本間玄調像 平成20年10月12日

本間玄調 ほんま・げんちょう

文化元年(1804年)〜明治5年2月8日(1872年3月16日)

茨城県水戸市三の丸・三の丸小学校前でお会いしました。


名は救、通称玄調、棗軒そうけんは号。
常陸国の医家に生まれる。
杉田立卿りゅうけい・華岡青洲せいしゅうシーボルトらに蘭学を学び、江戸ついで水戸で開業した。
また水戸藩主・徳川斉昭の侍医に任じられ、天保14年(1843年)弘道館医学館教授となる。
全身麻酔薬を用い、内外科ともに優れた。


本間玄調像



本間玄調像
(水戸市三の丸・水戸市三の丸公民館・市立三の丸小学校)





(平成20年10月12日)
本間玄調像



本間玄調像
(水戸市三の丸・水戸市三の丸公民館・市立三の丸小学校)





(平成20年10月12日)

碑文

水戸藩医、小川村(現 東茨城郡小川町)に生まれ、棗軒と号した。
父祖の始めた稽医館に学び、17歳で原南陽に入門、のちに杉田立卿・華岡青洲・蘭医シーボルトなどに師事し、漢洋折衷の学識と医術を修めた。
斉昭の招きによって弘道館医学館教授に転じてからは、講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担い、数多い著書は現代医学徒にも尊ばれている。

銅像制作 後藤末吉
書 南沖 関敬義

三の丸小学校



三の丸小学校
(茨城県水戸市三の丸1−6−51)





(平成20年10月12日)

弘道館



弘道館
(茨城県水戸市三の丸1−6)

水戸藩の藩校



(平成20年10月12日)

【華岡青洲と本間玄調】

水戸藩の本間玄調は、シーボルトから西洋医術を学んだ後、華岡医塾にも入門したが、青洲の医術について次のような手紙を書いている。
「天下第一の英物と申し候は華岡一人かと奉存候。活物窮理の一句をもって口実となし法方手術ことごとく経験候事に候。治術のことは蘭医シーボルトと申す者まかりあり候。すこぶる奇妙な事も有之候へども華岡の上に出候人物とは存じ申さず候」
これによると、医術の点では青洲の方がシーボルトより上であると述べている。

華岡青洲の門弟の中でも水戸藩の本間玄調や伊予・大洲藩の鎌田玄台は華岡流手術の図説を刊行して、華岡流外科の声価を高めたことでも知られている。

本間玄調は、安政4年(1857年)、脱疽患者2名を手術し、我が国における四肢切断術のはじまりであるとされているほどの人物である。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)

(平成29年1月26日 追記)


本間玄調の墓



贈従五位 棗軒本間玄調救の墓
(茨城県水戸市松本町13−34・常磐共有墓地)





(平成20年6月30日)



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