歩兵第49連隊

(通称号:玉5919部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
甲府 明治38年 第1師団 フィリピン・セブ島


明治38年3月、第13師団隷下の連隊として誕生し、ただちに樺太へ向かい、南樺太を占領した。
明治40年、第1師団に移り、甲府に常駐。
第一次大戦では第1中隊が青島守備に派遣される。

昭和8年に第10中隊が、翌年には第1中隊が中国北部に派遣された。
昭和11年の2・26事件では叛乱軍鎮圧のために東京に派遣される。
同年10月、第1師団の満州移駐に伴い、連隊は北満・北安に移る。
昭和12年6月、カンチャーズ事件で連隊主力が出動。
ノモンハン事件では速射砲中隊が第23師団の指揮下でノロ高地でソ連軍戦車隊と激戦を交わした。
その後、昭和19年2月までソ満国境の警備につく。

昭和19年2月、第3大隊はグアムに派遣されて独立混成第10連隊を編成し、上陸してきた米軍をマンガン山で迎撃し、大隊長以下ほぼ全滅。
戦後、山中から救助されたのは大隊600名のうち約1割。

昭和19年、連隊主力(2500名)はレイテ島に転出。
11月4日、リモン東方高地で12月20日まで米軍と交戦したが、12月8日に軍旗が直撃弾を受けている。
11月23日、第1中隊と第3中隊が全滅。
11月28日に通信隊が全滅。
11月30日、第2中隊が全滅し、カンギポット山麓へ転進したときの連隊の兵力は、6分の1の400余名に減少していた。
この残存者のうち、208名がセブ島へ無事に渡り、同地で「自活永戦」の態勢に入る。
昭和20年3月、米軍がセブ島に上陸し激戦を繰り広げた。
5月25日、連隊本部が置かれた450高地での激戦で、連隊長はじめ半数以上が戦死。
終戦時に生存していたのは98名だった。





奉献 灯籠
山梨県護国神社

奉献 元歩兵第49聯隊山梨四九会



(平成25年9月10日)


奉献 灯籠
(山梨県護国神社)

元歩兵第49聯隊山梨四九会
元歩兵第49聯隊神武会


(平成25年9月10日)





歩兵第49連隊食糧庫(現:山梨大学「赤レンガ館」)
(山梨県甲府市北新1-4-2・山梨大学付属中学校内)




(平成25年9月10日)

山梨大学「赤レンガ館」

●歴史
「赤レンガ館」は、明治42年(1909年)4月、歩兵四十九連隊(通称甲府連隊)の食糧庫として使用が開始され、他の建物が取り壊された後も教育人間科学部附属中学校舎の一部として使われてきました。
平成10年(1998年)、大雪のため建物の一部が破損したのを契機に保存の気運が高まり、耐震工事をした上で、平成14年(2002年)、当時の面影を残したまま改修されました。
●特徴
明治41年(1908年)頃建設された、間口5間・奥行20間・面積100坪の煉瓦造りの平屋建て建築です。
外壁は、当時としては珍しい「オランダ積み」の組み構造で、甲州煉瓦製造の赤煉瓦を用いてあります。
そのほか、アーチ式の戸口・窓、木軸組トラス構造と日本瓦葺きの屋根を特徴とする、明治期の洋風建築で山梨県内に現存する最大規模の煉瓦建造物です。

(説明板より)

食糧倉庫



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