本間光丘 ほんま・みつおか

享保17年12月25日(1733年2月9日)~享和元年6月1日(1801年7月11日)


江戸中期の出羽国酒田の豪商・本間家の3代当主。
通称は四郎三郎。
本間家は古手ふるて・木綿・瀬戸物・米・紅花などを扱う問屋業のほか、回船業・金融も行ない、初代で20町歩ほどの地主となった。
宝暦4年(1754年)、3代目の家督を継ぐ。
明和4年(1767年)に鶴岡藩の御家中勝手向取計、天明元年(1781年)からは御勝手御用掛として藩の財政再建にあたった。
その中で、本間家は広大な土地を集積し、巨大地主となる。
寛政期には米沢藩の財政にもかかわった。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月第1版第1刷発行)







 日枝神社
 (山形県酒田市日吉町1-7-1)





(平成26年11月23日)

日枝神社

人々の幸福と街の繁栄・社会の平和を祈り、お守りいただくために大已貴命おおなむちのみこと・大山咋命おおやまくいのみこと・胸肩仲津姫命むなかたなかつひめのみことの三柱の神をおまつりしております。
最上川の対岸、宮の浦の地から川を渡って今の酒田の街をつくった四百五十年前から産土様うぶすなさまとして深く信仰されて来ました。
本殿・拝殿の建物は、明治27年の酒田大地震後、大修理を加えましたが、天明年間(二百年前)本間光丘翁が造営寄進されたもので、社殿のまわりに土を盛り松林を育て、防災に工夫をこらしております。
神社では、元旦祭から除夜祭まで四季それぞれのお祭りを行い、国の隆昌と世界の共存共栄を祈りますが、年に一度の例大祭は5月20日、酒田山王祭として市民あげての盛大な神事が行われます。

(説明板より)



郷社 光丘神社
(山形県酒田市日吉町1丁目)

(平成26年11月23日)

光丘ひかりがおか神社

「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌にうたわれた酒田の豪商本間家。
その本間家の三代、中興の祖といわれる光丘を祀ります。
商人としてのみならず、飛砂の害から町を守る植林事業や公共事業に力を入れ、庄内藩財政の再建に取り組んだ光丘の、その功績を讃え、建立されました。

(山形県酒田市観光ガイドマップ『さかたさんぽ』より)


松林銘
(光丘神社社殿の西側の小丘)

(平成26年11月23日)

松林銘

宝暦8年(1758)、本間光丘が下の山王社境内を中心とし、南は最上川岸より北は高砂の境に至る地域に西浜砂防林の造成を自力を以って着手した。
延長約一千間(約1.8キロ)東西約二百五十間(約450メートル)で、海風に強いといわれる能登の黒松を取り寄せて植え付けた。
ぐみの木、合歓の木の苗を植え、定着をまって黒松の苗木を植え、枯れた木は直ちに捕植するなど、艱難辛苦の苦労も遂に実り、ここに一大松林が形成され、住民の悲願であった風砂の害を漸く克服するに至った。
光丘の没後、15年を経た文化13年(1816)、酒田町民の有志は光丘の偉業を巨石に刻み、その公益を永世に伝えんとした。
撰文者の公厳は本間家の菩提寺浄福寺の住職である。
碑文は神戸で刻み、海路運ばれたものである。

(説明板より)







 光丘文庫
 (山形県酒田市日吉町2-7-71)





(平成26年11月23日)

案内

本間家3代当主光丘翁は、修学のために文庫を兼ねた寺院の建立を江戸幕府に願い出たが、ついに果たさなかった。
その意志を受け継ぎ、8代当主本間光弥氏は、大正14年(1925年)にこの光丘文庫を建てられ、その後、昭和33年(1958)に建物と蔵書は酒田市に寄贈された。
光丘文庫は、和書、漢書、郷土資料、個人蔵書など、貴重な図書を6万余冊所蔵し、主として学術研究調査のために利用されている。

(案内板より)




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