歩兵第59連隊

(通称号:照7768)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
千葉県習志野
のち
栃木県宇都宮
明治38年 第14師団 パラオ

日露戦争の進捗にともなって、明治38年に動員下令。
明治38年8月8日に軍旗を拝受。
第15師団の隷下部隊として9月2日に大連に上陸したが、9月15日に休戦。
戦闘を交えることなく引き揚げることになり、韓国の京城(ソウル)の守備に就く。
明治40年2月に帰還。
明治41年10月、新設された第14師団に編入される。
明治42年5月21日、千葉県習志野から栃木県宇都宮の兵営に移転。

大正8年3月31日、シベリア出兵のため臨時編成下令。
連隊(長:松尾伝蔵大佐)はウラジオストックに上陸。
シベリア出兵から帰還後、昭和2年4月に満洲の奉天に2年間駐留して帰還。

その後、満州事変では上海戦線に投入されることになり、昭和7年3月7日に揚子江河口の呉淞に上陸し、クリーク地帯の警備につく。
5月5日に停戦協定が成立し、第14師団は満洲へ転進。
昭和9年4月まで連隊は満洲戦線で各戦闘に参加。
5月5日、宇都宮に帰還。

昭和12年9月3日、日中戦争に参戦するため太沽に上陸。
保定会戦、徐州会戦等、華北の主要戦闘に参加し、多くの死傷者を出す。
昭和14年12月22日、帰還。

昭和15年8月、第14師団は満洲永久駐屯を命じられ、連隊は北満のチチハルに駐屯する。
昭和16年9月から昭和17年5月末まで満蒙国境のハンダガイ地区の警備につく。

昭和19年3月、南方戦線への動員下令。
4月24日、第14師団はパラオに到着、連隊はパラオ諸島最南端のアンガウル島の守備につく。(第2大隊は師団直轄となりパラオに残留)
その後、パラオの空襲、隣のペリリュー島への空襲が激しくなり、米軍の上陸は必至の状況となる。
7月20日、パラオ地区集団(長:井上貞衛第14師団長)の命令により、連隊主力はパラオ本島(バベルダオブ島)に転進。
アンガウル島に残ったのは、後藤丑雄少佐を地区隊長とする第1大隊を中心とした1,194名と海軍警備隊若干名、軍夫として徴用された島民183名、総計1,383名。(資料により数字は異なる)
9月15日、歩兵第2連隊(水戸)が守備するペリリュー島に米軍が上陸。
続いて9月17日にアンガウル島に米軍(米第81歩兵師団・11,000名)が上陸。
約1ヶ月間にわたる激闘の末、10月19日までに後藤地区隊長(第1大隊長)以下全員が玉砕した。
師団直轄部隊として、パラオ本島とコロール島にいた連隊主力は、米軍の爆撃と飢餓の中で多くの犠牲者を出しながら終戦を迎えた。







慰霊碑
 宝木会
栃木県護国神社





(平成22年10月14日)

【碑文】

宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設 英霊の顕彰と遺族の慰安及び会員相互の親睦をはかり 毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集 我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。

昭和五十五年四月吉日
宝木会


アンガウル島の戦い(昭和19年9月17日〜10月19日)

パラオのペリリュー島に敵が上陸した2日後の、9月17日午前5時30分、敵の艦砲射撃が開始された。
その後、米第81師団(2万1千名)が上陸。
これを迎え撃ったのは、後藤丑雄少佐が指揮する歩兵第59連隊第1大隊を基幹とする1200名。

東北港正面守備の第2中隊(長:佐藤光吉中尉)は、海岸の水中機雷と水際地雷の効果と相まって、上陸寸前の米軍を猛射。
砲兵第2中隊は、終日海岸に射撃を集中し、上陸点の拡大を阻止したが、次第に圧迫された。
後藤大隊長は、18日明け方までに米軍を海岸に叩き落そうと決心し、第3中隊(長:島武中尉)に攻撃を命じた。
第3中隊は午前5時、敵陣に突撃し米軍を海岸近くまで撃退したが、夜明けから敵の艦載機と戦車の集中砲撃で損害続出。
島中隊長が戦死したため反撃を一時中止し、第1小隊長の矢野照美少尉が代わって指揮を執り、9時過ぎに反撃を再興したが、玉砕した。

第3中隊玉砕の報に接した後藤大隊長は、島の北西山地にある無数の鍾乳洞を利用して、米軍の飛行場建設を妨害することを決心し、転進を開始した。
この転進にあたり島民約200人(婦人も含む)も弾薬、食糧などの輸送に協力。
以後、1ヶ月余、昼間は敵の砲爆撃を避け鍾乳洞に潜み、夜間に逆襲に出る。
10月3日、米軍は熾烈な支援射撃の下、南北から総攻撃を開始。
大隊は200mくらいの円陣に圧迫されたため、10月18日の夜、後藤少佐は最後の総攻撃実施を決心し、本部の鍾乳洞に全員を集結させる。

この時、集まったのは第1中隊(長:石原正良中尉)、第2中隊、歩兵砲中隊(長:日野清一大尉)など約130名。
島民からも参加を希望する声が上がったが、砲兵隊の松沢 豊少尉より「皆さんは日本人でないのに、よく協力してくれました。私達軍人は日本のため死ななければなりません。皆さんはその必要はありませんので米軍の保護を受けなさい。これは命令です」と説得され、島民たちは涙ながらに彼らを見送ったという。

大隊は匍匐による分散攻撃前進を開始したが、戦場心理のため自然に密集してしまったところに集中射撃を受け、後藤少佐を始め全員が戦死した。

(参考:高橋文雄 著 「壮絶 宇都宮第14師団の激闘」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)


(令和2年10月12日 追記)


【終戦後・秘史】

昭和21年2月17日、パラオ・コロール島の戦場清掃が終了した。
歩兵第59連隊、歩兵第15連隊、両連隊の生存者300人は米軍輸送船に乗船して横須賀に入港した。
歩兵第59連隊長・江口八郎大佐は、全員甲板に集合を命じた。
整列した将兵は、坊主頭で全員階級章をつけ、背嚢はいのうを背負った兵器なしの完全軍装である。
胸に抱いた遺骨箱の中に、奉焼したことになっている“軍旗”の遺片も入っていた。

江口連隊長は「我が師団は、米軍の物量に敗れた。これから諸子の任務は、焼け野原の郷土に復員し、経済を復興させ、米国を追い落とすことだ」と訓示したのち、堂々と横須賀重砲兵連隊の兵舎に入った。(歩兵第59連隊第9中隊・塚原実伍長の回想)
復員局の係官は驚いた。
今まではPW(捕虜)の服を着た復員部隊が多い中で、帽子に星章、軍服に階級章を付けたままである。
すぐに階級章をとるように指示したが、江口連隊長は、復員手続きが終ってこの兵舎を出るまでは、連隊は解散したわけではないと、その指示を拒否した。

江口大佐と井上大尉は、予め準備していた週番肩章やラッパをもって、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯までラッパを吹奏し、週番士官をして内務の責任をとらせた。
当初、この第14師団将兵の態度に、内地の状況も知らない生意気者と思っていた復員局の人々も、その気持ちが分かると共に尊敬の念をもって見るに至り、上陸後3日目解散の規定にもかかわらず天皇陛下に上奏し、陛下の御行幸まで是非残られたしと逆に依頼された。
2月21日、空前絶後の行幸が決定され、兵舎内に整列して陛下をお待ちした。
陸軍礼式令により陛下に敬礼した後、最先頭の江口連隊長が官姓名を名乗った後、「臣八郎。不肖にして歩兵第59連隊長の付託の重きに応えず、戦敗れ、あまたの赤子を失いたること・・・」と涙ながらに報告文を上奏した。
陛下は最後に「ご苦労様でした」と懇切なるお犒ねぎらいのお言葉を下され、全員感銘し涙を禁じえなかった。(第2歩兵砲中隊・人見栄中尉の述懐)

陛下の、ただ1回の復員部隊お出迎えの行事は、占領軍政下の厳しい新聞の報道管制で、一切公表されなかった。
師団に対する陛下の公式なお言葉は「パラオ集団ハ寔まことニ善ク統率力徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ善ク出来テ満足ニ思ウ」であった。

(参考:高橋文雄 著 「壮絶 宇都宮第14師団の激闘」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月12日 追記)




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