星一像 平成20年4月26日

星一 ほし・はじめ

明治6年(1873年)12月25日〜昭和26年(1951年)1月19日

福島県いわき市・勿来市民会館でお会いしました。


星一先生の像

星一先生之像

(福島県いわき市・勿来市民会館)

昭和47年7月9日建立
星 一 先生遺徳顕彰会
会長 福島県知事 木村守江
彫刻 本多朝忠
施工 泉石材株式会社

(平成20年4月26日)

星一先生は明治、大正、昭和の三代にわたり、日本の製薬産業を世界的なものにした。
また国会議員に選出され、国家は勿論、郷土の開発にも多くの貢献をした。
さらに教育も重視し重視し奨学金を提供し、上京勉学の青年のための宿舎、石城造士会館を建設した。
現在の薬科大学も、そのあらわれである。
これらの業績を顕彰するため、同志達が話し合い、ここに胸像を建設する事となった。

昭和48年7月
星 一先生 顕彰会 会 長 木村守江
              理事長 大嶺 庫

(銘板・碑文より)

親切第一

自己に親切なれ
     何人にも親切なれ
職務に親切なれ
     物品に親切なれ
時間に親切なれ
     金銭に親切なれ
親切は平和なり
繁栄なり 向上なり
親切に敵なし
親切は世界を征服す

(副碑・碑文より)

星一先生の略歴

明治6年12月25日いわき市錦町江栗に誕生。
明治28年渡米コロンビア大学に入り苦学力行明治34年卒業マスターオフアーツの称号を授与される。
明治41年福島県全区の衆議院議員に当選35歳の青年政治家として活躍した。
爾来先生は理想選挙実現のため選挙大学を開校し昭和21年までの間4回衆議院議員に当選又昭和22年第1回参議院議員選挙に際しては全国区から立候補最高点で当選し国政の上に多大の貢献をした。
明治44年東京に星製薬株式会社を設立し日本最初の医薬品製造とチェーンシステムの販賣方式を取り入れ製薬業界に新天地を開拓した。
昭和16年に星薬学専門学校を設立したこの学校は現在の星薬科大学(大学院併設)である。
先生は自費を投じ毎年郷土から多数の青年を東京に招き時局講習会を開催し健全な中堅青年の養成に尽力した。
大正7年南米ペルーツルマヨに奈良県大の土地を購入開拓中であったが更にこの地域を開発して日本人移住の地とする雄図を抱き昭和26年11月渡米したが途中ロスアンセルスにて客死した。
享年79歳であった。

(副碑・碑文より)

勿来市民会館



勿来市民会館
(福島県いわき市錦町上川田21)





(平成20年4月26日)

星新一の父・星一

私の父の星一は明治6年12月25日に生れ、昭和26年1月19日に死亡した。
満77歳年と約1ヶ月を生きたことになる。
福島県いわき地方の農民の子として生れたが、東京へ出て学び、さらにアメリカへ渡り苦労しながらコロンビア大学を卒業した。
帰国して製薬業をはじめ、それは順調に発展した。
またアルカロイドの国産化に着目し、台湾でそれをはじめた。
モルヒネの精製。
この事業については、元台湾民政長官、後藤新平がいろいろと便宜をはかってくれた。
それは成功し、たまたま第一次大戦がはじまって、ドイツから薬品輸入ができなくなったこともあり、製薬事業は驚異的に成長した。
京橋に本社のビルを建て、大崎に広大な工場を作り、全国の各地の特約販売店にむけて製品を発送した。
当時の人びとの、目をみはらせる勢いだったという。
しかし、大正の末期に後藤新平の政敵が政権につくと、その資金源らしい星をつぶせとの陰謀が進められ、事業は妨害された。
でっちあげの事件による裁判で第一審有罪とされて信用を失い、金融の道をとざされ、破産するに至る。
やがて政権がかわったこともあり、解熱剤キニーネの原料であるキナの樹の台湾えの植林に情熱を燃やし、なんとか軌道に乗せた。
だが、それも敗戦によって日本は領有権を失い、東京の工場は戦災で大半をやられた。
それにもかかわらず、復興のための新事業をおこそうとアメリカへ渡り、そこで死亡したのである。
私が24歳の時だった。
残されたのは借金の山。
そのため私はえらい苦労をさせられた。
父の人生は計画、仕事、挫折のくりかえしだったが、自分ではそれに満足し、楽しんですらいたようだ。
そとではかなりエネルギッシュに活動していたそうだが、家庭内にあっては静かだった。
しかし、それは外見だけで、頭のなかでは、つねになにごとかを考えつづけていたらしい。
少年だった私にも、ぼんやりとくつろいでいるようには見えなかった。

(参考:星新一著 『明治の人物誌』 文春文庫 平成10年発行)

(平成22年9月6日追記)




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