寛文10年(1670年)〜元禄16年2月4日(1703年3月20日)
元禄15年(1702年)の『赤穂事件』(赤穂浪士の討ち入り事件)で、吉良義央よしなかを討った浪士の一人。
実父は越後国新発田しばた藩士。
牢人した父の没後、江戸に出て高田馬場の仇討ちで名を馳せ、赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となる。
馬廻り200石。
吉良討伐の急進派として知られ、元・家老大石良雄らとの往復書状をまとめた『堀部武庸筆記』にみえるように、亡君の仇討ち遂行を第一義とした。
討ち入り後、松山藩久松松平家上屋敷に預けられ、翌年、幕命により自刃した。
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堀部安兵衛武庸之碑 (東京都中央区八丁堀1−14・亀島橋の脇) (平成22年2月20日) |
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堀部安兵衛武庸之碑 (東京都中央区八丁堀1−14・亀島橋の脇) (平成22年2月20日) |
堀部安兵衛武庸之碑
【碑文】
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子
寛文11年生れ
元禄元年江戸之念流堀内道場へ入門
元禄4年玉木一刀斎道場師範
元禄7年2月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討
其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住
浅野家臣堀部家の妙と結婚
堀部安兵衛武庸となる
禄高二百石
元禄14年10月本所林町に於て長江長左衛門の名で剣道指南
元禄15年12月14日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す
元禄16年2月4日歿
34歳
法名 刀雲輝剣信士
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『赤穂義士遺蹟 吉良邸跡』の碑 |
本所松坂町公園由来
所在地 墨田区両国3丁目13番9号
面積 97.56平方メートル
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央よしなかの上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現、両国2、3丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年9月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における家の格式をあらわす海鼠塀なまこべい長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。
また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
墨田区
(説明板より)
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本所松坂町公園(吉良邸跡)内・吉良邸跡の井戸 井戸の左の祠には吉良邸で亡くなった「吉良家家臣二十士」の石版が祀られています。 (平成16年9月28日) |
吉良家家臣二十士
小林平八郎 清水一学 新貝弥七郎 斎藤清左衛門 牧野春斎
森半右衛門 権十郎 曽右衛門 大須賀次部右衛門 左右田源八郎
小堺源次郎 大河内六郎右衛門 鳥井利右衛門 須藤与一右衛門 鈴木元右衛門
笠原長太郎 榊原平右衛門 鈴木松竹 杉山三左衛門 清水団右衛門
元禄15年12月15日未明旧赤穂藩士が吉良上野介邸を襲撃した際吉良家の犠牲となられた家臣の俗名です
(石版碑文より)
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本所松坂町公園(吉良邸跡)内・松坂稲荷 |
松坂稲荷大明神由来
『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。
「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園化開園とともに当所に遷座されました。
墨田区文化観光協会
(説明板より)
現地展示地図
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