細川藤孝 ほそかわ・ふじたか

天文3年4月22日(1534年6月3日)〜慶長15年8月20日(1610年10月6日)


戦国期〜織豊期の武将。
号は幽斎玄旨ゆうさいげんし
父は三淵晴員みつぶち・はるかず
実父は将軍足利義晴とも言われている。
細川元常の養子。
足利将軍家に仕え、義輝が暗殺されたのちは義昭の擁立に尽力した。
天正元年(1573年)義昭が京都を追放されると織田信長に属し、所領山城国長岡にちなみ長岡を姓とする。
天正8年(1580年)息子の細川忠興と共に丹後を攻めとり、宮津に居城した。
本能寺の変に際しては旧友の明智光秀の誘いを拒み、剃髪して忠興に家督を譲った。
のちに豊臣秀吉に従い、関ヶ原の戦では忠興と共に東軍に応じ、丹後国田辺城に2か月籠城。
武芸をはじめ文学・有職故実・能楽などに精通し、歌道は三条西実枝さわきから古今伝授を受けた。







出水神社の大鳥居
(熊本県熊本市中央区水前寺公園)





(平成23年2月7日)

出水神社の大鳥居

出水神社の大鳥居は、細川家初代細川藤孝(幽斎ゆうさい)公の三百年会を記念して、旧家臣団で組織する甘棠会かんとうかいと崇敬者が明治43年に建立したものである。
瀬戸内産の御影石は当時石材の花形であったことから、山口県の徳山から加工材を購入し、海上を輸送して百貫港(熊本市西部の有明海に面した港)に運び、陸上を牛十数頭を使って現在地まで搬送した。
鳥居の高さ10m、直径が92cmもあり、建立された当時、継目なしの総御影石で造られたものとしては、西日本一の大きさであった。

平成6年3月  熊本市

(説明板より)






幽斉公三百年祭記念碑
(熊本県熊本市中央区水前寺公園・出水神社)





(平成23年2月7日)

幽斉公三百年祭記念碑

御祭神藤孝公は幽斉玄旨と号せられました。
その三百年祭を記念して明治43年に建立された記念碑です。

(説明板より)






出水いずみ神社
(熊本県熊本市水前寺公園8−1)





(平成23年2月7日)




出水神社
(熊本県熊本市水前寺公園8−1)

明治11年10月7日 創建
昭和43年12月7日 復興



(平成23年2月7日)

【御祭神】

(主座)
細川藤孝卿(初代)
細川忠興卿(2代)
細川忠利朝臣(3代)
細川重賢卿(8代)
(配座)
細川光尚朝臣(4代)
細川綱利朝臣(5代)
細川宣紀朝臣(6代)
細川宗孝朝臣(7代)
細川治年朝臣(9代)
細川斉茲朝臣(10代)
細川斉樹朝臣(11代)
細川斉護朝臣(12代)
細川韶邦朝臣(13代)
細川護久朝臣(14代)
細川玉(忠興室)通称ガラシャ

【祭祀沿革】

明治10年西南の役で、熊本の城下は焼野ヶ原となりました。
旧藩主を敬い慕っていた旧藩士たちは、藩主の御霊を祀り御恩に報い、御恩徳によって、戦いで荒んだ人心を安定させ、熊本の町を発展させようとの願望から崇敬者相集い、細川家に関係の深い水前寺成趣園の地を選びここに社殿を創建し、細川藤孝公ほか3柱を祭鎮しました。
後に歴代の藩主10柱及び忠興公室ガラシャ夫人が合祀されました。
たまたまさきの第二次世界大戦の戦禍を蒙った社殿は殆んど焼失し、辛うじて難を免れた御神庫と神楽殿を旧社地に移し仮社殿としてお祭りして参りましたが、昭和45年に至り御社殿の御再建の機運高まり「御復興奉賛会」を設立し工事を進め、越えて昭和48年の12月7日現在の社殿が見事に完成しました。

(リーフレット『出水神社略記』より抜粋)






古今伝授の間
(熊本県熊本市中央区水前寺公園)





(平成23年2月7日)

古今伝授之間の由来

この茅葺の古風な建物を古今伝授之間と申します
今から凡そ4百年前 京都御所の中に建っていました
後陽成天皇の皇弟桂宮智仁親王の書院を兼ねた茶室でございます
この部屋で 細川家初代の細川幽齋公が桂宮智仁親王に「古今和歌集」の解説の奥義を伝授された由緒深い建物でございます
後に桂宮家に於て此の建物を永く保存せんが為に その御領地山城国乙訓郡開田村(現京都府長岡京市)に在る長岡天満宮の境内に移し 長岡茶屋と申されました
その後 明治初年に之を縁故ある細川家に賜り大正元年に水前寺公園正面の現在地に昔の型通り 移築されました
屋内の杉戸には狩野永徳の「雲竜」の墨絵(現在消滅)正面の襖に永徳の門人海北友松の「竹林七賢人」(現存)の絵があります
この建物が建っている場所は細川藩時代 藩主の「酔月亭」が在った場所です。

古今伝授之間保存会

(説明板より)

古今伝授の間

【古今伝授】

古今伝授の間は、もともと京都に建てられた八條宮智仁(としひと)親王の学問所で、戦国時代に細川幽斎が、古今和歌集の解釈の奥義を伝授した建物です。
当時、古今和歌集の研究がとてもさかんに行なわれ、天皇家をはじめとする公家社会では、古今和歌集をより深く味わうための解釈の奥義はとても重要視されていました。
その奥義の伝授が「古今伝授」と呼ばれています。

【ドラマ】

武家でありながら幽斎は、三条西実枝(さねき)より、古今伝授を受けます。
それは三条西実枝の息子・公国(きんくに)が幼少だったため、「一時預かり」としてでした。
その後約束どおり公国に伝授しましたが、公国は若くして亡くなってしまい、古今伝授は再び後継者問題に直面します。
そのころ幽斎は、三条西流に他流を加えて研鑽を積みあげていました。
そこで、今度は三条西家ではない八条宮智仁親王が後継者に選ばれました。
こうして古今伝授は御所に入り、代々の天皇に伝えられるようになります。
しかし古今伝授は長い日数をかけて行なわれます。
智仁親王への古今伝授の途中、関が原の戦いが始まります。
幽斎は領地である丹後の田辺城に引き返すことになり、そこで石田三成の軍勢に囲まれ、篭城を余儀なくされます。
石田勢1万5千に対し、田辺城の兵はわずか500。
死を覚悟した幽斎は、古今伝授の内容に関する一切の資料と、古今伝授終了の証明を、八条宮智仁親王に送り届けます。
その中には、この有名な歌をしたためた短冊が添えられていました。
「古へも 今もかはらぬ世の中に 心のたねを のこす言の葉」幽斎の決死の覚悟を見てとった後陽成天皇は、幽斎の死と、古今伝授の断絶を恐れ、勅命を発して田辺城の囲みを解かせました。
そして幽斎はその後、八条宮智仁親王hの古今伝授を完了します。
古今伝授の間は、明治4年に、この縁によって細川家に下賜され、熊本へ移すために解体され、保管されていました。
その直後、廃藩によって人手に渡り、保管されていましたが、明治44年に献納という形で細川家に返還され、大正元年(1912)に水前寺成趣園にあった「酔月亭」跡地に、移築され、現在に至っています。

(パンフレット・“(株)古今伝授の間香梅”の『古今伝授の間』より抜粋)






茶屋「みはらし」のお抹茶セット
菓子は熊本銘菓「望月」





(平成23年2月7日)





四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)




四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)

四つの廟

寛永9年(1632)肥後54万石の領主となって入国した細川忠利は、同14年に現在地に泰勝院を建立し祖父細川藤孝(幽斎)と祖母光寿院および母秀林院(ガラシャ夫人)の廟を建立した。
泰勝院は藤孝の法名である。
忠利は寛永18年になくなって北岡の妙解寺に葬られたが、正保2年(1645)に、その父忠興(三斎)がなくなると、当主の光尚は忠興をその夫人秀林院の廟の隣に葬り、ここに4つの廟が出来上がった。
正保3年に光尚は泰勝院を瑞雲山泰勝院と改称して独立の菩提寺としたが、綱利の頃山号を龍田山と改められた。
寺は明治2年の神仏分離によって廃寺となったが、細川家中興の祖である藤孝忠興両夫妻を祀る4つの廟は大切に維持されてきた。
しかし第二次大戦後の世情によって手入れが行届かず大破に及んだ。
昭和48年度大修理を実施して旧に復した。
廟はいずれも二間四方の方形造で四隅の鬼瓦はなお古式を伝えており、前面には大正時代に設けられた向拝がついている。
中の墓石はいずれも五輪塔形式で、水輪(二段目の玉の部分)に比して火輪(笠の部分)が小さく江戸初期の特徴を示している。

(説明石碑・碑文より)





四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)

四つの御廟

向って右は藤孝公幽斉の御廟
細川初代幽斉公は武将であって又日本歌道の奥義に通じ古今伝授で有名である。
一生を通じその行うことは実に大義名分に基かざるものなく、よく大義に生きた人と稱すべく天文3年(1534年)京都に生れ慶長15年(1610年)8月20日京都に於て逝去された。
次の霊廟は元和4年(1618年)75才で逝去された藤孝公夫人麝香しゃこうの方。
3番目の霊廟は正保2年(1646年)12月2日八代に於て83才で逝去された2代忠興公の御廟。
左端は忠興公夫人伽羅奢がらしゃの方(明智光秀の三女)慶長5年(1600年)大阪玉造の舘に於て自殺行年38才。

(説明板より)

初代藤孝公泰勝院御廟
(泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士)





立田自然公園(泰勝寺跡)入り口
(熊本県熊本市中央区黒髪4−610)




(平成23年2月7日)

立田自然公園(泰勝寺跡)

この公園は、細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡です。
寛永14年(1637)細川三代藩主忠利が泰勝院(泰勝院とは初代藩主藤孝の法名)として建立。
四代藩主光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き泰勝寺と改めました。
ここには、細川初代藩主藤孝夫妻と二代忠興、その妻ガラシャの墓である「四つの御廟」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。
その他、苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒こうしょうけん」などがあり、昭和38年(1963)には県の名勝及び史跡に指定されています。

熊本県

(説明板より)




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