茨城県鹿島郡鉾田町大竹附近
平成17年2月6日
鉾田陸軍飛行学校 顕彰碑 (茨城県鹿島郡鉾田町) 茨城県知事 岩上二郎 書 (平成17年2月6日) |
建立の記
鉾田陸軍飛行学校は、昭和15年12月旧上島白鳥両村約8百町歩、旧新宮村4百町歩の地域に開設され、軽爆、襲撃飛行隊幹部の教育訓練並びに研究が行なわれていたところである。
大東亜戦争いよいよ熾烈となるや、本土防衛のため、昭和19年6月鉾田教導飛行師団となり、翌20年7月主力を以って純作戦部隊として第26飛行師団に改編された。
この間、特攻隊が生まれ訓練の基地となり、我国特攻隊として最初に編成された万朶隊を始め、鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊4隊、神鷲隊12隊、外4隊計24隊が編成された。
うち11隊計67名が比島、沖縄及び終戦直前の鹿島灘東方洋上作戦に参加し、特攻散華されたのであった。
なお学校訓練並びに新編成部隊の昼夜を分かたぬ猛訓練のため、幾多の将兵が殉職されたところである。
戦後すでに29年、当飛行場跡は徒に荒廃を極め、往時を回顧すべき何物もないのは洵に痛恨の至りである。
茲に於て、地元有志並びに戦友相諮り殉国の英霊を顕彰し、その鎮魂と世界平和の祈りをこめて、ここに鉾田陸軍飛行学校顕彰碑を建立した次第である。
昭和49年10月
梁P健吾 撰文
(説明副碑より)
特攻戦没者
比島方面 | ||
万朶隊 | 昭和17年11月12日 | 生田留男 |
田中逸夫 | ||
久保昌昭 | ||
石渡俊行 | ||
鵜沢邦夫 | ||
鉄心隊 | 昭和19年12月5日 | 松井 浩 |
西山敬次 | ||
長浜 清 | ||
志村政夫 | ||
藤原義行 | ||
長尾熊夫 | ||
星 一ニ郎 | ||
三木将司 | ||
林 利喜夫 | ||
岩広 智 | ||
小川武士 | ||
勤皇隊 | 昭和19年12月7日 | 勝又 満 |
入江眞澄 | ||
大村秀一 | ||
片野 茂 | ||
白石二郎 | ||
林 長守 | ||
増田良次 | ||
加藤和三郎 | ||
皇魂隊 | 昭和20年1月8日 | 三浦恭一 |
倉地政勝 | ||
春日元喜 | ||
入江千之介 | ||
寺田増生 | ||
沖縄方面 | ||
振武隊 (と号45隊) |
昭和20年5月28日 | 藤井 一 |
中田 茂 | ||
小川 彰 | ||
鈴木邦彦 | ||
一口義男 | ||
北村伊那夫 | ||
興国 茂 | ||
伊藤好久 | ||
小川春雄 | ||
宮井政信 | ||
振武隊 (と号63隊) |
昭和20年6月7日 | 難波晋策 |
後藤与三郎 | ||
宮 光男 | ||
榊原吉一 | ||
佐々木平吉 | ||
服部良策 | ||
振武隊 (と号64隊) |
昭和20年6月11日 | 井上 清 |
加藤俊二 | ||
斎藤正俊 | ||
森 高夫 | ||
岸田盛夫 | ||
鹿島灘東方洋上 | ||
神鷲隊 (と号201隊) |
昭和20年8月3日 | 小川 満 |
横山善次 | ||
藤田重喜 | ||
神鷲隊 (と号255隊) |
昭和20年8月9日 | 吉村公男 |
渡辺秀男 | ||
石井 博 | ||
比島方面 | ||
丹心隊 | 昭和19年12月7日 | 二瓶秀典 |
東 直次郎 | ||
北井正之佐 | ||
進襲隊 | 昭和19年12月30日 | 大石 豊 |
久木元延秀 | ||
小串金作 |
特攻隊戦死者
万朶隊 勤皇隊 |
岩本益臣 |
園田芳巳 | |
川島 孝 | |
安藤 浩 | |
中川克巳 | |
門口Y夫 | |
野沢欣次郎 | |
渡辺 力 | |
小平 昭 | |
利光勝義 | |
其の他 | 原田直三郎 |
武藤房雄 |
殉職者
水崎 肇 | 鶴沢一三 | 鈴木秋水 | 古屋曹長 | 日比重克 | 小笠原曹長 | 希代壽夫 | 大山伍長 | 杉山勝信 |
岡 伍長 | 勢力武雄 | 飯島正信 | 山崎正恬 | 原田 穰 | 西川洋一 | 新堀知江 | 西野晃太郎 | 岩P孝一 |
林 国俊 | 菅谷 照 | 矢野俊太郎 | 松沢 操 | ■山平蔵 | 永峰房雄 | 今井義治 | 石崎儀衛 | 杉光邦夫 |
遠峰仁之吉 | 川合郁夫 | 宮内盛男 | 林 利喜夫 | 遠藤豊彦 | 五十嵐 甲 | 横田元助 | 鴨原忠雄 | 牛山曹長 |
堀内清松 | 市村公三 |
※ ■はパソコン上にない文字のため表示できませんでした。
発起人
元鉾田教導飛行師団長 高品 朋
元鉾田陸軍飛行学校開設準備委員 梁瀬健吾
元鉾田陸軍飛行学校教官代表 古賀政喜
元鉾田教導飛行師団特攻隊代表 浅野満祥
元鉾田陸軍飛行学校学生代表 玉手文武
元鉾田陸軍飛行学校現地軍人代表 石山義則
元鉾田陸軍飛行学校現地一般代表 三井玄市
昭和49年10月
大洋村 飯島英一 謹書
岩P町 堀石材工業 建立
航士56期57期鉾飛校関係戦死殉職者之霊
鉾田編成特攻隊援助整備通信軍人軍属五十余名の霊
(碑文より)
顕彰碑のある場所 非常にわかりづらいところにありました。 捜すのに近くをウロウロと1時間も走り回りました。 幹線道路沿いの野球グラウンドと瀬尾産業(株)茨城工場の間のわき道を少し入った所にありました。 幹線道路からは顕彰碑の看板が見えません。 道路沿いに案内板があるといいのにねぇ〜 (平成17年2月6日訪問) |
鉾田教導飛行師団
昭和19年6月に鉾田陸軍飛行学校が改編されて設置された軽爆撃機教育の中心地。
軽爆戦隊への配備が進んでいた複座戦闘機(二式複座戦闘機=二式双発襲撃機)の錬成教育を担当する。
双襲隊の隊長は、陸軍特攻のさきがけ・万朶ばんだ隊(九九式双発軽爆撃機)を率いた岩本益臣大尉。
参考文献:渡辺洋二著・「双発戦闘機屠龍」
(平成17年2月15日記)
【陸軍特別攻撃隊「万朶隊」・岩本益臣大尉】
陸軍最初の特攻隊として茨城県の鉾田陸軍教導飛行師団(師団長・今西六郎少将)と、浜松教導飛行師団(師団長・川上清志少将)に九九双軽と四式重爆(飛龍)による特攻隊の編成命令が伝えられたのは昭和19年10月20日であった。
「陸軍大尉岩本益臣以下24名、第4航空軍に配属を命ず。フィリピン到着後は、第4航空軍司令官の指揮に従い作戦任務を遂行すべし。出発は明朝8時」。
岩本大尉は隊長を命ぜられた。
岩本隊(万朶隊)は、全機が体当たりに改装した九九双軽である。
台湾嘉義飛行場を経て、昭和19年10月26日、リパ飛行場に到着した。
11月5日の朝、岩本隊長は隊員に次のように訓示した。
「今より空勤の将校全員はマニラの第4航空軍司令部に行く。リパに帰る予定は改めてマニラから連絡する云々」(以下略)
午前8時、岩本機はリパ飛行場を出発した。
園田中尉、安藤中尉、川島中尉、中川少尉の4人が同乗し、操縦は園田中尉であった。
この日のルソン島上空は快晴であり、米機の空襲が毎朝定期便のように始まるときである。
岩本大尉はリパに来て以来、それをよく見聞していた。
しかも岩本機は、体当たり機に改造したために、1門の機関砲も持たない無防備機である。
リパ飛行場はマニラの南方90キロのところにあり、九九双軽での飛行時間は20分たらずである。
しばらくすると、リパ飛行場に激しい空襲があった。
午前11時を過ぎたころ、4航軍(第4航空軍)司令部から万朶隊あてに無電が送られてきた。
「万朶隊は出発せしや、状況によっては地上自動車にてこられたし」
この電文で、岩本機がマニラに到着していないことが明らかとなった。
マニラ市周辺も猛烈な空襲がつづき、その中へ岩本機が飛び込んだことが今や明らかになってきた。
隊員たちは、こんな定期便(敵襲)が来る時刻にマニラに呼び寄せる4航軍の命令を罵った。
岩本機は、ラグナ湖上空でグラマンF6F戦闘機2機に撃墜され、重傷の中川少尉以外は全員銃弾を受けて絶命していた。
万朶隊の残された隊員たちは、4航軍の「呼び寄せ」を罵り、「岩本大尉に無謀な飛行をさせたのは4航軍の命令だ」と固く信じて疑わなかった。
(平成4年11月9日、奈良市で開催した4航軍サンチャゴ会に出席した大元肇氏〈当時4航軍司令部・衛兵班上等兵〉は、副官部の成瀬大尉に引率され、救助隊としてトラックで現地に向った。地上に散乱した遺体は現地人に襲われて、ほとんど遺品はなかった、と私〈著者〉に当時を述懐された)
(参考:高橋秀治 著 『第四航空軍の最後〜司令部付主計兵のルソン戦記〜』2008年11月発行 光人社)
(平成26年10月13日 追記)
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