(通称号:討4234部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
(補充地) 富山県富山 (再編成地) 愛媛県松山 |
明治38年 (大正14年廃止) (再編成)昭和13年 |
第21師団 | タンホア(仏印) |
大正14年の軍備整理で一時期廃止となる。
支那事変の勃発で再び動員下令され、愛媛県・松山で再編成される。
昭和13年7月14日軍旗再親授。
昭和13年9月、天津の塘沽港に上陸し、安徽省宿県の警備を担当。
華北では治安維持を主任務とする。
昭和14年、蘇北作戦、于学忠討伐作戦に参加。
中原作戦では第21師団の先陣として国民党軍を包囲撃滅。
太平洋戦争では、昭和17年2月に第二次バターン半島攻略戦に永野支隊としてフィリピンへ派遣される。
バターン半島攻略戦後、ルソン島中部の警備を担当。
その後、ビサヤ諸島作戦に参加。
仏印に転進し、昭和20年、明号作戦に中心部隊として参加し、9万人を擁する仏印軍の武装解除に成功する。
その後、同地で終戦を迎えた。
歩兵第62聯隊第1大隊記念植木 (愛媛県松山市・愛媛県護国神社) 碑文 昭和13年4月4日軍令陸甲第2号 (師団)新設編成歩兵第62連隊 陸軍大佐 澤田保富 1大隊長 陸軍少佐 玉田彌五郎 (赤ボタン軍団) 昭和61年4月吉日 大隊員生存者一同 (平成19年11月9日) |
軍旗 |
歩兵第62連隊は、もともと徳島市にあった。
大正末期の軍縮のために廃隊となり、軍旗は宮中に一時お預けしていたのだったが、編成動員の下令によって復活、再度、陽の目を見たものである。
古色蒼然とまではいかぬが、歳月を経てきた荘厳さがあった。
同じく新編成の連隊といっても、少しワケは違っていたのである。
北支 |
【連隊本部】
歩兵第62連隊本部は宿県という街にあった。
徐州と津浦線で南下すること約2時間半。
行政区画では安徽省に属し、県庁の所在地であった。
内地の県庁所在地とは全くその趣きを異にする。
人口は2万人くらいで、町といったほうが適切である。
宿県の街は、駅の西方1000mくらいのところにあって、四囲には高い壁を巡らせている。
壁の高さは20mくらいもあろうか。
東西南北に門が一つずつあって、それから以外には城内には入れない。
東門をくぐって、街のほぼ中央の所に連隊本部がある。
支那人の金持ちの家を占領しているらしかった。
入口の右側に“沢田部隊本部”と墨書した標札が目に付いた。
門はさほど大きくないが、門の中は広かった。
洋風の二階建ての建物で、連隊本部の中枢を占めている建物である。
2階中央の南側に連隊長室があった。
【第10中隊】
第3大隊第10中隊は、宿県から北方、約40kmのところにある「すい渓口けいこう」という小部落に駐留。
「永城」にある第12中隊と共に、連隊の最前線に位置している。
第3大隊長は久保田少佐。
陸士37期、盧溝橋事件では、当時の支那駐屯歩兵第1連隊の歩兵砲中隊長であった。
事件不拡大の中央の方針に従って、現地の第一線部隊は一切の銃砲の射撃を止めて、敵支那軍と対峙していたが、ある日、牟田口廉也連隊長(後、中将)から電話で、前面にいる敵を射撃せよ、と言ってきた。
久保田歩兵砲中隊長は、射撃は一切してはならないことになっているのではないでしょうか、と反問した。
しかし、牟田口連隊長は「歩兵操典に書いてある通り、撃て!」との厳命である。
命令とあれば、もはやこれまでと、歩兵砲中隊は射撃を始めた。
久保田大隊長は、お酒は弱いほうの部類に入る方だったが、お酒が入ると頬を赤らげて、「俺は支那事変の第一発を撃って、事変を起こした張本人だ」というのが、口癖のようだった。
中隊長は伊藤淑中尉。
丸顔で真黒く日焼けしていて、鼻下に髭を生やしてその両端はピンとしている。
高知出身で、大阪外語マレー語科を出て神戸で貿易商を経営していて応召。
第1小隊長は相馬金作少尉。
青森県出身で、長らく青年訓練所の教官をしていて再度の応召。
中隊の古参兵の主力は、最初に編成した高知の歩兵第44連隊から新編部隊要員として来た人で固めている。
下士官は全員がそうである。
昭和14年から留守部隊が金沢の第7師団留守部隊に変わって、新参の兵は富山県出身となる。
第10中隊では、一人っ子と女姉妹の中の男一人という兵の死傷率がとても高率だったという。
【一般幹部候補生教育隊】(昭和15年6月)
教育中隊長は第9中隊長の小笠原中尉。
高知出身、一兵卒から身を興して中尉まで進まれた方。
第二次上海事変から南京攻略までを小隊長として戦い、偉功を奏された方である。
討伐に際しては、背負い袋に2人分の食料を常に携行し、部下が食糧に困った時に充てるのだといって、必ず実行していた部下思いの方で、部下からは“親爺”として尊敬を一身に集めていた。
後に、昭和15年秋、京漢線警備中、強力な八路軍を攻撃して名誉の戦死を遂げた。
そのとき、中隊の兵で、一人として涙を流さなかった者はいなかったという。
教官は中野忠良中尉、池田二郎少尉。
中野中尉は愛媛県出身、近衛連隊に選抜されて入営し、幹部候補生となって予備将校に進まれた方。
寡黙であるが、常に温顔を絶やさない人で、戦闘において勇敢なることは、連隊でも音に聞こえた方。
人事係は第3中隊の山岡准尉。
助教は宮本軍曹、稲垣軍曹。
一般幹部候補生とは、、青年学校や教員養成所を含む中等学校卒業以上の資格のある者から、初年兵教育終了後に選抜試験を行い、合格した者は一般幹部候補生となる。
選考の責任者は連隊長、独立大隊長、独立中隊長である。
その後、当該の連隊、大隊、中隊ごとに約半年間の一般幹部候補生の集合教育を行い、その成績によって、甲種幹部候補生と乙種幹部候補生とに区分される。
その比率はときによって異なったが、この当時は、兵器部の見習士官が特に有利で、ほとんど全員が甲種となった。
また兵科の比率は、6対4で、甲種が多かった。
この人員数は、師団長もしくはこれに準ずる部隊長が決定する。
乙種となったものは、教育終了と同時に原隊に戻って、下士官として服務する。
甲種となったものは、陸軍予備士官学校(経理部は陸軍経理学校、兵器部は陸軍兵器学校)に入校して、おおむね半年の教育を終えて見習士官となり、各隊に赴任して、やがて予備役少尉に任官し、将校としての道を歩む。
昭和15年6月10日、一般幹部候補生を命ぜられて入隊したものは約120名。
経理部と兵器部に進む者が併せて50余名。
歩兵科に進む者が72名。
昭和15年11月初旬、一般幹部候補生隊は解散。
【連隊長】
昭和15年8月の定期異動で沢田連隊長は内地へ転任。
新たに山西省の第一線から大田熊太郎大佐が2代目の連隊長として着任。
【第二次渦河々畔掃討作戦】(昭和15年11月)
連隊からは第3大隊(三根少佐)が参加。
その他、第31師団(山東省)からはるばるやってくる歩兵大隊もあれば、師団の軽装甲車中隊も全力でやってくる。
軽装甲車中隊は、本来、偵察と戦場における弾薬運搬が主任務だが、今次の作戦では戦車の代用として使用。
師団の山砲兵第51連隊の第1大隊も全力出動。
宿県にある師団の第二野戦病院の主力も出動。
また、渡河作戦用の工兵1個中隊が配属された。
11月上旬、作戦発動。
師団から、幸修三少佐参謀が派遣参謀として行動を共にする。
作戦は、渦河の右岸にある敵の根拠地である蒙城と渦陽の攻略。
【中原会戦】(昭和16年5月)
昭和16年5月初旬、宿県より列車輸送で新郷しんごうへ進出。
新郷からは4日3晩の連続行軍。
「同村」に到着して3日目、第1大隊(小松少佐)は、シナ山の谷間に潜んでいた敵約1個師に対して、巧妙かつ果敢に攻撃して殆ど壊滅させてしまった。
大隊長小松少佐は、満州事変で殊勲を奏して金鵄勲章を胸間に飾る“戦さの神様”という異名をとる少尉候補者出身者。
食糧が乏しくなったが悪路の為、自動車の通行が出来ない。
工兵連隊全力でもってしても兵力は足りず、師団予備隊の歩兵第83連隊の全力も、「新郷」からの道路造り(自動車を通す道路への改修工事)に専念するに至った。
連隊の段列にいた自動車2両が食糧を満載して悪路を突破し、4日間かかって「同村」に到着。
大田連隊長の指示で、連隊本部にはごく少量を残して、大部分は第一線大隊に配分した。
ようやく師団輜重兵連隊の一見習士官が率いる騎馬20数頭が「同村」に到着したが、3分の1くらいの馬の鞍には何も積んでいない。
持って来たものは糧食と弾薬で、甘味品は一つもなかった。
「1個連隊分としては少ないではないか」との問いに、「実は全量を大田部隊に補給するように言われてきたのですが、途中、師団司令部のところで、3分の1を無理やり降ろされてしまいました。参謀殿までが出て来て、第一線は不自由していない、師団司令部が一番困っているんだと怒鳴られました。それでおろしてしまいました。甘味品は全部おろされてしまいました。」と言う。
第1大隊は、ホラ山付近の戦闘で、また大戦果を挙げて第1大隊長は“戦さの神様”なる尊称を不動のものにし、第3大隊も黄河河畔に敗走する敵を追いつめて、これまた大戦果を獲得して有終の美を飾った。
7月初めか半ば頃に中原会戦を終え、連隊は徒歩行軍4日で再び「新郷」に戻り、その後、列車輸送によって新しい警備地区である「保定」に移駐した。
【某連隊副官】
その人は下村連隊副官が南支那の第23軍副官に栄転されたあとに来られた方である。
背丈5尺7寸くらい、肥満型で体躯堂々としているが、至って陰険かつ小心者である。
中隊長時代の部下の風評も決して芳しいものではなかった。
ところが、上役に対するゴマすりはまさに天下一品の感があった。
しかも、次期連隊副官を狙って猛運動して獲得した地位でもあった。
それだけならまだいい。
下級者に対しては温情など全くありゃしない冷酷そのものである。
全ては自分の点数をあげることのみに、ひたすら専念する。
それだけではない。
前線から送られてくる鹵獲品の“法幣”(支那本来の通貨)をゴマかして、私腹を肥やしているという風評も耳に入ってくる始末。
しかのみならず、非常にえこひいきが甚だしい。
自分のところに“おべんちゃら”を言ってくる者だけを重用する。
本当に地道に黙々と努力している将兵は全く省みられない。
このような人が、連隊の人事をつかさどる地位にいては、自ずから士気も沈滞してゆくというものである。
いわゆる“正直者が馬鹿をみる”ということを文字通り忠実に実践していたのである。
したがって、人に対する“好き嫌い”が判然としていて、公正な人事施策はとてもできない。
また、女性というものがこよなく好き好き好きである。
真に不適任な人が不適当な職に就いたものである。
(参考:池田二郎著 『新品将校奮戦記』 共栄書房 1981年)
(平成23年1月28日追記)
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