本間雅晴 ほんま・まさはる

明治20年(1887年)11月27日〜昭和21年(1964年)4月3日


新潟県出身。
陸軍中将。
陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校卒。
駐英大使館付武官、陸軍省新聞班長などを経て、昭和13年(1938年)参謀本部第2部長。
台湾軍司令官を歴任。
大東亜戦争(太平洋戦争)では第14軍司令官としてフィリピン作戦を指揮。
敗戦後『バターン死の行進』の責任者として刑死。


【駐英武官】

本間はかつて英国陸軍にも配属勤務したことがある俊英である。
英国の元駐日武官、フランシス・ピゴットは「かれの強烈な性格、卓抜な才能、曇りのない誠実さ、それに完璧な英語の知識の故に、イギリス軍部はかれに特別の関心を抱いていた」(フランシス・ピゴット『断たれたきずな』)と賛辞を贈っている。

ロンドンのビクトリア・ストリート16番地の陸軍武官事務所には、本間武官の下に2人の武官補佐官が仕え、将校だけで計20人が派遣されていた。
世界各地で活動する駐在武官の中では、ロンドンの陣容が最大であった。
次いでパリ、ベルリンと続き、ワシントンはロンドンの半分ほどの規模である。
近年、主要国の大使館に赴任している防衛駐在官は、ワシントンが最大で計6人、韓国、中国、露国が各3人、他の主要国は1人しかいないことを考えると、当時と比べて軍関係の情報力が著しく劣ることは避けられない。

(参考:湯浅博 著 『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 文春文庫 2013年7月 第1刷)

(令和2年5月3日 追記)


【幕僚ファショとイギリス租界いじめ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下(奉文)中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

当時中央部の心配していたことは、イギリス租界閉鎖などと、北支軍が謀略的活動に憂き身をやつし、いたずらに英米を刺激することにあった。
私がこの旨を伝えると、山下は「中央部はもっと大きいことを考えるべきであり、そんな小さな問題は出先に任すべきだ」と主張するのであった。

さらに天津に飛び、第27師団を訪れた。
師団長は、本間雅晴中将であり、私の参謀本部における前任者である。
彼は天津一円の治安を担当していた。
しかも刻下の悲しむべき任務が、イギリス租界いじめにある。
彼は秩父宮の御附武官として、はたまた大使館附武官としてロンドンに久しく駐在し、「英国通」をもって通っており、また英国文化の推賞者でもある。
その彼が、天津英租界を自己の兵力をもって外部と遮断すべき軍命令を受け実施中であるのだから、そしてその価値はむしろマイナスと信じているのであるからつらいことであった。
彼の顔には憂色が隠せなかった。
しかも彼の運命はさらに気の毒である。
後日、大東亜戦争ともなり、彼はマニラ攻略軍司令官として活躍したが、敗戦後、フィリッピンの露と消えた。
山下またその後を追うている。
悪運命の交錯である。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


【杉山参謀総長と本間第14軍司令官】

昭和16年11月6日、杉山参謀総長は比島作戦を担当する第14軍司令官。本間雅晴中将、ジャワ(インドネシア)を担当する第16軍司令官・今村均中将、マレーを担当する第25軍司令官・山下奉文中将、この3人を参謀総長室に呼び、自ら攻略準備の発令を伝達し作戦要領について説明した。
杉山が一通り説明すると、山下が「謹んでお引き受けいたします」と答え、つづいて今村が「全力を尽くし、ご期待に応えたく存じます」と、受諾の弁を述べた。
ところがこの時、本間だけが「開戦後、45日でマニラ占領との説明でありますが、その根拠はなんですか」と、作戦に疑念を抱くかの如き質問をした。
杉山の顔色がサッと変わり、「本間中将は、第14軍司令官に親補されたことが不満ですか」と言葉を荒げた。
その険悪な空気を察した今村は、「目的は決められている。それを達成するよう全力を尽くすのが、我々軍人ではないか」と、陸士同期のよしみで本間を諭した。
山下も、「そういうことだ」と今村に同調した。
3人が総長室を出ていくと、杉山は陪席していた作戦部長の田中新一中将に「あの質問はなんだ。命令を受けたら、軍人は誇りをもって任務に邁進するのが本来ではないか」と不満を洩らした。
長い外国駐在の経験を有する本間にとって、支那との戦争を解決せず、米英と事を構えることは理不尽なことであった。
日本は米英とは戦ってはならないという信念である。
しかし軍人の殆どは、命じられた任務を必勝の信念で遂行する、行動することだと将校生徒の時代から徹底的に頭に叩き込まれていた。

杉山にすれば、昭和15年7月に決定した『基本国策要綱』に示されている大東亜の新秩序、すなわち大東亜共栄圏の建設の為に、「軍部としてなすべきことをなす」ことであり、さらに自存自衛のために対米開戦するのであって、戦争目的に矛盾などあろう筈もなかった。
日米交渉が決裂しそうないま、速やかに防衛的戦略構想を築くことはごく当然のことであった。

(参考:宇都宮泰長 著 『元帥の自決―大東亜戦争と杉山元帥―』 鵬和出版 平成10年1月第2版)

(平成28年12月14日 追記)


【男泣き】

バターン攻略の進撃が膠着したのは、大本営の机上の「理想的作戦」が明らかに誤謬であったことに大本営自身も気付かざるをえなくなったが、その理由を多少なりとも認めても、ジョホール水道を超人的な快進撃を続け、早くもジョホールバールに数日して侵入しつつある近衛師団と第5師団の戦況を比較し、かつ、2月11日の紀元節の佳き日には、東洋一の要塞たるシンガポールを戡定する公算もあり得るという明るい戦況情報をみるにつけ、大本営は「本間の第14軍は、なにをグズグズしているのか」と盛んに早期戡定を激しく督促した。

ところが、現実の戦場では、奈良兵団(第65旅団)の戦力には、すでに“限界”がきているばかりでなく、バガックからバランガの南方を横断している敵の第二線陣地は、強靭な防御線があるばかりでなく、その中心は強力な「サマット山」の砲兵陣地が、ガッチリと築いてあったのだから、我が兵力は、日毎に傷つき、その3分の2を失い、兵団潰滅というほどの惨禍を招来してしまったのである。

ここにおいて、2月の中旬、サンフェルナンドの軍司令部で、この難局打開の重大軍議が開かれた。
ところが、その重大軍議の決定をする本間軍司令官がなかなか現れない。
そこで、一参謀が、本間中将を迎えに行くと、本間中将がテーブルに頭を擦り付けて、肩を震わせながら泣いている姿を見たのである。
愕然としながら近づいてみると、そのテーブルには大本営からの問責の来電があるのに気がついた。
その電文は「バタアン半島の戦況発展せざるに就き、天皇陛下には痛く御軫念しんねん遊ばさる」と書いてあった。

本間軍司令官は、陛下に対して申し訳がないと思って泣いたのではなかったろう。
これから、バタアン半島の敵を追い落として決戦をしようとする矢先に、その主力たる土橋兵団(第48師団)をもぎ取って転進させて、その兵力を半減しておきながら、自分ばかりを責める大本営の無情、無理解を憤って、男泣きした涙ではなかったかと思われる。

大本営にたむろしている参謀たちが、この傲岸な無理解な現地に即せざる「机上作戦論」を振り回した事実は、比島14軍の上にのしかかったにとどまらず、「支那事変」以来、各地各戦線において行われたことは、今日となっては歴然たる既知の事実である。
これによって、まず、参謀長の前田正美少将は、戦線膠着の責を受けて予備役に編入され、比島の陣営から追放されて東京に帰還の命令をうけたのである。
前田少将の無念さは、本間中将同様、想像するにあまりあるものがある。

(参考:寺下辰夫 著 『サンパギタ咲く戦線で』 ドリーム出版 昭和42年3月初版発行)

(令和2年5月18日 追記)


【予備役編入】

米国軍事当局者たちは、開戦直後、「バタアン半島は3年間は絶対降伏しない」また、「バタアンが陥落しても、コレヒドール島は、なお3、4年は、どうすることも出来ぬであろう」と自信たっぷりに豪語して喧伝していたのである。
ところが、まさか半年もせずに、バタアンとコレヒドール島が陥落しようとは思わなかっただけに、この事実はアメリカ当局としても、相当のショックだったようだ。
一方、比島派遣軍としては、大本営から、その陥落の遅きを三山に責められ通しであったが、とにかくコレヒドール島を陥落させたということは、今までの大本営にイジメられたことの口惜しさなぞをいっぺんに忘れて、ルネタ広場に於いて内外にバタアン・コレヒドール攻略祝賀観兵式を挙行して、積もる鬱憤を晴らたかった。

だが、意地悪い大本営の参謀連の中には「今頃になって祝賀観兵式をしてもはじまらないよ。この祝賀会が、もう3ヶ月も前ならゴキゲンだがね・・・」なぞと放言した者もいたそうだ。
これは、本間中将の作戦を快しとしなかった杉山大将などにも響いたことは勿論で、この悦ぶべきはずの観兵式に大本営は意外に冷たい眼を向けていたという。
間もなく、本間司令官は、比島現地から引き戻され、予備役に編入させられてしまった。

本間は後日、「敗軍の将のウェンライト中将は凱旋将軍となり、勝った余は、予備役に編入された」と自嘲的に笑ったと伝えられる。

(参考:寺下辰夫 著 『サンパギタ咲く戦線で』 ドリーム出版 昭和42年3月初版発行)

(令和2年5月18日 追記)


【戦犯裁判】

マッカーサーによる山下奉文と本間雅晴の裁判に関していうと、裁判の結果が正しいかどうかを論じる以前に、そのプロセスが著しく公正さを欠いたという点では、日米共にほとんどの著書が同意見である。
たとえばウィリアム・マンチェスター著『ダグラス・マッカーサー』では、この裁判は正義の名を辱めるカンガルー法廷によって裁かれ断罪されたとまで書かれている。
カンガルー法廷とは、現存する法律の原則や人権を無視して行われる私的な裁判を指す。
なぜなら、この法廷では裁判官は3名の少将と2名の准将だった。
出世を願う陸軍士官は、マッカーサーが自分たちに期待している任務を間違えるはずがなかった。
つまり、初めからマッカーサーは、山下奉文と本間雅晴に極刑を望んでいたのである。
山下への判決が下ったとき、「ニューズウィーク」の特派員は、「軍事委員会はこの法廷に入った1日目から、全員がその結論をポケットに入れていた」と論評した。
特派員たちの間で判決の予想について賭けをしたところ、12人の記者全員が死刑の側に賭けた。

本間雅晴は拘置されていた昭和20年12月2日に、自身の日記にその心境を綴っている。
「一国が戦敗という最も残酷な処罰を受けているのに、その上個人まで罰するというのは、一種の復讐心理に基づく感情であって冷徹な理論ではない。が、こんな理屈も公判の前には三文の値もあるまい」

(参考:工藤美代子 著 『マッカーサー伝説』 恒文社 2001年11月第1刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


本間雅晴中将 (慰霊碑管理人所蔵の写真を複写)

本間将軍の慰霊碑(フィリピン) 2003年5月1日訪問当時
処刑地跡


本間中将処刑地跡

(フィリピン共和国ルソン島・ロスバニオス)

この奥に慰霊碑が建っています。
旅日記参照)



(平成18年11月2日)



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