歩兵第79連隊

(通称号:朝2054部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
朝鮮・龍山 大正5年 第20師団 東部ニューギニア

慰霊碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友ともはここに眠る

大阪護国神社

通称名
野戦隊 朝2054部隊
補充隊 朝鮮第23部隊


(平成20年6月15日)

碑文

聞喜城死守

敵ハ増シ緑ハ茂リ月末ダ出デズ
弾薬ツキルモ援隊ヲ乞ハズ
ナレド敵弾城壁ヲユルガス
糧秣ニカヘン犬マダ多ケレバ
粉骨砕身以テ死守セム
決意ハカタシ聞喜城

この詩文は 昭和13年5月 晋南奪還を呼号する敵は 衛立煌将軍の指揮する40数ヶ師の大軍を以って 広大なる戦域に散在する我が第20師団を十重二十重に分断包囲す
我が歩兵第79聯隊は師団主力より遠く敵中100粁の運城 安邑聞喜に夫々孤立し弾薬糧秣の補給を断たる
森本聯隊長以下光輝ある軍旗を奉じ鉄石の団結と必勝の確信を以って飢えに耐え弾雨を冒し艱難を凌ぐ
必死の攻防戦は7月7日まで続き 籠城戦は実に50余日に及びたり
聞喜ぶんき城死守の詩文は 山崎第3大隊の大阪出身兵が籠城戦の一夜 苦戦の実況を焚火の消し炭で書き残した
師団長牛島将軍はこの詩文に感激し 石工の技を持つ兵に炭字の上を「のみ」で彫らせ写真を撮って天覧に供し御嘉賞の栄を賜わる
爾来1年有余 聯隊はこの要衝聞喜城周辺に於て壮絶なる戦いを続け勇敢なる多くの戦友は晋南の華と散った
嗚呼 無雙の偉勲は千載に輝く
戦友よ こゝに帰りて安らかに眠り給え

歩兵79聯隊戦友一同

歩兵第79聯隊経歴

日韓併合により朝鮮半島の鎮護と大陸有事に備え聯隊創設せられ竜山に駐屯す

大正5年4月 軍旗拝受
同 8年9月 国境附近の匪賊鎮圧に出動
同14年12月 南満洲治安維持のため混成大隊を奉天に派遣
昭和2年5月 支那事件のため一部満洲に派遣
同 6年9月 満洲事変のため一部奉天チチハルに派遣
同12年7月 北支事変勃発応急動員により軍旗を奉じ天津に出動
         爾来河北省山西省に作戦す
         その間大原攻略戦 垣曲作戦 平陸殲滅作戦の武功により夫々軍司令官より感状受賞す
同15年1月 竜山に帰還
同16年7月 関特演のため動員下令
同18年1月 南方作戦急変により東部「ニューギニヤ」に出動す
         この間第9中隊の「カテウ」陣地夜襲
         第10中隊の「アント」岬逆上陸は共に感状上聞に達す
同20年8月 終戦の大命下る
         「モンブック」山中に於て生存将兵百余名は悲憤の涙の裡に
         栄光に輝く軍旗を奉焼し我が聯隊の歴史の幕を閉じた

動員業務担当大阪師管縁りの地大阪護国神社に慰霊の碑を建立いたし聯隊創設よりの戦歿者7千5百余柱の遺勲を顕彰しその霊をここに祀る

昭和57年4月17日
歩兵第79聯隊戦友会

(副碑・碑文より)

歩兵第79聯隊 奮戦記
通称名 朝第2054部隊

昭和18年9月22日 敵は大挙東部ニューギニヤ「アント」岬に上陸を開始するや第18軍攻勢の主体となった我が聯隊は長駆機動すること400粁 奔流急湍を渡河し或は峻峰密林の難路を踏破して戦斗に加入し 圧倒的な敵の物量攻撃に屈せず「アント」岬の逆上陸「カチカ」陣地の夜襲斬込 或は壮烈な肉迫攻撃と更に旺盛な攻撃精神を発揮して遂に敵の堅陣を突破し潰走せしめた
この間喰うに食なく戦ふに弾丸なき最悪の窮地にあり 旦敵機の熾烈なる銃爆撃の下 熱帯の諸病魔を克服し長期に亘って力斗奮戦し勇奮凛烈 遺憾なく皇軍の本領を発揮したもので その戦績は真に抜群であって広く全軍の亀鑑と仰がれた

昭18・11・2 杉野舟艇突入隊に感状授与
昭18・11・2 甲谷第9中隊に感状授与
昭19・4・29 歩兵第79聯隊に感状授与
昭19・9・19 歩兵第79聯隊に感状授与

(副碑・碑文より)


【敗戦】

昭和20年9月25日、ボイキンの海岸で武装解除。
その夜、舟艇で対岸にあるムッシュ島に配流となる。

総兵員6,151名、生還者91名 (残務整理の段階で各個の記憶を辿って作成した資料による)
生還者91名となっているが、戦傷、戦病で早く送還された将兵を含んでいるのであろう。
敗戦の時、連隊長の口から聞かされた生存者数は67名だった。
昭和19年3月が戦傷病兵の内地送還の最終便だったらしい。
以後は杜絶している。

(参考:尾川正二 著 『東部ニューギニア戦線〜棄てられた部隊〜』 図書出版社 1992年初版第1刷発行)

(平成29年2月9日 追記)




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