(通称号:淀4072部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
大阪 | 明治7年 | 第4師団 | タイ国(ランバーン北方) |
編成後、萩の乱・西南の役に出動。
日清・日露戦争にも参加。
日露戦争では金州・南山攻略・遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦などに参加。
大正3年の第一次世界大戦では第2大隊が青島攻略戦でドイツを相手に戦った。
昭和12年5月、満州へ。
新京(長春)で警備につく。
11月、牡丹江省に移駐してソ満国境の警戒にあたる。
日中戦争では師団は支那派遣軍隷下に入り、漢水作戦・予南作戦・江北作戦・第二次長沙作戦に参加。
昭和14年のノモンハン事件にも派遣されたが、前線に到着前に停戦となる。
太平洋戦争が始まってしばらくは上海に駐屯。
第2次バターン半島攻略戦参加のためフィリピンへ。
昭和17年3月6日、リンガエン湾に上陸。
バターン半島攻略後、コレヒドール島攻略戦にも参加。
その後、内地に帰還復員。
昭和18年9月、再び動員されスマトラ島の警備に当たる。
昭和20年に仏印に転進し、明号作戦に参加。
その後、タイに転進して同地で終戦を迎えた。
『平和の礎 歩兵第8聨隊慰霊碑』 (大阪護国神社) (平成20年6月15日) |
慰霊碑記
昭和天皇御製
国のため たふれし人の 魂をしも
つね なくさめよ あかるく 生きて
歩兵第8聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日軍旗を親授せられ 尓来 七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
この間 西南之役をはじめ 日清戦争 台湾警備 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加し 満洲 台湾 中国 フィリピン スマトラ インドシナ 泰等の各地に赴き 2千7百名余の戦歿者を出した
ここに大阪護国神社柳澤 寮宮司の揮毫をいただいて 碑を建て 亡き戦友の偉勲を偲び 慰霊の誠を捧げる
嗚呼 英霊は平和の礎いしずえ
平成元年5月
歩八会
(碑文より)
歩兵第8聯隊歌
1.朝日輝く生駒山
夕陽彩るちぬの海
千古歴史の影宿し
豊に流るる大淀の
河辺に立ちて武を練るは
我等歩八の健男児
2.国史の著き攝河泉
忠臣義士の血を稟けて
生ひ立つ我等今茲に
召出されて大君の
醜の御盾と仕ふなる
光栄何にいう譬ふべき
(銘板より)
『歩兵第8聯隊跡』碑 (大阪市・難波の宮跡) (平成20年6月16日) |
碑文
歩兵第8聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
昭和50年4月
歩八会
遺跡の概要
発掘調査により、難波宮なにわのみや跡は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされてきた。
前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱ほったてばしらで、屋根に瓦を葺ふかない建物であった。
7世紀の中頃、飛鳥あすかで蘇我そが氏が亡ぼされて後、都みやこが難波に遷うつされてつくられた難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみやがこれにあたると考えられている。
天武天皇朱鳥てんむてんのうしゅちょう元年(686年)に、火災で全焼するまでつづいたと考えられる。
この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和やまとの藤原宮ふじわらのみやに先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。
後期難波宮は、奈良時代の神亀じんき3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿である。
大極殿だいごくでんや朝堂院ちょうどういんの中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文れんげもん・唐草文からくさもん・重圏文軒瓦じゅうけんもんのきがわらなどの瓦が葺かれていた。
天平てんぴょう16年(744年)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。
前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されている。
港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことがしのばれる。
(説明板より)
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