本間雅晴 ほんま・まさはる

明治20年(1887年)11月27日〜昭和21年(1964年)4月3日


新潟県出身。
陸軍中将。
陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校卒。
駐英大使館付武官、陸軍省新聞班長などを経て、昭和13年(1938年)参謀本部第2部長。
台湾軍司令官を歴任。
大東亜戦争(太平洋戦争)では第14軍司令官としてフィリピン作戦を指揮。
敗戦後『バターン死の行進』の責任者として刑死。


【杉山参謀総長と本間第14軍司令官】

昭和16年11月6日、杉山参謀総長は比島作戦を担当する第14軍司令官。本間雅晴中将、ジャワ(インドネシア)を担当する第16軍司令官・今村均中将、マレーを担当する第25軍司令官・山下奉文中将、この3人を参謀総長室に呼び、自ら攻略準備の発令を伝達し作戦要領について説明した。
杉山が一通り説明すると、山下が「謹んでお引き受けいたします」と答え、つづいて今村が「全力を尽くし、ご期待に応えたく存じます」と、受諾の弁を述べた。
ところがこの時、本間だけが「開戦後、45日でマニラ占領との説明でありますが、その根拠はなんですか」と、作戦に疑念を抱くかの如き質問をした。
杉山の顔色がサッと変わり、「本間中将は、第14軍司令官に親補されたことが不満ですか」と言葉を荒げた。
その険悪な空気を察した今村は、「目的は決められている。それを達成するよう全力を尽くすのが、我々軍人ではないか」と、陸士同期のよしみで本間を諭した。
山下も、「そういうことだ」と今村に同調した。
3人が総長室を出ていくと、杉山は陪席していた作戦部長の田中新一中将に「あの質問はなんだ。命令を受けたら、軍人は誇りをもって任務に邁進するのが本来ではないか」と不満を洩らした。
長い外国駐在の経験を有する本間にとって、支那との戦争を解決せず、米英と事を構えることは理不尽なことであった。
日本は米英とは戦ってはならないという信念である。
しかし軍人の殆どは、命じられた任務を必勝の信念で遂行する、行動することだと将校生徒の時代から徹底的に頭に叩き込まれていた。

杉山にすれば、昭和15年7月に決定した『基本国策要綱』に示されている大東亜の新秩序、すなわち大東亜共栄圏の建設の為に、「軍部としてなすべきことをなす」ことであり、さらに自存自衛のために対米開戦するのであって、戦争目的に矛盾などあろう筈もなかった。
日米交渉が決裂しそうないま、速やかに防衛的戦略構想を築くことはごく当然のことであった。

(参考:宇都宮泰長 著 『元帥の自決―大東亜戦争と杉山元帥―』 鵬和出版 平成10年1月第2版)

(平成28年12月14日 追記)


【戦犯裁判】

マッカーサーによる山下奉文と本間雅晴の裁判に関していうと、裁判の結果が正しいかどうかを論じる以前に、そのプロセスが著しく公正さを欠いたという点では、日米共にほとんどの著書が同意見である。
たとえばウィリアム・マンチェスター著『ダグラス・マッカーサー』では、この裁判は正義の名を辱めるカンガルー法廷によって裁かれ断罪されたとまで書かれている。
カンガルー法廷とは、現存する法律の原則や人権を無視して行われる私的な裁判を指す。
なぜなら、この法廷では裁判官は3名の少将と2名の准将だった。
出世を願う陸軍士官は、マッカーサーが自分たちに期待している任務を間違えるはずがなかった。
つまり、初めからマッカーサーは、山下奉文と本間雅晴に極刑を望んでいたのである。
山下への判決が下ったとき、「ニューズウィーク」の特派員は、「軍事委員会はこの法廷に入った1日目から、全員がその結論をポケットに入れていた」と論評した。
特派員たちの間で判決の予想について賭けをしたところ、12人の記者全員が死刑の側に賭けた。

本間雅晴は拘置されていた昭和20年12月2日に、自身の日記にその心境を綴っている。
「一国が戦敗という最も残酷な処罰を受けているのに、その上個人まで罰するというのは、一種の復讐心理に基づく感情であって冷徹な理論ではない。が、こんな理屈も公判の前には三文の値もあるまい」

(参考:工藤美代子 著 『マッカーサー伝説』 恒文社 2001年11月第1刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


本間雅晴中将 (慰霊碑管理人所蔵の写真を複写)

本間将軍の慰霊碑(フィリピン) 2003年5月1日訪問当時
処刑地跡


本間中将処刑地跡

(フィリピン共和国ルソン島・ロスバニオス)

この奥に慰霊碑が建っています。
旅日記参照)



(平成18年11月2日)



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