(通称号:玉5916)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
千葉県佐倉 | 明治38年 | 第1師団 | フィリピン・セブ島 |
当初は青森で編成され、第15師団隷下歩兵第29旅団に属す。
日露戦争では第2軍のもと、首山堡西地区の守備などにあたっていた。
明治41年9月、陸軍管区改正により第1師団に加わり千葉県習志野に凱旋。
明治42年3月、歩兵第2連隊の茨城県水戸への移駐を受け千葉県佐倉に移る。
昭和11年4月30日、臨時編成の命が下り、チチハルに赴くが、途中、第3大隊は奉天から本渓湖に直行し討匪行の任務に就いた。
日中戦争勃発すると第3大隊は混成第2旅団の編成下に入り天津、張家口に応急派兵。
長城線攻撃作戦を皮切りに八角台、張家口を突破、山西省の大同に進攻し無血入城を果たしている。
その後、7年間をソ満国境の孫呉で警備の任に当たる。
その間の昭和14年7月、速射砲中隊がハイラルでソ蒙軍と交戦、10月には第3大隊が龍門付近の討伐に参加している。
太平洋戦争下の昭和19年、第3大隊(大隊長:谷島大尉)がグアム島に出征。
混成第48旅団の隷下に入りグアム島の守備を担当する。
7月、米軍上陸。
第3大隊(628名)はマンガン山で激闘するが、8月11日玉砕。
連隊主力(2,500名)は比島決戦部隊としてルソン島に転進。
途中、第1師団のレイテ島派遣によりレイテ島へ転進。
昭和19年11月1日、オルモック湾に上陸したが、輸送船が敵機の爆撃を受け積載物の殆どを焼失する。
11月4日、米第24師団・米第32師団を相手にリモン峠で40日間にも及ぶ壮絶な戦いを展開。
12月、カンギポット地区への転進命令を受け、更に昭和20年1月、第1師団と共にセブ島へ転進。
この時の連隊の兵力は宮内連隊長以下、わずかに198名。
5月11日から遊撃戦に入り、スソ川・オリボ川などで戦いながら各地を転戦するが、この時点で更に約50名の兵士を失っている。
8月28日の停戦式により戦闘終結。
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『佐倉兵営跡』碑 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園自由広場) 昭和41年建立 国立歴史民俗博物館建設のため現在地に移転。 題字は歴代連隊長の今村均陸軍大将。 (平成18年8月30日) |
佐倉兵営跡碑(裏)
第一代 | 勝賀瀬 元 | 第十三代 | 佐藤 信亮 |
第二代 | 小澤 徳平 | 第十四代 | 大串 敬吉 |
第三代 | 竹迫 彌彦 | 第十五代 | 吉住 良輔 |
第四代 | 湯地 藤吉郎 | 第十六代 | 小松原 道太郎 |
第五代 | 金谷 範三 | 第十七代 | 今村 均 |
第六代 | 福原 佳哉 | 第十八代 | 羽守 清一郎 |
第七代 | 林 銑十郎 | 第十九代 | 山口 直人 |
第八代 | 野口 猪雄次 | 第二十代 | 秦 彦三郎 |
第九代 | 原田 敬一 | 第廿一代 | 木村 松次郎 |
第十代 | 安田 郷輔 | 第廿二代 | 齋 俊男 |
第十一代 | 山中 三郎 | 第廿三代 | 宮内 良夫 |
第十二代 | 山崎 定義 |
副碑・碑文
こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。
佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。
同7年歩兵第2連隊がおかれた。
後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。
こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
昭和41年10月吉祥日
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衛兵所跡 (千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館入口) ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
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車道の碑 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) 大正9年建立。 兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。 連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
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兵営の便所跡 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) 雨天休憩所近くに土台のみが残る。 江原新田では連隊と契約し、下肥しもごえ・馬糞ばふんの払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
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訓練用の12階段 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) 兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。 木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
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油脂倉庫 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) (平成18年8月30日) |
油脂倉庫
「車道」の道を少し戻り姥ケ池へ下りていく途中にコンクリート製の建物がある。
鉄の扉と通風口はあるが窓はない。
戦後何かに利用された形跡はあるが『歩五七営内建造物配置要図』に油脂倉庫と記されている。
天皇陛下から預かった大切な銃を手入れするのが兵士の務めであったが、その手入れ用の油が貯蔵されていた。
(小冊子:山倉洋和 著 『もうひとつの「歴史散歩」「佐倉連隊とその時代」を歩く』より)
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弾薬庫の跡 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) 姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。 万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
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佐倉陸軍病院跡 (千葉県佐倉市・佐倉城址公園) 創設は明治7年。 佐倉屯営とんえい病室・佐倉営所えいしょ病院・佐倉衛戍えいじゅ病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。 昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
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軍犬・軍馬の墓 (千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館駐車場奥) 軍曹安藤一能が建てた軍犬房号の墓(昭和7年)、近衛歩兵第5連隊第2機関銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。 連隊の敷地内には犬舎けんしゃ・鳩舎きゅうしゃ・厩舎きゅうしゃがありました。 (説明板より) (平成18年8月30日) |
(説明板より)
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軍犬・軍馬の墓 (千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館駐車場奥) 軍犬房號之墓(右) 昭和7年1月6日歿 昭和7年5月建之 軍曹安藤一能 軍馬北盤之墓(左) 昭和18年9月19日斃死 近衛歩兵第5連隊補充隊第2機関銃隊 (平成18年8月30日) |
(佐倉兵営古写真・説明板より)
佐倉城から佐倉連隊兵営へ |
廃藩の後、佐倉藩堀田氏11万石の居城だった佐倉城は、明治政府の方針により陸軍の兵営に転用されることになった。
城は解体され、郭内に住んでいた士族たちは移転させられた。
そして徴兵制により、庶民を主体とする兵士が集められたのである。
兵営の敷地には、彼らを収容する兵舎や連隊本部・厩うまや・酒保しゅほ・病室・弾薬庫・練兵場など各種施設が置かれた。
文明開化の時代を象徴するように、最初建てられた兵舎はフランス式であり、そのことは発掘された洋式のジェラール瓦などからもわかる。
起伏のあった地形は大幅に埋め立てられ、平坦地が造成された。
施設は拡張・改築され、漆喰しっくい仕上げの白壁で四隅にコーナーストーンを貼った当初のフランス式兵舎は、やがて下見板したみいた張りの和風の外観に変わっていく。
兵舎の建物は、戦後も新制中学校の校舎として使用されたりしたが、国立歴史民俗博物館の建設にともない最終的に姿を消した。
(国立歴史民俗博物館特企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』パンフレットより)
1907年 | 明治40年 | 9月 | 歩兵第2連隊が第14師団に編入 代わって歩兵第57連隊(1905青森にて創設)が第1師団に編入 千葉県一円を徴募区とする。 |
1909年 | 明治42年 | 3月 | 歩兵第2連隊、佐倉から水戸へ移駐 歩兵第57連隊、佐倉兵営に入る |
1914年 | 大正 3年 | 8月 | 歩兵第57連隊より7名が青島攻略戦に出征(後方勤務) |
1923年 | 大正12年 | 9月 | 歩兵第57連隊、関東大震災に際し横浜方面へ治安出動 |
1930年 | 昭和 5年 | 12月 | 連隊区司令部、千葉市に移転、千葉連隊区司令部と改称 |
1933年 | 昭和 8年 | 5月 | 歩兵第57連隊第3中隊、華北派遣 |
1935年 | 昭和10年 | 4月 | 歩兵第57連隊第6中隊、華北派遣 |
1936年 | 昭和11年 | 2月 | 歩兵第57連隊、2.26事件に際し叛乱鎮圧のため出動 |
5月 | 第1師団の満州派遣により、佐倉を離れ、チチハル・本渓湖などの警備につく | ||
11月 | 佐倉衛戍病院、佐倉陸軍病院と改称 | ||
1937年 | 昭和12年 | 9月 | 佐倉で歩兵第157連隊(福井部隊)が編成され、華中に出征 |
11月 | 歩兵第57連隊、国境警備のため孫呉に移駐。 | ||
1939年 | 昭和14年 | 3月 | 佐倉で歩兵第212連隊が編成される |
7月 | 歩兵第57連隊、ノモンハン事件に際し速射砲中隊を出動 (のちに第1大隊も派遣) |
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8月 | 佐倉で近衛歩兵第5連隊が編成される | ||
1940年 | 昭和15年 | 7月 | 佐倉の留守隊、留守第1師団歩兵第57連隊補充隊に改編 |
8月 | 補充隊から歩兵第157連隊(第2次)が編成される | ||
1941年 | 昭和16年 | 7月 | 関特演により孫呉の歩兵第57連隊、大きく補充される |
1943年 | 昭和18年 | 6月 | 近衛歩兵第5連隊補充隊、東京から佐倉へ移駐し東部64部隊(通称)となる |
1944年 | 昭和19年 | 2月 | 歩兵第57連隊第3大隊、独立混成第10連隊を編成 孫呉からグアム島へ派遣される(8月壊滅) |
4月 | 佐倉で近衛歩兵第10連隊が編成される (以後本土決戦用の急造連隊が多数編成される) |
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8月 | 歩兵第57連隊、孫呉を発し南方へ転出 | ||
11月 | 歩兵第57連隊、レイテ島オルモックに上陸 リモン峠でアメリカ軍と激闘 |
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1945年 | 昭和20年 | 1月 | 歩兵第57連隊、レイテ島からセブ島へ転進 |
3月 | 歩兵第57連隊の孫呉残留者からなる独立歩兵第446大隊改編 歩兵第270連隊となる |
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8月 | 歩兵第57連隊、セブ島にて軍旗を奉焼、停戦 | ||
9月 | セブ島で降伏した歩兵第57連隊兵士、レイテの捕虜収容所に移される |
(国立歴史民俗博物館特企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』パンフレットより抜粋)
フィリピン・レイテ島 |
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リモン峠 (フィリピン・レイテ島) 峠の下から見たところ。 右側の木の生えているあたりが第1師団慰霊場。 (旅日記参照) (平成17年5月6日訪問) |
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リモン峠・第1師団慰霊場 第1師団戦没者英霊之碑を中心に、主に歩兵第57連隊関係の卒塔婆が建っています。 (平成17年5月6日訪問) |
リモン峠から見たカリガラ湾
参戦者数 | 戦死者数 | 生存者数 | |
連隊本部 | 67 | 52 | 15 |
第1大隊 | 667 | 641 | 26 |
第2大隊 | 667 | 651 | 16 |
第3大隊 | 665 | 639 | 26 |
その他 | 475 | 448 | 27 |
合計 | 2,541 | 2,431 | 110 |
(参考:江戸雄介著『夕日のレイテ沖』)
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カンギポット山近くの慰霊場 (フィリピン・レイテ島) (旅日記参照) (平成17年5月6日訪問) |
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