(通称号:海8944部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
大分 | 明治31年 | 第48師団 | スンバワ島 |
日露戦争では第12師団隷下部隊として鴨緑江、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加。
大正7年にはシベリアに出兵。
大正14年、兄弟連隊の歩兵第72連隊が宇垣軍縮によって廃止され、第6師団に編合されて旧歩兵第72連隊の兵営に移駐した。
昭和3年2月、第二次山東出兵に参加。
門司を出港して青島に上陸、貨物列車で済南に向かい、同地に到着後警備に当たる。
5月3日、国民政府軍が済南に入り、市街戦となる。
5月8日、連隊は済南城の攻撃に向かうが、中国軍の抵抗が激しく立ち往生。
5月10日、連隊の全兵力を投入して夜襲を敢行し、翌朝、城門を完全に占領した。
昭和6年、満洲事変勃発。
12月、門司を出港し、釜山から鉄道で北上して新京(長春)に到着。
吉林省の大動脈、吉敦線沿線の警備に当たる。
昭和7年、熱河作戦に参加。
朝陽城、建平城を攻略し、赤峰に到着。
赤峰攻略後は万里の長城を目指し、長城占領後は追撃戦に移り、遷安に無血入城した。
昭和12年、日中戦争が勃発し動員下令。
北京郊外で約1ヶ月警備にあたり、その後、永定河渡河作戦に参加。
渡河に成功し敵陣地を奪取後、さらに保定に向かい進撃。
保定城の攻撃では敵の抵抗激しく、前線の指揮官が次々と戦死する激戦となる。
保定を陥落させた後、中国軍を追撃して石家荘まで進撃するが、その後、上海方面に転用となる。
11月、第二陣として杭州湾に上陸し南京攻略に向かう。
雨花台、光華門の激闘の末、南京に入城。
その後、徐州会戦、武漢攻略戦に参加。
昭和15年、新設の第48師団に転属。
太平洋戦争勃発と同時にフィリピン攻略戦に参加し、リンガエン湾に上陸してマニラを攻略した。
さらに蘭印(現・インドネシア)攻略作戦に抽出されスラバヤを陥落させる。
その後はインドネシア留まり警備にあたり、チモール島で終戦を迎えた。
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歩兵第47聯隊 軍旗の碑 (大分県大分市・大分県護国神社) (平成20年11月18日) |
顕彰
歩兵第47聯隊は明治31年(1898)軍旗を拝受して以来 日露戦役から大東亜戦争終戦までの約半世紀 大分県の郷土部隊として常に日本陸軍の先頭に立ち 輝かしい戦歴を残した
終戦50年を機会に 戦陣に斃れた戦友の冥福を祈り 軍旗の栄光を末長く顕彰するため ここに記念碑を建立する
平成6年3月24日
歩兵第四十七聯隊戦友会
会長 杉原 剛
(碑文より)
明治31年 3月24日 | 宮中において軍旗拝受 |
初代聯隊長 渡辺勝重 屯営小倉北方 | |
明治37年 2月 5日 | 日露戦役出兵 |
明治40年 7月23日 | 韓國派遣 |
大正 3年 8月23日 | 「シベリア」出兵 |
大正14年 5月 1日 | 小倉より大分屯営に移駐 第6師團に隷属 |
昭和 3年 4月24日 | 済南事変出兵 |
昭和 7年12月15日 | 満洲事変出兵 |
昭和12年 8月 1日 | 支那事変出兵 南京攻略戦並びに武寧作戦において感状授与 |
昭和15年11月30日 | 第48師團に隷属 編成改正 |
昭和16年 2月 3日 | 海南島秀英上陸 |
昭和16年 2月20日 | 雷州半島遮断作戦参加 |
昭和16年 3月22日 | 福州作戦参加 |
昭和16年 9月 5日 | 台湾待期 高雄上陸 |
昭和16年12月 8日 | 大東亜戦争大詔渙発 |
昭和16年12月22日 | 「マニラ」攻略戦参加 「リンガエン」湾上陸 |
昭和17年 3月 1日 | 「ジャワ」攻略戦参加 「クラガン」上陸 |
昭和17年 9月 5日 | 「チモール島」戡定及び警備 「デリー」上陸 |
昭和20年 8月13日 | 「チモール」島出發 西進 |
昭和20年 8月15日 | 終戦大詔渙発 |
昭和20年 8月30日 | 軍旗奉焼 「スンバワ」島「ビマ」 |
第20代聯隊長 徳弘保衞 |
(碑・銘板より)
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大分歩兵第四十七聯隊正門 | 大分歩兵第四十七聯隊全景 |
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歩兵第47聯隊(大分)軍旗 明治31年3月24日宮中に於いて親授、日露戦争 シベリア出兵、済南事変、満洲事変、支那事変及び 大東亜戦争(比島作戦、ジャワ作戦及び濠比防衛作戦)に 参加、昭和20年8月15日終戦、昭和20年8月30日 「スンバワ島ビマ」に於いて奉焼。 |
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昭和7年12月15日午後9時 県民の歓呼の声に送られて聯隊長宮岡寛治大佐 以下四十七聯隊将兵は勇躍満洲への征途についた |
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追撃を続ける大分聯隊 満洲の大動脈のひとつ吉敦線の要衝敦化付近の警備を 2ヶ月続けた後四十七聯隊は西沙河沿岸の討匪行を 皮切りに威虎嶺 官地 額穆などに転戦しそして熱河作戦 へと歩を進めた (昭和8年) |
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満支両国国境に位し万里の長城を東西にまたがる要衝 山海関のやや南にある海陽鎮の警備につく将兵 (昭和8年) |
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岳州城一番乗りを果たし西門の岳陽楼上で万歳を叫ぶ 第二大隊第七中隊のつわものたち (昭和13年11月12日) |
大分聯隊(おおいたれんたい)
日露戦争後の軍備拡張の波に乗って明治40年(1907)第12師団管下の歩兵第72聯隊が、西大分の駄原に創設されたのが大分聯隊の始まりです。
聯隊新設は決まったものの兵舎がまだできていなかったので、小倉の歩兵第14聯隊と北方の歩兵第47聯隊が朝鮮警備に出動して兵舎が空いているのを借りて、とりあえずここに徴募兵900人を迎え入れ、翌年7月17日に駄原に新築された兵舎に入りました。
第72聯隊は大正7年(1918)のシベリア出兵の主力として出動し、田中第3大隊全滅の悲惨な戦史をとどめ悲劇の聯隊といわれました。
その後世界的な軍備縮小のため大正14年(1925)廃隊となり、これに代わって第6師団管下の歩兵47聯隊が大分連隊となった。
第47聯隊は中国の内乱の際、居留民保護のため、昭和3年(1928)山東派兵に出動、さらに満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争に出動、中国大陸を転戦の後フィリピンに上陸して作戦に従事しました。
昭和20年(1945)戦争終結の際は、軍旗はスンバワ島にあり、ここで奉焼され、ここに戦線における大分連隊の歴史は終わりました。
なお第47聯隊の出動したあとの大分の聯隊兵舎には補充隊がはいっていましたが、補充の都合で昭和16年(1941)11月に台湾に転出しました。
そのあとの兵舎には第147聯隊が補充隊として入り西部第69部隊と称していましたが、この部隊も昭和18年(1943)には都城の西部第23部隊に吸収され、その後大分県から召集された兵隊は都城に入営していました。
都城に去ったあとの大分の兵舎は陸軍飛行学校大分分校となり終戦を迎えたのでした。
(大分県護国神社言霊記念館展示パネルより)
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