歩兵第71連隊

(通称号:旭1125)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
創設:広島
再編:鹿児島
創設:明治41年
再編:昭和13年
第23師団 ルソン島北部(フィリピン)

当初は広島で創設。
大正14年の軍縮で連隊は廃止されたが、後に再び編成されました。
昭和14年ノモンハン事件に出動。
7月に長野連隊長が戦死し、8月には新任の森田連隊長も戦死するという激戦でした。
連隊長代理の東中佐は軍旗を焼却して突撃。
9月に停戦協定によりノモンハン事件の戦闘は終了。
この戦闘での損害は出動人員4,615名中、4,254名。
戦死1,636名(35%)、戦傷1,777名(39%)、行方不明359名(8%)、戦病482名(10%)
昭和14年、補充により再建し軍旗が再授与されました。
昭和19年、第23師団の動員令に基づき連隊も12月にフィリピンのマニラに上陸しました。
連隊主力は南部のロスバニオス、第2大隊はカバルアン丘に陣を敷き、第3大隊はマニラ防衛司令官の指揮下に入りました。
米軍のルソン上陸にともない、第3大隊は北上しサンファビアンで斬り込みを敢行し玉砕。
第2大隊もカバルアン丘の陣地を守備して玉砕しました。
昭和20年4月、連隊主力はバギオに移り、防衛戦を展開。
バギオ入口の道路沿いに配備され、肉弾白兵戦を行いました。
昭和20年6月、プログ山麓のカバヤ高地まで後退して集結。
終戦を迎え、9月、ボントック街道53キロ地点で米軍に投降しました。
生存者は患者を含め609名でした。


部隊跡記念樹の碑
『部隊跡記念樹』の碑
(広島県広島市中区基町・広島城の堀沿い北西角)

ノモンハン事件参加部隊
歩兵第七十一聯隊
野砲兵第十三聯隊
輜重兵第二十三聯隊
昭和52年5月22日建之

(平成22年5月1日)

 銘板より

部隊跡記念樹の碑



『部隊跡記念樹』の碑
(広島県広島市中区基町・広島城の堀沿い北西角)




(平成22年5月1日)
広島市立白島小学校 広島市立白島小学校
歩兵第71連隊跡
(広島県広島市中区基町・市立白島小学校付近)
赤レンガの基礎


赤レンガの基礎
(広島市立白島小学校)

当時のものかどうかは不明



(平成22年5月1日)

慰霊碑

慰霊碑

(広島市・比治山陸軍墓地)

歩兵第71連隊
野砲兵第13連隊
輜重兵第23連隊
昭和52年5月建之

(平成22年5月1日)

戦歿者慰霊碑建設趣意書

ノモンハン事件は昭和14年5月満洲国と外蒙古との国境ノモンハン附近に於て 越境問題に端を発し約5ヶ月に亘り炎熱不毛の草原で戦史に稀れな激戦を繰返し 惨烈悲壮な苦斗を重ね遂に国境防衛の重責を完うした
この間1万2千余柱の戦死者を出し広島県出身者も多数に及んだので 此度歩兵第71聯隊野砲兵第13聯隊輜重兵第23聯隊等関係諸部隊の戦友が遺族と共に英霊の武勲を永久に顕彰する為に縁深い広島の聖地に慰霊碑を建立したのである

昭和52年5月吉日
広島ノモンハン会

(碑文より)





比治山陸軍墓地
(広島県広島市南区・比治山公園)





(平成22年5月1日)

慰霊碑
慰霊碑

米軍が上陸したリンガエン湾の近くのサンファビアンの海岸沿いの道路脇に建っています。
第3大隊が斬り込み戦を行い玉砕した場所です。

昭和57年3月16日
鹿児島歩兵第71連隊会建立

(平成15年4月30日)
慰霊碑
慰霊の碑

バギオの入口の山道の脇に建っています。
この周辺で米軍戦車に対し肉弾攻撃を展開し、約400名が戦死しています。

1982年3月16日
鹿児島歩兵71連隊会建立

(平成15年4月29日)

【歩兵第71連隊】

明治40年(1907)11月1日、第5師団傘下に生まれた歩兵第71連隊は、大正14年(1925)の軍縮によって一旦軍旗を返納して解散。
その後、日中戦争の発展に伴い、昭和13年4月に広島編成で第23師団が新たに編成され、歩兵第71連隊が復活。
昭和13年7月に以前の軍旗が授与され、11月に満州のハイラルに駐屯する。
それから半年後の昭和14年(1939)5月、ノモンハン事件に出撃。
長野裕二連隊長が負傷して入院、代わった森田徹連隊長は戦死。
東宗治連隊長代理は軍旗を奉焼して全員突撃を敢行して果てた。
白浜重任大佐が前線に近い将軍廟で連隊長に着任したが、まもなくノモンハン事件は停戦となり、わずかな残存兵力がハイラルの駐屯地に帰還した。
連隊は4,551名のうち4,254名、実に93%の犠牲者を出している。
ノモンハン事件後、師団は編成替えとなり、連隊も鹿児島編成で新しい軍旗を再び拝受した。
昭和18年12月、連隊はハイラルから免渡河(メントカ)へ移駐し、興安嶺の卓山に本格的な陣地構築中に動員下令。
第14方面軍に配属となり、かろうじてマニラに上陸するとそのままレイテ島に投入されるところを、レイテ決戦に間に合わず、ルソン島の戦闘に組み込まれた。

ノモンハン戦後の新編連隊は、甲編成となり、兵員は4千数百名の大部隊であったが、南方転出の前に2千余名を他の部隊に転属させた。
逆に東満州の守備隊から千人余りの補充を受け、固有兵力は3300人の丙編成となった。
丙編成は3個大隊で、各大隊の第4・8・12中隊を欠き、小隊も同様に削られる。

バギオ撤退後、連隊(第3大隊は除く)は「山下道」のアンブクラオに集結。
この時点での連隊の兵力は、第1大隊約200名、通信、連隊砲、速射砲を含めた連隊本部約100名で、これが全戦力であった。
このうち途中で配属された将兵の出身部隊は、船舶砲兵、自動車隊、落下傘部隊、鉄道輸送隊、高射砲隊などであった。

アンブクラオからボゴドの敵を圧迫し、アグノ川に沿って新陣地へ転進。
ボゴドで、ノイローゼ気味で入院していた二木ふたつき栄蔵大佐が戻ってきて連隊の指揮を取ることになり、代わりに病に冒された連隊長林安男大佐がインチカクの野戦病院に入院したという。(6月16日ごろ)
ここで部隊は改変整備された。

絶えず連隊本部と共に戦闘を繰り返してきた第1大隊の第1中隊は、4月30日バギオから「21キロ地点」へ北上中、師団参謀の命令で中隊の約半数25名で遊撃隊を編成し、バギオ郊外へ戻り遊撃戦に従事し、帰隊した6月中旬には生存者は7名に激減していた。
第1中隊以外の第1大隊では、第2中隊、第3中隊と大隊本部が、6月に入ってボゴドからプログ山方面の「匪賊ひぞく討伐」に向かう。
6月14日、大隊長森千代治が、ゲリラの狙撃を受けて戦死。
連隊長は改めて連隊砲中隊長を大隊長に指名し、第2中隊、第3中隊と第1機関銃中隊を編成替えして200名の第1大隊として再編した。
第2大隊は、各種部隊の配属、転入を受け、新編第2大隊(約400名)として復活。
カバルアン丘に陣地を敷いて激闘した第2大隊主力の大盛支隊の大盛大尉が、わずか数名の部下と共にアリタオの兵站病院から復帰し、新編第2大隊の指揮を執る。

連隊はボゴドからアシンを左手に見てパダイへ進出。
さらに小ブギアスに進出し、ここを「旭光台」と名づけ、終戦まで駐留する。
同じブギアスという名の町は「山下道」のインチカクからローへ抜ける道にもある。
その町に比べると、山の中の小集落なので、日本軍はここを小ブギアスと呼んだ。

昭和20年9月12日午前9時、連隊本部の北側傾斜地に、近隣所在の各隊の将兵が集められた。(総勢約50名)
ここで比島上陸以来、戦没した将兵全員の慰霊祭が実施され、続いて、その東側の松林に移動し、軍旗を奉焼した。

9月14日午後3時ごろ、バギオからボントックへ向かう「54キロ地点」で武装解除を受ける。
二木連隊長は出迎えた白人の敵将に対し「第23師団第71連隊、ただいま到着。現員、将校以下568名、ほかに入院患者41名未着。途中若干の落伍者あり。しかもなお多数の戦死者を放置せざるを得ぬ状況にあり、これが収容の全まったからぬを承知しながら、果たしえなかったことを誠に痛恨に感じます」と述べたという。

(参考:井口光雄著 『激闘ルソン戦記』 光人社 2008年発行)

(平成23年9月25日追記)


【林安男連隊長】

戦闘経験としては、北サンフェルナンドで林支隊を率いて斬り込みに活路を得て以来、やたらと斬り込みを多用し、陣地は死守、生きて帰れば、「死に場所を与える」と怒鳴る。
このため「部下を殺すことが戦争だと思い込んでいるんじゃないか」などと陰口を叩かれる。
連隊長から死に場所を与えられた将兵は一桁に止まらなかったらしい。

(参考:井口光雄著 『激闘ルソン戦記』 光人社 2008年発行)

(平成23年9月25日追記)


【第3大隊】

開戦早々に千人以上の編成であったが、各中隊ごとの1個小隊と重火器隊を残置して、550名がサンファビアンの斬り込みに向かい、大隊長畠中次男少佐をはじめとして大多数が戦死。
原隊に生還し得た者は36名であった。
その後、再編成のため、軍司令部から大隊長として小川善三郎少佐を迎えた。(大隊副官は加田勉見習士官)
また、教育隊(前橋予備士官学校・豊橋予備士官学校の出身者)から見習士官30名、船舶砲兵等、近辺の各隊から兵員の補充を受けた。
それにもかかわらず、その後のベンゲット道路のキャンプ3(スリー)、さらにはバギオの防衛戦で消耗。

ナギリアン道のイリサン寄りに第10中隊、バーンハム公園に第9中隊を出した第3大隊の本隊は、その後も少数戦力で、しばらくキャンプ3から4(フォー)の間で、米軍の進撃を食い止め、撤収命令を受領。
大隊長の指揮のもと、キャンプ4でベンゲット道を横切って東進し、イトゴン鉱山からブリンガイを経てカノテ山の北麓へ移動。
ここでまた後方部隊からの補充を受けたものの、固有編成1300名の大隊が、約200数十名になっていた。

5月9日の時点で、第3大隊は「山下道」をカヤパ方面へ急行軍し、「土民道」を辿ってイムガン山北方へ進出。
この付近に布陣していた野砲兵第10連隊の指揮下に入る。
しかし、第3大隊は激戦に継ぐ激戦で兵員が激減し、教育の十分でない他部隊の将兵を多数受け入れ、兵隊の質も量も大下落していた。
5月10日夜、第3大隊はイムガン北方高地に布陣し、その後、敵味方入り乱れての激戦となる。
5月20日ごろ、一旦アリタオへ出て、そこから国道5号線を越え、バレテ峠北側高地(天王山)に進出して再度陣地を構築しようとした。
しかし、敵の侵入を受け、混乱状態となり、再び国道5号線の敵を突破して、サンタフェ西側に撤退。
このため野砲兵連隊との連絡も途切れてしまい、この辺の防衛に当たっている撃兵団(戦車第2師団)に紛れ込んでしまった。
鉄兵団(第10師団)との連絡を取ろうとし、斬り込み隊も次々と出され、ついに小川大隊長の周りには3名の兵士しか残らなかった。(後に2名が斃れる)
バレテ南方の密林に潜み、なんとか本隊復帰の時期を待っていた小川少佐と指揮班長の2名が終戦を知って比島軍の警備隊に投降したのは昭和20年12月3日になってからである。
戦後の調査により、第3大隊の生存者は16名であることが判明している。

(参考:井口光雄著 『激闘ルソン戦記』 光人社 2008年発行)

(平成23年9月25日追記)


【第3大隊第10中隊】

バギオでの戦闘では、日本人墓地のずっと右前の傾斜地に大山正一中尉以下30余名の第10中隊が進出。
第10中隊は気の合った同士で7組のチームを作っていた。
中隊長の組が敵に発見されて猛射を浴びせられ、ついに手榴弾戦となった。
中隊長たちは戦車の放出する火炎放射にやられ、各班は激戦を展開したが、中隊はばらばらの状態となり、直接ここでの戦闘に参加した中隊員30数名中、生存者は4名に過ぎなかった。

ルソンでの3人目の中隊長を対戦車攻撃で失い、指揮を執る将校がいなくなったため、第3機関銃中隊第1小隊長の井口光雄見習士官が中隊長代理として着任。
このときの中隊の人員は23名、そのうち戦闘に耐えられるものは中隊長代理を含め8名。
イトゴン方面へ進出して、後退してくる将兵の誘導に当たるという命を受けて、イトゴン方面へ向かうが敵の制圧下のため断念。
その後、軍命令により、サラクサク峠、イムガン北方へ進出した第3大隊を追及する命令を受ける。
しかし、その後、命令は一転、「大隊を追及するに及ばす。連隊本部のあるアンブクラオへ直行せよ」の命を受ける。(5月8日)
5月17日、アンブクラオの連隊本部に到着。
ボゴドの敵を圧迫するための連隊の転進に際し、尖兵として連隊を誘導する。
その後、小ブギアスの集落に進出し、連隊本部の根拠地としてのブギアス台地を占領し、衛兵中隊として連隊本部後方の護衛を勤めた。

【第3大隊第3機関銃中隊第1小隊】

(編成)
小隊長・伝令・2個分隊(各分隊9名)の合計20名。
各分隊は60kgの機関銃を運搬する4名を銃手と呼び、そのうち3番銃手が射手になり、2番銃手が弾薬の装填役となる。
ほかに30発一連の弾倉を20連詰めた箱を背負う弾薬運搬が4名。(壕を掘るための円匙えんぴという小型シャベルを持つ)
分隊長は十字鍬じゅうじしゅうという機関銃の軸の上下ができるようにその中心部を掘ったりするのに使う小型の鶴嘴つるはしと、手入れ道具道具を入れるジュラルミン製の箱を提げる。

昭和20年1月初旬の米軍リンガエン湾上陸以来、リンガエン湾からマニラに向かって南下しようとする米軍と激戦を展開。
当初は攻守の要である「488高地」に歩兵第71連隊は陣地を敷いていた。
「488高地」は、米軍上陸地点、サンファビアン〜ダモルテスのリンガエン湾岸から東方へ約10kmほど離れた小山である。
第3大隊はサンファビアンの米軍橋頭堡へ斬り込み、第2大隊はカバルアンの丘での防衛戦で全滅。
残る第1大隊と、サンファビアンの斬り込みのときに残置された第3大隊の一部、それに連隊本部からなる兵力が、引き続いての「488高地」での戦闘で、徹底的に叩かれた。
ついに、空爆と砲撃に膚接して肉薄する米軍の攻撃に陣地を持ち耐えることができず、退いてベンゲット道路の入り口、ロザリオからキャンプ1(ワン)へ、さらにキャンプ3(スリー)に後退し、鎬しのぎを削る戦闘をする。
この頃には、負傷、マラリア、栄養失調で小隊は16名、そのうち動ける者は7名。
このサントトーマス山には食べ物はほとんどない。
戦線はどこも食料事情が最悪で、自分たちでなんとか工夫して食いつなぎ、戦闘を継続せよという。
芋掘りのために後方へ使役に出すと、自分の隊の畑を荒らし、食料を奪いに来たものと見なして、後方部隊が撃ってくる。

小隊は、サントトーマス山をベンゲット道のキャンプ3あたりまで降りる稜線に布陣。
キャンプ3とは、ベンゲット道建設時、南の平地から登って来て、3番目の飯場のあった地点である。
このベンゲット道路上で、バギオに向かって北進しようとする米軍を、歩兵第71連隊が総力を尽くして防戦。
加えて、配属工兵である工兵第23連隊第2中隊(落合中尉)が米軍が迫る道路や橋梁を破壊。
さらに、必要に応じて斬り込み隊を送る。

リンガエン湾のバウアンからバギオへ東進する敵に対してナギリアン道路を防衛していた盟兵団が敵の進撃を支えきれなくなり後退。
このため、南からバギオへ入るベンゲット道路を防禦していた歩兵第71連隊は、急遽ナギリアン道路をイリサン付近まで進出して防戦するよう命じられる。

第14方面軍はバギオの放棄を決め、軍司令部の撤退する時間稼ぎのため歩兵第71連隊にバギオ死守を命じる。
小隊はナギリアン道路左手の日本人墓地に陣地を構築し、敵を攻撃せよとの林安男連隊長の直接命令を受ける。
第1小隊2個分隊、12名は、墓地に入る参道の根っこ、疎林の始まるところに第1分隊、それより30mほど奥まったところに第2分隊の陣地を構築して戦闘。

その後、80mほど後方、ナギリアン道路が突き当たる丘(現:士官学校)の正面の松林の中に陣地を転換して戦闘。(4月23日〜24日)

すでにこの頃、山下軍司令部はアリタオからバヨンボンを通り、バガバックに移動。
盟兵団と旭兵団にも撤退命令が出されていたが、雪崩をうって敗走することを避けるため、旭兵団の歩兵第71連隊に殿しんがりとしての一踏ん張りを要求される。
第14方面軍の宇都宮参謀と渡辺参謀は、連隊の作戦について指示を与え、これを受けた武富次男師団参謀が派遣されてきて、林安男連隊長と同じ壕に入り、任務を早く切り上げて撤退しようとする林大佐を牽制。
ギリギリまで撤退させなかったため、連隊は多大な犠牲を強いられた。
4月24日、戦車を伴う敵が撤退し、この日の戦闘が終わった夕刻、「もういいだろう」ということになり、撤退の伝令が出された。

敗走する将兵はバギオ北方6kmのトリニダット(ラ・トリニダート)へ向かい、さらにバギオからボントックへ向かう「21キロ地点」から「山下道」に入るべく急ぐ。
「山下道」はバギオからボントックへ向かう「21キロ地点」から右(東)へ分岐するのだが、その少し手前の右手が崖になっていて、落ち込んだら無事にはすまぬ難所となっている。

5月5日、カノテ山の裾を巡って、ようやく第3大隊本部に追及。
「21キロ地点」から5kmほど東へ入った地点の右側の、ちょっとした藪の中だった。
バギオからこの地点までは30kmもないのに、じつに10日間もかかったことになる。
この時点で、負傷者を入院させてしまうと小隊は1個分隊のみの9名になってしまった。
機関銃中隊全員が1個小隊ほどの編成となってしまい、機関銃中隊本部が到着しだい、残余の9名は機関銃中隊に復帰となる。

(参考:井口光雄著 『激闘ルソン戦記』 光人社 2008年発行)

(平成23年9月25日追記)


【臨時編成八田中隊】

米軍上陸が想定されるリンガエン湾方面に急遽北上する部隊の、必需品を輸送する任に当たる。
この中隊は、連隊が北上するとき、マニラの病院に入院していた患者等によって編成された。
部隊の移動に是非ついて行きたいと願って、勝手に退院した将兵たちだが、部隊の資材はまだマニラにかなり残っていたため、急遽北進する部隊は、それらの資材を八田中尉に輸送するよう命じた。
第1回目の輸送は成功したが、以後、米軍の新劇が早く、北部へ転進することができない状態となる。
このため、やむをえずイポダム一帯に布陣していた河嶋兵団の傘下に入り、この方面の戦闘に参加した。
このとき、トンコンマンガ付近に進出してきた米軍砲兵隊の陣地に斬り込み、3日間その陣地を確保するという偉業を成し遂げている。
実際は、中隊全員による夜間総攻撃による戦果のようであったが、その後の戦闘で中隊は全滅。
生還者は1名のみ。

(参考:井口光雄著 『激闘ルソン戦記』 光人社 2008年発行)

(平成23年9月25日追記)


献木



献木 歩兵第71聯隊戦友會
(鹿児島市・鹿児島県護国神社





(平成19年3月30日)

著者は、歩兵第71連隊第3大隊第3機関銃中隊第1小隊長。
のちに同連隊第3大隊第10中隊長代理となり終戦を迎える。

 (関連商品のご紹介)

ノモンハン事件  フィリピン戦  ルソン戦



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