軍守備隊の分断を図って来た。





ガン岬

(太平洋戦争国立歴史公園)


旅日記


(平成21年3月19日)





日本軍陣地跡





(平成21年3月19日)





日本軍陣地跡





(平成21年3月19日)
ガン岬から見た景色 向こうに見えるのは「表半島」(オロテ半島)

昭和(アガット)地区一帯を守備する日本軍は、末長常太郎大佐の指揮する歩兵第38連隊の1個連隊のみ。
上陸地点となった昭和海岸正面に布陣していたのは第1大隊(約1000名)。
艦砲射撃を直接蒙ったのは、第2中隊と第3中隊で、敵の上陸を待たずに殆ど壊滅。
後方の有羽山(アリファン)の山裾には第1中隊が第二線陣地を築いて守備についていた。

アガットの海岸:南を見る アガットの海岸:北を見る





日本軍のトーチカ





(平成21年3月19日)

第1大隊の両翼には、北側の表(オロテ)半島の付け根に第2大隊、南側の竹矢海岸に第3大隊が布陣。
米軍はこの両翼の日本軍陣地には目もくれず、砲爆撃の焦点を第1大隊のみに集中し、一点突破を目指した。
おかげで両大隊は、米軍が上陸した時には無傷だった。

第1大隊長・大原大尉は、第二線部隊である第1中隊を指揮して海岸めがけて逆襲に転じる。
午前10時頃、陣頭に立って突撃を敢行したが、激しい機銃の弾幕を突破できす戦死。
この反撃で第1中隊の殆どが戦死。
生存者30名が有羽山(アリファン)右翼の連隊本部へかろうじて後退した。

水際で壊滅した第2中隊・第3中隊の若干の生存者は、昭和町(アガット)の廃墟を利用して抵抗を続けながら逐次後退し、北方の第2大隊に合流した。

連隊本部は、有羽山(アリファン)の頂上北側斜面にある自然洞窟を利用。
この中で指揮を執っていた末長連隊長は、第1大隊の全滅に接し、即座に全兵力を投入して夜襲戦での敵の橋頭堡破砕を決意した。
昼過ぎには各隊に対し、夜間攻撃を下令。
同時に夜襲の決心を本田台の師団司令部に報告した。
これに対して、高品師団長は連隊の残存兵力を北方の天上山の複郭陣地に後退させ、師団主力の戦闘に協力するよう指示した。
しかし、末長連隊長は玉砕突撃をあくまでも主張。
やむなく連隊長の懇請を容認することになる。

竹矢海岸に配備されていた第3大隊(長:長縄大尉)は、第9中隊が師団司令部の警備部隊として派遣されていたため、第7中隊、第8中隊、第3機関銃中隊および輸送隊で編成されていた。
午後8時、第3大隊出撃。
同時刻に、昭和町の北方から第2大隊が南下、有羽山の連隊本部からは連隊長が指揮する第1大隊の残存兵力と本部要員、戦車第9連隊第1中隊の軽戦車5両が一斉に行動を起こすはずだった。
しかし、この夜襲反撃は完璧な失敗。
第3大隊は長縄大隊長以下蟹守中隊長、湯川中隊長が戦死し大隊は崩壊。
南下攻撃するはずの第2大隊は連隊本部との連絡不能のため、攻撃命令が徹底せず第6中隊のみが夜襲に参加しただけ。
連隊長以下の第1大隊生存者を中心とした突入部隊は、戦車を先頭に昭和町(アガット)へ至る道を強行突破して進撃したが、バズーカ砲とシャーマン戦車に迎撃され全滅してしまった。

(参考:佐藤和正著 『グアム島玉砕戦記』 光人社 1999年発行)

(平成22年12月12日追記)


 (関連商品のご紹介)



 トップページに戻る   陸海軍部隊リストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送