(通称号:淀4074)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
和歌山県和歌山 | 明治38年 | 第4師団 | ランバーン北方(タイ) |
日露戦争の進展に伴い創設編成。
第4師団、第10師団の各連隊から抽出され、第16師団下で満洲に出動、日露戦争後も満洲の守備につきました。
明治40年内地に帰還し、大阪の仮兵舎に入る。
明治41年第4師団隷下に入り、翌年和歌山に新設された兵舎に入る。
昭和12年再び満洲に進駐。
第二次ノモンハン事件で応急派兵の命が下りるが、現地に到着前に停戦、戦闘には加わりませんでした。
昭和15年華中に転進。
昭和17年2月、フィリピンに転進、第二次バターン攻略戦に参加し、引き続きコレヒドール島攻撃にも参加しました。
その後一時復員。
昭和18年10月から中部スマトラの警備。
昭和19年6月にはビルマに転戦し撤退する友軍の掩護に任じ死闘を演じるが、疲労とマラリヤ、赤痢で783名の戦病死者を出しました。
このためタイのバンコク近郊へ移動し連隊の再建に着手するが米軍の攻撃を受け、ナコンナヨクの北方ドリアン山附近に移動し複郭陣地の構築中に終戦を迎えました。
(歩兵第六十一連隊概史『やたがらすのはばたき』より)
歩兵第61連隊は明治38年日露戦争に動員編成され、第16師団隷下で満洲に出戦し、内地帰還後は第4師団の隷下に入り明治42年和歌山市を衛戍地と定められ、その徴兵区を県内とされ、郷土の連隊として昭和20年終戦に至るまで紀州健児の練兵に、或は、戦地第一線の勤務に服し、この間、昭和12年4月には満洲に派遣されて北辺の守りにつき、匪団を掃蕩して治安を確保し、第二次ノモンハン事件にも派兵され、次いで昭和15年7月中支に転じ、湖北省安陸方面に位置して漢水、予南、大洪山、江北、長沙の各作戦に参加してその名を高めた。
昭和16年12月、大東亜戦争に突入の直前には上海附近に在り、翌17年2月には支那大陸をはなれて比島に渡り、バタン・コレギ(ヒ)ドールの両作戦には師団の中核部隊として参加し、比島方面軍司令官本間雅晴中将より感状を授与されるの武功をたて、日米戦争の戦史にわが連隊の栄光を止めて一旦内地に復員し、さらに戦局苛烈を加えるのとき再び南方スマトラに進駐、間もなく連隊主力は選ばれてビルマに派遣され、インパール作戦の末期、印緬国境にいたり悲惨最悪の様思(相)のもと前線に投入されて、印度マニプール藩内に進み、英印軍と戦果を交え、爾後第15軍後退作戦における至難なる後衛の任務を果たしたが、自然障碍のもと、兵員は疲労と病魔に襲われ大なる犠牲をだしたことはまことに痛恨の極みであった。
そして昭和20年8月、タイ国にて終戦となり翌21年6月内地に復員して解隊にいたる。
※( )はHP管理者による。
(平成17年6月23日追記)
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歩兵第61連隊跡の碑 歩六一(中部二四)哨舎跡 (和歌山河川国道事務所前) (平成19年4月13日) |
碑文
明治38年8月8日歩兵第61聯隊は軍旗を拜受し 同42年3月17日此の地を兵営とする
爾来第二次世界大戦終結の昭和20年8月迄和歌山県唯一の歩兵部隊として国防に任じ 幾多の紀州健児がこの兵営を後に勇躍各地の戦場に赴き その名を馳せたのである
今我等はあの悲惨な戦争を再び繰り返さないことを固く誓うと共にひたすら郷土の永遠の平和と繁栄を願って ここに史蹟として遺すものである
昭和56年(1981)10月吉日
歩六一戦友会
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国土交通省近畿地方整備局 和歌山河川国道事務所 (和歌山市砂山南3−1−15) (平成19年4月13日) |
歩兵第61連隊跡地 | |
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『鎮魂』の碑 (和歌山県和歌山市・和歌山県護国神社) (平成19年4月13日) |
碑文(1)
明治38年8月8日軍旗を拜受。
歩兵第61聯隊誕生す。
日露戦役のあと和歌山市を衛戍地とし、郷土部隊として県民に親しまれ、信頼されつゝ国土の防衛に任ず。
昭和12年4月北満の警備と治安維持に出動 同14年8月第二次ノモンハン事変に派兵さる。
同15年7月中支湖北省に転進 常に第4師団の主力として漢水、豫南、大洪山、江北、長沙の各作戦に参加して奮戦す。
昭和16年12月第二次世界大戦勃発するや 同17年2月北部ルソン島に進撃、第二次バタアン攻略戦に敵主陣地サマット山を撃破 引続き米極東軍の難攻不落を誇ったコレギドール島要塞に敵前上陸を敢行し占領、本間雅晴軍司令官より部隊感状を授与さる。
昭和17年7月凱旋、同18年10月スマトラ島に進駐、同19年5月ビルマのインパール作戦の援護に転戦、同20年2月タイ国に進駐、昭和20年8月15日中部ナコンナヨクの山中にて終戦を迎え、軍旗を奉焼し、茲に栄光の幕を閉ず。
碑文(2)
日本国の防人として ひたすら永遠の平和を目指して 栄ある軍旗のもと北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ 自ら進んで国難に殉じた1万余柱の御霊よ 生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに 砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ 獅子奮迅の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ 我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず 戦友の赫々たる武勲は燦然として千載に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等 今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた礎の上にあることに想いを致し 衷心より感謝の誠を捧げ 常念の心常にして 我等の願いを建碑にこめ後世に遺すものである 願わくは御霊よ此処に鎮まりて倶会一処の妙果を証せんことを
昭和55年(1980年)5月吉日
歩兵第六十一聯隊戦友会
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円卓子 (和歌山県和歌山市・和歌山県護国神社) (平成19年4月13日) |
この円卓子は元歩兵第61聯隊酒保の棚下にあったもので、当時兵士達が訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんし、ふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。
(説明石碑・碑文より)
満洲派遣 |
昭和12年4月20日 満洲派遣歩兵第61連隊編成
連隊本部 | 連隊長 | 大佐 | 倉石忠一郎 | ||||
副官 | 少佐 | 土肥直一 | |||||
旗手 | 少尉 | 井谷菊雄 | |||||
附 | 高橋達吉 | ||||||
第1大隊 | 大隊長 | 少佐 | 亀井 豊 | 大隊本部 | 副官 | 大尉 | 馬場浅之進 |
第1中隊 | 中隊長 | 大尉 | 伊井伴造 | ||||
第2中隊 | 中隊長 | 大尉 | 辻本準三 | ||||
第3中隊 | 中隊長 | 大尉 | 石丸 隆 | ||||
第1機関銃中隊 | 中隊長 | 中尉 | 堂垂敬義 | ||||
第2大隊 | 大隊長 | 少佐 | 伊藤義彦 | 大隊本部 | 副官 | 大尉 | 岩崎恒蔵 |
第5中隊 | 中隊長 | 大尉 | 加藤 猛 | ||||
第6中隊 | 中隊長 | 大尉 | 松下久彦 | ||||
第7中隊 | 中隊長 | 大尉 | 青田与助 | ||||
第2機関銃中隊 | 中隊長 | 大尉 | 中村杢三郎 | ||||
歩兵砲中隊 | 中隊長 | 大尉 | 小倉弘成 | ||||
通信中隊 | 中隊長 | 中尉 | 植野政信 |
第3大隊=留守部隊として内地に残留
支那事変 |
昭和15年6月26日第4師団に臨時動員下令、7月2日より動員開始。
新連隊長:鵜沢尚信大佐着任。
昭和15年7月25日歩兵第61連隊補充隊(中部第24部隊)より補充・編入充足。
昭和15年8月3日部隊編成完結。
(編成)
連隊本部
第1大隊=3個中隊・1個機関銃中隊・1個歩兵砲小隊(装備:九二式大隊砲2門)
第2大隊=3個中隊・1個機関銃中隊・1個歩兵砲小隊(装備:九二式大隊砲2門)
第3大隊=3個中隊・1個機関銃中隊・1個歩兵砲小隊(装備:九二式大隊砲2門)
歩兵砲中隊(装備:四一式山砲4門)
通信中隊
人員:2,654名 馬匹:351頭
第二次バターン攻略戦 |
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サマット山(Mt.Samat) (フィリピン共和国ルソン島・バターン半島) 山頂には大きな十字架(展望台)が建っています。 (平成16年5月7日訪問:旅日記参照) |
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展望台から見た景色 第2次攻略戦の時の第4師団が進撃してきた方面を見る。 第4師団は昭和17年4月5日に、このサマット山の山頂を占領しました。 (平成16年5月7日訪問) |
サマット山北麓附近の戦闘(昭和17年4月3日〜4月4日)
死傷表 | |||||||
連隊本部 | 第1大隊 | 第2大隊 | 第3大隊 | 通信隊 | 歩兵砲中隊 | ||
戦闘参加者数 | 将校 | 11 | 20 | 22 | 21 | 2 | 3 |
准士官以下 | 148 | 612 | 589 | 684 | 118 | 121 | |
馬匹 | 51 | 219 | ― | 100 | 20 | ― | |
戦死者数 | 将校 | 1 | 1 | ― | 1 | ― | ― |
准士官以下 | ― | 13 | 5 | 23 | 1 | ― | |
馬匹 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | |
負傷者数 | 将校 | ― | 2 | 1 | 1 | ― | ― |
准士官以下 | ― | 40 | 11 | 26 | ― | 2 | |
馬匹 | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
サマット山突破戦闘(昭和17年4月5日〜4月6日)
死傷表 | ||||||
連隊本部 | 第1大隊 | 第2大隊 | 第3大隊 | 通信隊 | ||
戦闘参加者数 | 将校 | 10 | 19 | 22 | 19 | 2 |
准士官以下 | 147 | 598 | 557 | 601 | 117 | |
馬匹 | ― | 29 | ― | 100 | ― | |
戦死者数 | 将校 | ― | ― | ― | ― | ― |
准士官以下 | ― | 1 | 8 | ― | 1 | |
馬匹 | ― | ― | ― | 3 | ― | |
負傷者数 | 将校 | ― | ― | ― | 1 | ― |
准士官以下 | 1 | 1 | 8 | 5 | ― | |
馬匹 | ― | 1 | ― | 1 | ― |
(平成17年6月23日追記)
コレヒドール島攻撃 |
「鎮魂」の碑 フィリピン・マニラ沖のコレヒドール島に建っています。 (平成15年5月2日) |
碑文
1942.5.5.第4師団和歌山歩兵第61連隊及び配属部隊はこの島の尾部に上陸した。
熾烈な戦闘により比・米・日軍の多くの兵士が斃れた。
戦士の掟に従って戦いこの島に骨を埋めた若人達の霊を慰め、世界の国々と友好を祈願して、この碑を建つ。
1991.5.5.和歌山歩兵第61連隊戦友会
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ビルマ |
昭和19年11月中旬、エナンヂャンにて油田地帯の警備及び治安維持に任じつつ次期作戦を準備中に軍命令により動員下令。
連隊本部及び第2大隊を除く連隊にて独立混成第72旅団を編成。
第1大隊→独立歩兵第542大隊
第3大隊→独立歩兵第543大隊
歩兵砲隊→独立混成第72旅団砲兵隊
通信隊→独立混成第72旅団通信隊
作業隊→独立混成第72旅団工兵隊
復員 |
復員(昭和21年) | |||||
バンコック出発 | 内地上陸 | 上陸地 | 復員完結 | ||
連隊本部 | 5月30日 | 6月19日 | 浦賀 | 6月21日 | |
第2大隊主力 第3大隊 |
6月1日 | 6月21日 | 浦賀 | 6月21日 | |
第1機関銃中隊 第5・第6中隊 |
5月31日 | 6月14日 | 浦賀 | 6月21日 |
(平成17年6月23日追記)
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