5.オリオン峠の慰霊碑


 平成22年(2010年)3月21日 (第3日目)

今日は、一気にマニラに戻る日である。
結構、強行軍になりそうである。

朝食は各自、自分の部屋の前のテラスでとるということにする。

   

朝食は、トーストとお粥である!
すごい取り合わせである!(笑)
和洋折衷というか・・・何というか・・・中洋折衷?
さらに笑っちゃったのが・・・これ・・・

   

お粥用のスプーンは・・・ドラエモンである!(大笑)
で・・・デザートのお皿は・・・クマのプーさんである!
とてもホテルの食器とは思えない・・・・

パイナップルのデザート付とは豪勢な・・・と思ったが・・・
思い出した!
昨日“ステラさん”が買ってくれたパイナップルである!

8時前にはチェックアウトして、いざ出発!
私にとって、この方面は初めての場所である。
北部の山岳地帯だから、さぞかし峻険な山々が迫る平地など殆どない場所だと思っていたのだが・・・
意外や意外、広大な平野が広がり、一面に田んぼが見える。
あらら・・・穀倉地帯?
こういう平地があったとは知らなかった。
現地に来てみないと分からないものである。

だから・・・なのか・・・
一瀬部隊の属する第103師団はこの周辺の対空配備についていたという。
米軍がパラシュートで前線の後方に降下するのではないかということでの配備だったようだ。
これだけの平地があれば、パラシュート降下の可能性は十分考えられるなぁ。
が・・・まもなく、米軍の降下の可能性がないということで、一瀬部隊は南下して前線に向かうことになったようである。

今年は、北部ルソンは異常気象のせいで干ばつだという。
トウモロコシ畑などが枯れてしまっているという。
と・・・いうことで・・・家畜の飼料の値段が上がってしまうから、そのうち豚肉も鶏肉も値上がりするだろうと言われているという。
なるほどねぇ〜
確かに、枯れているような畑も車窓から見受けられた。

今日は、ただただマニラに向かって帰るだけなので、その途中、途中で、慰霊碑に立ち寄りながらのドライブを企画した。
本来の目的である慰霊を無事終えることが出来て気分的には楽である。
名残惜しいが・・・小隊長殿たちとはお別れである。
英霊の皆さんは喜んでくれたかなぁ〜・・・と、ふと、思う・・・・

車は昨日通ったと同じルートをそのまま戻る形でマニラに向かうことになる。
で・・・まずは、途中の「オリオン峠」にある慰霊碑をお参りすることにした。
「オリオン峠」というところに慰霊碑があることは、以前から知っていたので、是非訪れたかった場所である。
昨日、ここを通った時に“ステラさん”が慰霊碑の場所を見落としてしまい通過してしまったので帰り道に立ち寄ることにしたのである。

オリオン峠に向う道

時刻は午前8時15分・・・
オリオン峠の慰霊碑・・・・見つけた!
が・・・意外にも道路の脇にある!
あれ〜イメージが違うんだよなぁ〜(笑)
山の頂上にあると思っていたんだけど・・・

オリオン峠の慰霊碑

慰霊碑は学校のようなところの脇にあったが・・・
廻りはフェンスで囲まれていて、しかも、ブロックが積まれつつある。
どうも工事中のようなのだが・・・・
あれ?入口がない!(笑)
そんなバカな・・・
と・・・
近所の人たちが集まってきた。
どうもこの慰霊碑の管理をしているらしい“おばあちゃん”が身ぶり手ぶりで、ブロック塀を乗り越えて中に入っていいと言ってくれたので、ブロック塀を乗り越えて中に入ってみたら・・・・
あれ!!!
なにこれ!!
一瀬部隊の慰霊碑じゃないですか!
これにはさすがに驚いた。
「オリオン峠の慰霊碑」というのは知っていたが、まさか一瀬部隊のものとは知らなかった。

  慰霊之碑

はるか 異郷の 山野に ちりし

み霊よ こゝに集い 来りて

安らかに 眠り給え

(碑文)

第103師団歩兵第80旅団独立歩兵第179大隊駿第9760部隊威第17614部隊
一瀬部隊玉砕散華之戦跡
昭和20年
オリオン峠
昭和59年1月11日一駿遺族会戦友会建之
Dedication

We take pride and honor in erecting this marker as a monument for the valiant
people of Japan and the philippines who fought and perished orion for their
respective loyalties in the last Pacific war.
May it fittingly serve now as a reminder of the far more reaching ideal pledged
between our governments for mutual cooperation and true friendship.
Built by the Isshun fellow - soldiers and the war bereaved families - Ichinose unit.

January 11. 1984

※「威17614部隊」は「駿17614部隊(=独立歩兵第179大隊)」の間違いでは?

この碑は昭和59年に建立されている。
その建立した人(団体?)が、お金を出して、周囲の整備をさせているのだそうだ。
ブロック塀はその整備工事の途中ということだそうだ。
最近では、戦友会、遺族会が解散となり、慰霊碑の管理費を払う人がいなくなり、フィリピンでは次々と慰霊碑が撤去されているというのに、ここは整備しているんだから大したものである。
慰霊碑の裏面に長文の英文で碑文が刻まれているが、日本文は「一瀬部隊玉砕散華之戦跡」としか記されていない。

ここオリオン峠には二宮大隊(独立歩兵第184大隊)がいたが、この部隊は別な場所に転進し、代わりに一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)、山下大隊(独立歩兵第175大隊)が陣を敷くことになる。
この峠でサンチャゴに向かい北上してくる米軍を迎え撃つということなのだろう。
昭和20年6月9日に一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)の2個中隊が到着している。
6月12日の夜にはサンチャゴにある第103師団司令部まで砲声が聞こえたという。
ということは、たぶん、この頃から戦闘が始まったのだろう。
13日には大隊長の一瀬末松大佐(陸軍士官学校26期)が戦死し、山下大隊の山下大隊長が指揮を執る。
14日には師団司令部のあるサンチャゴが砲爆撃を受け戦車も侵入してきたというが、一瀬、山下両大隊は15日までオリオン峠の一角を保持していたという。
『戦史叢書』によれば、こういうことだそうだ。

また、一瀬部隊は、本部と4個中隊の他に銃砲隊と作業隊があり、総勢1100名の部隊だったらしい。
で・・・戦後の調査では・・・
戦死500名、生死不明400名、戦病死200名で・・・合計すると1100名・・・
つまり、玉砕したということになる。
佐藤さんのおじいさんは、生死不明の400名か戦病死の200名の中に入っていることになるが・・・
それにしても生死不明が400名とは多すぎる。
これは、大隊本部が各中隊の状況を把握できていなかったためではあるまいか?

この旅の事前に、多少資料などを探したが、その中に生還した衛生兵が昭和38年に証言した記録があった。
それによれば、オリオン峠には本部と第1、第2、第3中隊が1日おきに峠に到着し、その後、第1、第2中隊は殆ど消滅したという。
消滅とは、まさしく消えてしまった・・・ということだろう。
全滅したのか、それとも散り散りになったのか・・・その姿が見えなくなったらしい。
戦果を挙げたのは第3中隊のみだったという。
斬り込み隊は、戦車1両、砲車数両を爆破して、食糧を分捕って帰って来たという。
が・・・結局は、その後、ほぼ玉砕してしまったらしい。

さて・・・ここでまた頭が混乱して来たぞ。(笑)
佐藤さんのおじいさんの所属中隊に関して分からなくなってきた。(笑)
だいたい“唯一の生還者”から話を聞いた人からの「伝聞」だから始末が悪い。
どうして生還者自身が直接遺族に伝えなかったのか・・・不思議である。
間に入って”第3小隊唯一の生還者”の話を伝えてきた人の手紙によれば・・・
第3中隊は一瀬部隊本隊が南下後、カワヤンに残っていたが、サンチャゴの師団司令部が敵に襲われたため南下したということになっている。
しかも、佐藤さんのおじいさんの第3小隊は第3中隊の先頭を切って南下したという。
おかしい・・・(笑)
話が合わない・・・
一瀬大隊の生還した衛生兵の証言では、オリオン峠に第3中隊は到着して戦果を挙げているのである。
手紙を寄こした人の話は、『戦史叢書』(いわゆる公刊戦史)からの引用なのか?
6月9日に到着した2個中隊とは、どの中隊なのだろうか?
第1中隊と第2中隊のことなのだろうか?
佐藤さんのおじいさんの所属する第3中隊は到着しなかったということか?
中隊の先頭を切って南下し、敵と遭遇した為に河へ逃げたというのか?
そうなると、今度は生還した衛生兵の「3個中隊が1日おきに到着した」話や「第3中隊だけが戦果を挙げた」という話と矛盾してしまう。
この『戦史叢書』には間違った記載が多く見られ、私は書かれていることをあまり鵜呑みにはしないことにしているのだが・・・
よく遺族の中にはこれを鵜呑みにして、一方的に思い込みをして私に質問して来る人がいて、大いに閉口することがある。
これも、その一つかも・・・・

先頭ではなくて、最後にカワヤンを出発したなら、辻褄が合う。
第3中隊本隊はオリオン峠で壊滅。
最後に出発した第2小隊、第3小隊の2個小隊は、本隊にたどり着けず、しかもサンチャゴにある師団司令部を蹴散らしてエチアゲまで進出して来た米軍と遭遇。
第2小隊長は砲撃で吹き飛び戦死。
第3小隊長である佐藤さんのおじいさんは、部下を引き連れ河を渡って東方山中に逃げ込む・・・・
これなら辻褄が合う。
中隊の先頭を進んでいたのでは、オリオン峠まで到着してしまい、そこで戦うことになるから、おかしな話になってしまう。

“唯一の生還者”からの「伝聞」では日時に関しては何も語られていないのだが、これなら時系列的にも合うだろう。
しかも、これならば第3小隊が東方山中に逃げ込んだことも理解できるのである。
つまり・・・・
大隊も中隊もすでに全滅してしまい合流できないのである。
本来ならば、本隊を追求、合流せず、途中で姿をくらますというのは「敵前逃亡」扱いにされてもおかしくないのだが、合流すべき本隊が玉砕していては合流したくても合流できない。
となれば・・・小隊が独自の判断で行動してもおかしくはないし、問題はないだろう。

手紙や文献を読んでも、どうもピンとこなくて、よくわからなかったのだが・・・
実際に現地を訪れ、部隊の移動ルートを実際に移動してみて、その位置関係がわかってきたら、なんとなく“見えて”きた。(笑)

こういう調査は本当に難しいのだ。
生還者の話が必ずしも正確とは限らない。
どこかで勘違いや思い違い、言葉足らず、などがある。
で・・・文献の方にも間違った記載があったりする。
どれを信じていいのやら・・・ということになるが・・・
いくつもの資料を照らし合わせて、一番、可能性のある、辻褄が合う、理屈に適ったものを採用するしかない。
ということで、かなり相互にチェックしないといけないので大変なのだ。
それでも、真実はどうなのかはわからないから・・・・ある意味、悲しいといえば悲しい・・・
「事実は小説より奇なり」は実際にあり得るのだから・・・

いずれにせよ・・・この慰霊碑は一瀬部隊玉砕の慰霊碑であるから・・・
佐藤さんのおじいさんの仲間・戦友の慰霊をしてあげよう。
お線香をあげて供物を並べて手を合わせる。
(今回は歌は無し!)(笑)
管理人の“おばあさん”に慰霊碑管理のお礼として寸志を拙者からコッソリ渡す。
そして、いつものように、集まってきた子供たちには供物を配ってもらう。

これで一瀬大隊全体の慰霊まで出来てしまった。
これはよかった。
立ち寄って“正解”であった。


  


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