歩兵第9連隊

(通称号:垣6554部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
京都 明治7年 第16師団 レイテ島


明治7年12月18日、大阪で創設。
翌8年、大津に移駐。
初陣は西南戦争。田原坂などの激戦地で活躍した。
明治28年、日清戦争で動員。金州・大孤山・柳樹屯に駐屯し同地の警備に従事する。
日露戦争では、金州・得利寺・遼陽の各戦闘を経て明治38年3月の奉天会戦に参加。
12月21日、帰還。
大正8年から2年間シベリアに出兵。
大正9年から10年にかけて満州の警備に従事した。
大正14年の宇垣軍縮による軍制改革により京都に移駐。第16師団に編入。
日中戦争では北支方面軍に編入。
昭和12年9月14日、塘沽に上陸。子牙河作戦に参加し順徳を占領後、華北方面へ転出。
南京攻略後、再び華北方面へ転戦し、徐州会戦・武漢攻略戦に参加。
昭和14年8月、帰還。
昭和16年11月1日、動員下令。
昭和16年12月22日、フィリピン・ルソン島北部リンガエン湾に敵前上陸を敢行。
第1次バターン半島攻略作戦では、ナチブのジャングルを切り開きながら16日間かけて進撃し、パランガ付近に進出。
昭和17年1月27日にはカポット台に進出したが、米比軍との5日間にわたる激戦で連隊は全滅に近い損害を受ける。
第2次バターン半島攻略戦後、カマリネス州ナガ市に連隊本部を置き、南部ルソンとビサヤ地区諸島の警備に従事。
昭和19年、連隊主力はサマール島へ転進。
昭和19年7月19日、レイテ島へ進出。
昭和19年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。
12月6日、ブラウエン飛行場を奪回する『和号作戦』を敢行したが、米軍の激しい反撃のため連隊は壊滅状態となり、米軍の包囲網を突破してロビ山脈の陣地まで帰還した将兵は皆無であった。


京都歩兵連隊跡の碑



『京都歩兵聯隊跡』の碑
(京都市伏見区・藤森神社境内)




(平成16年10月1日)

碑文

藤の森神社東側の台上は 50年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 10万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死をを誓い 日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である

歩兵第9聯隊は明治建軍に当たり 明治7年に創設せられて大津にあった
これを母隊として明治29年歩兵第38聯隊が編成され 翌30年7月この兵舎の竣工をまってこの地に屯した
大正14年5月 軍制改革により歩兵第38聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第9連隊主力がここに駐屯することになった

歩兵第9 第38両聯隊は 明治37・8年の日露戦争に出征 第4師団に属して満洲の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲をたてた
満洲事変にさいしては 京都第16師団の隷下にあって北満の警備に任じ ついで昭和12年支那事変勃発するや北支・中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い 長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした
歩兵第9聯隊は 昭和16年大東亜戦争の劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の後主力をもってレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた
時 昭和19年12月8日

歩兵第109聯隊は 昭和13年この地において編成され中支に出動 
長期にわたり揚子江中流地域の警備に任ずるほか 湘江・■江の激戦に参加し 幾度か敵の重囲に陥りながらよく奮戦力闘を重ね 終戦とともに矛を収めて内地に帰還した

このほか大東亜戦争の戦局いよいよ熾烈を極めるにしたがい この兵営(通称中部第37部隊)において或は動員され 或は兵員を補充された諸部隊は数多くあったがそのうち主なものを列挙すれば インド インパールに進攻した歩兵第60聯隊(祭) ビルマの各戦線に苦闘した歩兵第128聯隊(安) 沖縄にその最期を飾った歩兵第63旅団(石) ミンダナオ島に戦った独立守備歩兵第35大隊(幸) 本土防衛に任じた護京・比叡・山城諸兵団の歩兵聯隊等である

顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとに出陣するにさいし 戦勝と武運の長久を祈願したのはこの藤の森神社であった

今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている
しかしながら 祖国を愛し 祖国を護り 進んで国難に殉じた郷土部隊の栄光ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである

時あたかも明治百年を迎えるに当たり ここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り 由緒深きこの地を史跡として先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え 陣没した幾多の英霊を慰めるとともに 国運の隆盛と世界平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである

昭和43年4月18日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

※■はパソコンにない文字です。(草冠に止と書きます)


歩兵第9連隊の跡碑


「歩兵第九聨隊之跡」の碑
林茂清識

(滋賀県大津市・市民文化会館裏)




(平成17年4月9日)



歩兵第9聨隊は明治7年此の地に創設せられ同年12月18日明治天皇より軍旗を親授された
尓来星霜70年 此処に修武練胆の将兵幾十万を算し 京滋を守る
西南の役には肥薩に勇戦 日清戦争には遼東に 翌年台湾に出征して武勲を樹てた
日露戦争には南山 遼陽 黒溝台等各地に勇戦
特に奉天会戦には終始力戦
真に屍山血河の激戦を重ね 将兵の大半を失うに至ったが 克く大敵を撃破し 全軍完勝に多大の貢献をした
また此の戦役に後備歩兵第9聨隊は旅順に苦闘 殆ど全滅の惨に瀕しつつ 要塞攻略に殊功を樹てた
越えて大正8年シベリアに出征
同14年第3大隊を当地に残し主力は京都に移駐した
昭和9年より2年間 聨隊は満洲に駐屯し 北安 黒河等に在って 北満を固めた
昭和12年支那事変が起り 聨隊は北支進攻の後 中支に転戦
同年12月南京攻略戦に参加し 続いて翌年5月徐州に戦い 10月長駆大別山を越えて武漢に進んだ
更に大東亜戦争には比島作戦に参加してマニラに進み バターン半島に転戦の後 主力は19年秋レイテ島において米軍主力の反攻を受け 敵を水際に迎撃 或は後方陣地に勇戦力闘したが 我第一線は相ついで全滅し 12月8日最後の突撃を敢行
聨隊長以下全員軍旗と共に玉砕したのである
また歩兵第9聨隊を母隊とし 動員編成された幾多の部隊は中支 ビルマ 沖縄など各地に戦い 不滅の武勲を樹てた
今や物換り星移って 在りし日の聨隊を偲ぶ俤も薄れつつあるが 祖国を守る輝かしい伝統と歴史は永久に伝えられなければならない
茲に聨隊関係一同相図り 県下有志多数の御協力を得て 由緒ある此の地を史蹟として保存し 平和の礎石となられた今は亡き戦友への餞とすると共に 国運の隆昌と世界の平和を祈念して 此の碑を建てるものである

昭和42年4月18日
歩兵第9聨隊記念碑建設委員会一同

(副碑より)

連隊跡の碑のある場所から見た景色 連隊跡の碑がある場所から見た景色
市民文化会館


市民文化会館

この建物の後ろの高台に連隊跡の碑があります。




(平成17年4月9日)

フィリピン・ルソン島
サマット山


サマット山(Mt.Samat)

山頂には大きな十字架が建っています。
第1次攻略戦の時の第65旅団が進撃した方向から山を見ました。



(平成16年5月7日)
平和之塔

『平和之塔』
(フィリピン共和国ルソン島・バターン半島)

サマット山の登山口脇の空地に建っています。
京都比島桃陵遺族会と垣兵団(第16師団)戦友有志によって1986年に建立されたものです。

旅日記をご参照ください)

(平成16年5月7日)

碑文

平和之塔
こゝは太平洋戦争に於いて、多くの戦士達が祖国の為に激しい攻防戦の中で、無残に散り果てた痛恨の地である。
世界が再び、あの愚かにして悲惨な戦争を繰返さぬ為に、不戦の誓いをこめて、弔魂の誠を捧げると共に悠久の平和を祈念して、この碑を建立するものである。

西暦1986年6月
京都 比島桃陵遺族会
元垣兵団戦友有志

This is memorial of all country
where soldiers dead on these
field during the world war Ⅱ
erected by the
Japanese memorial service




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