歩兵第133連隊

(通称号:嵐6214部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
三重県津 昭和13年 第116師団 湖南省宝慶

昭和13年5月13日に編成。
まもなく昭和13年7月、杭州、嘉興地区の警備に任じたが、9月に安徽省安慶に進出して武漢攻略作戦に参加した。
10月15日から3日間の黄白城をめぐる戦闘で連隊は将校2名を含む21名の戦死者と89名の戦傷者を出した。
その後昭和17年までほぼ安徽省銅陵に本部を置き警備に任じるとともに、春季皖南作戦、冬季攻勢反攻作戦、秋季皖北作戦、皖浙作戦などの戦闘に従事した。
昭和17年12月、連隊は第116歩兵団所属となる。
同年、武漢地区に移動し、昭和18年に常徳作戦、昭和19年に湘桂作戦に従事した。
湘桂作戦における衡陽城攻略戦は昭和19年7月1日から開始された。
連隊はクロ高地など次々に高地を占領する間に、第1、2、3大隊長が相次いで戦死するという激戦。
第2大隊では足立大隊長戦死後着任した東条大隊長が、着任10日余りで戦死するという激しさであった。
8月8日、衡陽城は陥落し、連隊は市街の掃討と警備に任じた。
昭和20年4月、湘西作戦発令。
連隊は116師団の他、弘前から急派された第47師団とともに「し江」の航空基地群の覆滅を目指して作戦行動に移るが、支那新鋭軍との戦いのため損害は日ごとに増大。
1ヵ月後には作戦中止となり戦場から撤退した。


歩兵第133連隊戦没者慰霊碑



歩兵第百三十三聯隊戦没者慰霊碑
(三重県津市 三重県護国神社




(平成16年2月7日)

慰霊碑銘

歩兵第133連隊(嵐第6214部隊)は支那事変に際し昭和13年5月久居町の屯營で編成
第116師團に属して同6月中國に出征し第13軍に隷す
当初浙江省杭州府附近ついで安徽省銅陵県附近を戡定駐留し揚子江警備に任じつつ江南江北に轉戦幾十度に及ぶ
特に13年秋 武漢攻略戦には遠く漢陽に進撃し 14年冬 敵十数個師による冬季大攻勢を迎えては之を陣前に撃摧
15年4月春季皖南作戦には挺身して霊峰九華山の天嶮を突破 敵主力を捕捉 榮の感状に輝き 17年夏 浙■作戦には浙江省■州城外西北陣地帯を一舉に席捲 軍の■州攻陥に貢献す
18年戦力を増強して同年秋 第11軍に轉じ常徳殲滅作戦に参加 輻輳する水濠を連続突破して湖南省常徳県城攻略に任じ力戦死闘七晝夜 遂に之を完全占領し再度の感状に浴す
19年夏 大陸の精鋭三十六萬 湘桂打通に動くや勇躍ます汨水を血流と化してその堅陣を突破し湘潭を奪い湘郷に敵を圧し更に長駆衡陽攻略は湘桂作戦成否の焦点たり
7月1日クロ高地攻撃の初動より8月7日敵主陣地岳屏西方エビ高地を奪取して守備軍の死命を制するまで終始全軍の先陣に立ち白兵をもって奪取せる堅■十数個 遂に敵牙城を抜く 感状三度燐として偉勲を讃う
爾後第20軍に属して寶慶附近を警備し 20年春 湘西作戦起るや勇進して■江敵航空基地前面に迫りたるも5月命により反轉 寶慶附近陣地に死守玉砕を期しつつ 8月 終戦の大詔を拜するに至る
聯隊の戦陣に在ること8年に及び この間 鋒鏑疫病に斃れたる戦友四千五百余柱を数う
新生日本既に30年 ここに慰霊碑を建て 祖國の安危に挺身 民族の榮光に殉じたる戦歿戦友の遺烈を偲び 在天の英霊永しへに安らかならんことを祈る

昭和51年4月
一三三会建之

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