(通称号:月7385部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
岡山 | 明治38年 | 第17師団 | ニューブリテン島 |
明治38年4月、日露戦争下の動員下令により、姫路、福知山、善通寺、丸亀、松山、高知など各地所在の歩兵連隊補充隊が編成した各部隊を合体して作られた。
初め第14師団、歩兵第27旅団に属し、直ちに満洲に派遣され第3軍の隷下に入ったが、日露戦争では戦火を交えることなく帰還。
帰還後は一時鳥取に駐屯していたが、岡山に第17師団が新設されたのを機に、明治41年4月に御津郡伊島村の兵営に移駐した。
のち大正14年の軍備整理で廃止となり解隊。
昭和13年に再編成され、日中戦争では連隊の一部が歩兵第53連隊と共に出動し、高瑞鎮作戦をはじめ各種の作戦に参加。
昭和18年11月、ニューブリテン島へ進軍。
連隊主力はガスマタ、第1大隊はガブの防備に当たる。
昭和20年4月、主力はラバウル防備のため移動を開始したが、第1大隊はタラセラ半島に残り、半島西部から上陸した約1,000名の米兵を相手に果敢に戦った。
碑文
「自由の男神像」は、岡山の郷土部隊が中支・北支および南西太平洋方面で活躍し、その際散華した2千余名の遺魂を託したものである。
そして、平和への希求を万世に伝えることを念願している。
平成7年7月14日
歩兵第54聯隊戦友会之建
(詳細は裏面へ示してある)
元連隊長:田坂八十八 作
歩兵第54聯隊(月第7385部隊)のあゆみ(碑銘板)
明治38年 | 4月 | 第17師団歩兵第54聯隊創設 |
6月 | 軍旗親授 | |
8月 | 日露戦役に参加 奉天(瀋陽)附近の警備 | |
大正14年 | 5月 | 軍備縮小により師団廃止 聯隊は軍旗を奉還 |
昭和12年 | 7月 | 日支事変勃発 |
昭和13年 | 4月 | 師団復活 聯隊は岡山中部第48部隊にて再編成 秘匿名を月第7385部隊と称す |
7月 | 再び軍旗拝受 青野ヶ原陸軍演習場にて奉戴式挙行 宇品港出帆 |
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8月 | 上海附近に上陸 蘇州及び周辺の警備 | |
10月 | 武漢攻略戦 | |
昭和15年 | 5月 | 湟里鎮作戦 |
6月 | 高瑞鎮作戦 | |
10月 | 第二次湟里鎮作戦 | |
12月 | 青陽貴池作戦 | |
昭和15年 | 2月 | 銭塘江南岸作戦 警備地区の変更、蘇州附近より無錫附近の警備 |
4月 | 皖南作戦 | |
5月 | 宣昌作戦 | |
10月 | 江南作戦 | |
11月 | 漢水作戦 | |
昭和16年 | 1月 | 予南作戦 |
3月 | 太湖西方作戦 | |
4月 | 北支方面に移駐 海州附近の警備 | |
5月 | 中原会戦 | |
10月 | 魯南作戦 | |
11月 | 第二次魯南作戦 | |
12月 | 大東亜戦争勃発 | |
昭和17年 | 2月 | 渦河作戦 |
4月 | 浙かん作戦 | |
11月 | 洪沢湖作戦 | |
昭和18年 | 2月 | 蘇准作戦 |
3月 | 六塘河作戦 | |
4月 | 甲東作戦 | |
8月 | 南京に移動 | |
9月 | 上海江湾鎮に集結 | |
10月 | 南太平洋方面へ派遣のため上海港出帆 | |
11月 | ニューブリテン島ラバウルに上陸 主力は「ガスマタ・ガブ・タラセア」に展開 第U大隊はブーゲンビル島に進出 |
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主力―ニューブリテン島地区作戦 | ||
昭和19年 | 1月 | 第二次〜第五次ビスマルク作戦 |
3月 | タラセア作戦 「カ」号作戦 ガスマタ―ラバウル転進 |
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昭和20年 | 4月 | ラバウル防衛戦 |
8月 | トリウ対峙戦・ウラ、モア逆上陸戦 |
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第U大隊―ブーゲンビル島地区作戦 | ||
昭和18年 | 11月 | 第一次タロキナ作戦 第二機動決戦隊となりタロキナ岬逆上陸作戦 |
昭和19年 | 2月 | 第二次タロキナ作戦 ヌマヌマ地区警備 |
4月 | ソロモン群島防衛戦 | |
8月 | タロキナ峠防禦戦 | |
昭和20年 | 8月 | 終戦 ラバウルにて軍旗奉焼 |
昭和21年 | 5月 | 内地帰還 復員 |
(英霊芳鑑・物故者名簿・聯隊史・戦友名簿及び寄進者名簿その他、資料を碑底に収蔵す)
昭和55年9月
歩54戰友會並遺族建之
【連隊の再編と出征】
支那事変勃発のため、昭和13年4月、第17師団が復活するとともに歩兵第54連隊も復活した。
第10師団隷下各部隊の補充隊で分担して編成された連隊は、昭和13年7月、兵庫県青野原廠舎に集合し訓練、7月27日に廠舎を出発し征途についた。
当時、徐州会戦は終り、次いで来るべき武漢作戦のため、諸部隊は準備行動をしていた頃である。
8月2日、上海に上陸、蘇州付近の警備に任ずる。
10月、鈴木春松歩兵団長を指揮官とする鈴木支隊の主力部隊となり、武漢攻略戦の一翼に参加する。
揚子江を遡り九江に上陸して曲池坂、甘木関、慈光鎮、大畋鎮、通山、咸寧等各所に転戦し、12月4日蘇州に帰還した。
(参考:『歩兵第十聯隊史』 聯隊史刊行会 昭和49年4月発行)
(令和2年5月7日 追記)
第17師団長 | 陸軍中将 | 広野太吉(陸士18期) | |||
第17師団司令部 | 91名 | 馬 22頭 | 自動車8 台 | ||
第17師団歩兵団司令官 | 陸軍少将 | 鈴木春松(陸士20期) | |||
歩兵第53連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 坂本末雄(陸士26期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
歩兵第54連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 高橋政雄(陸士25期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
歩兵第81連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 松浦豊一(陸士24期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
第17師団捜索隊 隊長 | 騎兵中佐 | 川島吉蔵(陸士27期) | 319名 | 馬 185頭 | 軽装甲車5両 |
野砲兵第23連隊 連隊長 | 砲兵大佐 | 辻 演武(陸士25期) | 1,745名 | 馬 1,259頭 | |
工兵第17連隊 | 402名 | 馬 15頭 | 自動車2台 | ||
第17師団通信隊 隊長 | 歩兵中尉 | 鳥山 尚(陸士48期) | 178名 | 馬 30頭 | |
輜重兵第17連隊 | 370名 | 馬 113頭 | 自動車50台 | ||
第17師団衛生隊 | 376名 | 馬 47頭 | |||
師団第一野戦病院 | 239名 | 馬 87頭 | |||
師団第二野戦病院 | 246名 | 馬 81頭 | |||
第17師団病馬廠 | 48名 | 馬 11頭 | |||
師団兵器勤務隊 (昭和14年11月2日臨時動員) |
(参考:『騎兵第百十大隊史』 大隊史刊行委員会 昭和60年3月発行 非売品)
(令和2年5月9日 追記)
【在支中、諸作戦に参加】
1.湟里鎮付近の戦闘(昭和14年6月1日〜6月7日)
昭和14年3月頃より宜興方面で暗躍する敵正規軍に対し、徹底的打撃を加えるため、歩53の主力と歩54の一部(第2大隊長後藤宏四郎少佐以下748名)が出動した。
2.高瑞鎮作戦(昭和14年6月16日〜6月29日)
出没自在の敵を一挙に捕捉撃滅せんとして師団の殆ど全兵力をもって出動。
連隊からは本郷敬人少佐の指揮する第3大隊(645名)が参加した。
高瑞鎮付近の敵陣地攻撃で大隊長が戦死したが、赫々たる戦果をおさめた。
3.第二次湟里鎮作戦(昭和14年10月〜10月27日)
敵正規軍の進出に対し、一部を以て正面より陽動牽制し、主力をもって、右側背より敵の退路を遮断するように攻撃するという作戦。
第1大隊は牽制部隊に、連隊主力は側背攻撃に参加して多大の戦果をおさめた。
4.青陽貴池作戦(昭和14年12月27日〜昭和15年1月11日)
安慶附近を警備中の第16師団の江南地区作戦に、連隊より島田恵之助中佐の指揮する支隊がこれに参加した。
支隊は12月17日に蘇州を出発し、安慶東南方約70キロの大通附近に至り、敵陣地の攻撃に当り激闘すること12月31日まで及ぶ。
その後、前江口南方地区の敵を破り、1月17日に蘇州に帰還する。
5.銭塘江南岸作戦(昭和15年2月10日〜2月24日)
銭塘江南岸の敵根拠地を覆滅するために行なわれた作戦に、連隊から武藤束少佐指揮の第3大隊が参加した。
武藤大隊は2月14日、浦陽江東岸地区で戦闘に入り激戦の末、目的を達成し、2月24日蘇州に帰還した。
6.春季皖南作戦(昭和15年4月20日〜5月4日)
連隊は第1大隊を主とする村山集成大隊を編成して田中歩兵団長の指揮する田中支隊に編入。
村山大隊は4月に無錫を出発。
南京より船により蕪湖に上陸し、4月23日より5月1日にわたる間、主として蕪湖〜青陽間の江南一帯の山地に作戦し、5月4日無錫に帰還する。
7.宜昌作戦(昭和15年6月4日〜〜8月31日)
連隊を主力とする松井支隊を編成し、この作戦に参加した。
朱家埠、安陸、白石咀、双連寺等各所に転戦する。
8.江南作戦(昭和15年10月6日〜10月18日)
連隊は建制のままこの作戦に参加した。
黄湖鎮、逓浦鎮、安吉、広徳等各所で戦果を収めた。
9.漢水作戦(昭和15年11月24日〜11月26日)
漢水左岸の作戦に連繋し、同右岸の敵の捕捉撃滅を目的とした作戦に連隊は全力をもって参加した。
10.予南作戦(昭和16年1月19日〜2月15日)
予南地区に進出してきた敵の態勢がまだ整わないうちに捕捉撃滅する目的をもって、3個師団をもって作戦を行う。
連隊は主力を以てこれに参加し、洪溝廟、尤李、上蔡、逐平、春水、羊冊、華山等各所で敵を撃破したが、第6中隊長の田中義猛中尉、第7中隊長の寺川重治中尉以下の戦死者を出した。
11.第二次魯南掃共作戦(昭和16年11月1日〜12月28日)
第12軍の行った作戦に師団は師団長以下6000名が参加し、連隊もこれに加わったが、大東亜戦争の開始により中止された。
12.洪沢作戦(昭和17年11月4日〜12月26日)
洪沢湖西方地区内の討伐実施にあたり、連隊は准安より西進して歩兵第81連隊と匪賊を挟撃して戦果を挙げた。
13.蘇准作戦(昭和18年2月1日〜3月15日)
洪沢作戦の成果を充実するため、再度討伐作戦が実施された。
14.大塘河作戦(昭和18年3月15日〜4月6日)
蘇准作戦後、四散した敵が再び、特に准陰西方地区に集結し兵力を拡大しつつあったので、連隊はこれに攻撃を加えて敵の一部を捕捉殲滅した。
(参考:『歩兵第十聯隊史』 聯隊史刊行会 昭和49年4月発行)
(令和2年5月8日 追記)
【南方派遣・ニューブリテン島】
昭和18年8月18日、師団が第8方面軍の戦闘序列に入った。
よって上海に集結し、状況の許す限り南方作戦に備えて訓練を行う。
昭和18年9月末、ニューブリテン島に向かい出発することになり、第1〜第4の輸送梯団を編成して、海軍艦艇護衛の下に進発した。
連隊の第3大隊は第1梯団に属して先発し、10月10日にラバウルに上陸。
連隊主力は第2梯団に属し、10月5日に上海を出発、10月25日にラバウルに到着した。
当時、南東太平洋方面の戦況は悪化の一途を辿り、ニューブリテン島は孤立無援の状況に陥っていた。
第17師団主力はニューブリテン島西南部マーカス岬以西の島内要地および一部を以て同島南岸のほぼ中央ガスマタを確保し、来攻する敵を撃破すべき任務を受けた。
(島の中西部に配置されていたガスマタ守備隊および松田支隊を併せ指揮する)
連隊の配備は以下の如く。
連隊主力(第1、第2大隊欠)=ガスマタ
第1大隊=ガブ(のちタラセア)
第2大隊(第7中隊欠)=アラウエ
第7中隊=ガブ(12月中旬にタラセア)
既にガスマタ付近の警備についていた歩兵第228連隊第2大隊は、歩兵第54連隊長の指揮下に入った。
第1大隊はツルブ付近の戦況上、タラセア付近の戦備強化のため同地に移動、旧タラセア守備隊その他を併せて照沼支隊を編成した。
第2大隊はラバウルより駆逐艦によってイボキに向かったが、敵機の活動により上陸できず、一旦ラバウルに帰り、11月5日、タロキナに逆上陸部隊として、既に上陸していた米軍と戦闘を交えながら同地に上陸した。
昭和19年1月23日、第8方面軍は、ラバウル及びニューアイルランド島の防備を強化するため、前進部隊の撤退を命じた。
連隊主力は1月28日より転進行動を開始し、ひとまずガブに集結した後、一部は舟艇機動により、他は陸路によりラバウルに向かい、4月末に集結を終えた。
照沼支隊(第1大隊基幹)は、集結掩護のためタラセア半島に残ったが、3月6日、半島西部に戦車を伴う約1000名の敵が上陸、これと対戦して相当な損害を出した。
同支隊は4月上旬、トリウに到着し、終戦まで同地を警備した。
ラバウルに集結した師団は方面軍命令に基づき、ラバウル西部に堅固な防塞地帯を構築することになった。
すでに戦線は西に移って、方面軍はその後方に取り残されたが、方面軍司令官・今村均大将は、むなしく祖国の危急を見るに忍びず、ラバウル周辺を堅めると共に、些かなりとも全局作戦に寄与せんことを念願して隷下部隊を指導した。
師団は第38師団と共にラバウル守備の基幹として、満々たる自信を固めつつあったときに終戦となった。
ラバウル地区において構築された洞窟陣地の延長は約300キロ、現地製爆弾砲200門、同臼砲400門、同火炎放射器200組を数えた。
方面軍司令官以下全員が現地製の対戦車爆雷1個を装備し、作戦準備の周到と現地自活の完璧と相まって将兵の士気は頗る旺盛なものがあった。
(参考:『歩兵第十聯隊史』 聯隊史刊行会 昭和49年4月発行)
(令和2年5月8日 追記)
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