細川ガラシャ像 平成20年4月14日

細川ガラシャ

永禄6年(1563年)〜慶長5年7月17日(1600年8月25日)

京都府長岡京市・勝龍寺城でお会いしました。


明智光秀の娘。
細川忠興の室。
名は玉子。
天正10年(1582年)本能寺の変後、丹後国味土野みとのに幽閉されるが、2年後豊臣秀吉に許されて大坂の細川邸に移る。
忠興が高山右近の友人だったことからキリシタンの教えに関心を持つ。
忠興が九州出陣中に大坂の教会を訪問。
侍女の清原枝賢えだかたの女に教理を学ばせ、侍女は受洗してマリアと称した。
同年、マリアから受洗、洗礼名ガラシャ。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦に際し、石田三成に細川邸を囲まれ、家老に自らを討たせた。


玉(ガラシャ)像




玉(ガラシャ)像






(平成20年4月14日)
細川忠興・玉(ガラシャ)像

細川忠興・玉(ガラシャ)像
(京都府長岡京市・勝龍寺城

勝龍寺城伝説記念像
題字 五十棲辰男
原型制作 田畑 功
鋳造製作 高岡市・織田幸銅器
平成3年3月吉日

(平成20年4月14日)

細川ガラシャ夫人の愛と感動の物語

「細川ガラシャ夫人」は、名前を玉といい、永禄6年(1563)明智光秀の娘として生まれました。
16歳の時、今から約430年ほど前、天正6年(1578)旧暦8月(新暦9月)、織田信長のすすめで、当時乙訓一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝の長子忠興のもとに輿入れしてきました。
そして、一時期(2年間)ではありましたが、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしました。
天正10年(1582)、父明智光秀がむほんを起こし、全国を平定しようとしていた織田信長を倒すという、日本の歴史上の大事件「本能寺の変」が起こりました。
信長を倒し天下人となった光秀は、以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めます。
しかし、先見の明のある藤孝・忠興父子は主人織田信長を倒した光秀のさそいをきっぱりとことわります。
その後明智光秀は羽柴秀吉との山崎の合戦で戦って敗れ、一時勝龍城に逃げ込みますが、結局近江坂本城に帰る途中戦死し、その一族も坂本城とともに滅んでしまいました。
このことにより、玉は生まれたばかりの子供からも引き離され、丹後の山奥深くの味土野(弥栄町)という山里に約2年間幽閉されました。
それ以後彼女の苦難の生活が始まります。
そんななかにあっても、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。
その後、幽閉を解かれて大阪城下玉造の細川屋敷に住むようになってからも、側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなどさまざまな困難があるなかで、彼女は心の平安をキリスト教の教えに求めて熱心に信仰し、ついには洗礼を受け、細川ガラシャ(日本語で言えば恵みという意味)夫人と呼ばれるようになります。
しかし、豊臣秀吉の死後、再び天下が乱れ、徳川家康と石田三成の対立が激化してきました。
石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大阪城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャ夫人に人質になるよう強要しました。
ところが、彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて最期を遂げました。
慶長5年(1600)7月17日、38歳の生涯でありました。
辞世の句としては“ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ”が伝えられています。
このように、細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりのなかに、その名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。
苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人でありました。

(勝龍寺城公園・配布資料より)

細川ガラシャ像 平成20年6月16日

大阪市中央区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂でお会いしました。

細川ガラシア



細川ガラシア

(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)





(平成20年6月16日)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂



大阪カテドラル聖マリア大聖堂
(大阪市中央区玉造2−24−22)





(平成20年6月16日)

遺蹟 越中井



史蹟 越中井
(大阪市中央区森之宮中央2−12)

細川忠興婦人秀林院 殉節之遺址



(平成20年6月16日)

史蹟 越中井由来

ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか
ガラシャは細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました
慶長5年(1600年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した
留守中反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取囲まれぜひもなく家来に首を打たせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています。
昭和9年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです
碑の正面表題の文字は徳富蘇峰先生の筆で側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出先生の文です
改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起して下さい

牧村史陽識
越中町会
細川ガラシャ夫人顕彰
頌徳会

(説明板より)

碑文

(石碑右側面)=ガラシャ夫人辞世

  散りぬべき時知りてこそ
      世の中の花も花なれ
              人も人なれ

(石碑左側面)=京都帝大文学部長新村博士 由来説明文

「大阪城南玉造門を去る数町、越中町あり。細川越中守忠興の邸址と称せられる慶長五年関ヶ原役起るに先立ち、忠興徳川公に従いて東征し、秀林夫人邸に留守す。石田三成等首に忠興を索制せんと欲し、夫人を城中に誘致して之を質となさんと謀る夫人応ぜず、三成等強要頻なれども固持して遂に出でず、是に於て七月十七日城兵を派し、邸を囲みて夫人を捉えんとす。家臣急を告ぐ。夫人毅然先づ伯母武田氏、嫡婦前田氏等を遁去らしめ、老臣小笠原松斎に介錯を命じ従容として死に就く。家臣等火を邸に放ちて之に殉ず。三成等策の施すべきなく、留守諸侯の妻子亦全きを得たり。是に由て東征将士後顧の憂なきに至り、既にして東軍大捷を博せり。惟うに細川氏は以て繁栄の福を受け、徳川氏は以て泰平の治を保ちし所以の者、夫人名は玉子、明智光秀の次女、秀麗にして而も剛毅、初め禅学修め、後西教に帰依し、終生篤信渝らず。父の反逆に由て忠興の怒に触れ、丹波の山寺に幽居謹慎、殆二年復帰して大阪の邸に住すること十数年に及ぶ。卒する時三十有七、貞節慈仁内外に聞え、忠烈の誉東西の史に詳にせり。其異教を奉じて而も皇国の精神を失わざる。真に婦人の亀鑑たり=後略=」
昭和九年十一月吉日 新村 出

越中井



越中井
(大阪市中央区森之宮中央2−12)





(平成20年6月16日)
細川ガラシャ玉子夫人(1563〜1600)

1563年(永禄6年)越前一乗谷(福井県)にて明智光秀の三女として生まれ、玉と名づけられた。
安土桃山時代の代表的な女性キリシタン。
信仰及び婦道の精華と謳われる。
1578年、織田信長の媒酌で細川藤孝の長男細川忠興(ただおき)と結婚した。
共に15歳であった。
その後しばらく宮津の居城で過ごした。
1582年(天正10年)父明智光秀が本能寺で織田信長を討った。
この本能寺の変後、反逆者の娘として死を免れないかに思われたが夫と別れて丹後の味土野の山中に幽閉されて過ごし、その2カ年の間に人生のはかなさや謎について思いをめぐらした。
その後、羽柴(豊臣)秀吉により大阪の細川邸で忠興と同居することを許された。
秀吉から城に招かれた時には短刀を胸に隠して登城し酌をする時に胸からポロリと落として秀吉を驚かしたという逸話が示すように、極めて気性の激しい女性であった。
高山右近が忠興に聞かせたキリシタンの教義を夫から伝え聞く内に関心が深まり、1587年に忠興が九州の役に出陣していた時、侍女の小侍従らと共にひそかに近くの大阪の教会を訪ね、セスペデス神父の命を受けた日本人修道士ヴィンセンテから教理を学んでいたが、その途中細川邸に連れもどされた。
それ以後は、小侍従が教会で教わって来た教理を伝え聞くという方法が取られ、小侍従から受洗した。
ガラシアは彼女の(領)国(丹波)にひとつの立派な教会を建て、(住民の)大改宗を企てる決心をしていた。
キリシタンになることに決めて後の彼女の変わり方はきわめて顕著で当初はたびたび鬱病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとせぬことさえあったが、今では(顔に)喜びを湛え、家人に対しても快活さを示した。
怒りやすかったのが忍耐強くなり、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙遜で温順となって、彼女の側近たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった。(フロイス「日本史」5−236)
それからガラシアは「イミタツィオ・クリスティ(キリストに倣いて)」を愛読し、ローマ字で司教たちと通信しつつ信仰を深め、徳操を磨いた。
1600年(慶長5年)家康に味方して上杉征伐に出陣した忠興の留守中、大坂城の石田三成によって人質になる事を命ぜられたが、かねてより覚悟もし打ち合わせてあった通り、屋敷に火を放ち、家老の小笠原小斎の槍を受けて天晴れ殉教した。
忠興はガラシアをこよなく愛していたのでイエズス会の神父に依頼して、盛大な葬儀ミサを営み、毎年年忌ミサを行なった。
中津の城主となってからも、城の隣りに長福寺という大きな聖堂を建て、美しいマリア観音像と共に千利休から遺贈された四基の織部型キリシタン灯籠を祭って、教会を手厚く保護した。
そのために、「耶蘇教の勢威豊前地方に蔓延し、中津近郷町村の信奉する者一時萬を以て算し」たと記録されている。(黒屋直房「中津藩史」図書刊行会600P)

(「越中井」の配布資料より)






四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)




四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)

四つの廟

寛永9年(1632)肥後54万石の領主となって入国した細川忠利は、同14年に現在地に泰勝院を建立し祖父細川藤孝(幽斎)と祖母光寿院および母秀林院(ガラシャ夫人)の廟を建立した。
泰勝院は藤孝の法名である。
忠利は寛永18年になくなって北岡の妙解寺に葬られたが、正保2年(1645)に、その父忠興(三斎)がなくなると、当主の光尚は忠興をその夫人秀林院の廟の隣に葬り、ここに4つの廟が出来上がった。
正保3年に光尚は泰勝院を瑞雲山泰勝院と改称して独立の菩提寺としたが、綱利の頃山号を龍田山と改められた。
寺は明治2年の神仏分離によって廃寺となったが、細川家中興の祖である藤孝忠興両夫妻を祀る4つの廟は大切に維持されてきた。
しかし第二次大戦後の世情によって手入れが行届かず大破に及んだ。
昭和48年度大修理を実施して旧に復した。
廟はいずれも二間四方の方形造で四隅の鬼瓦はなお古式を伝えており、前面には大正時代に設けられた向拝がついている。
中の墓石はいずれも五輪塔形式で、水輪(二段目の玉の部分)に比して火輪(笠の部分)が小さく江戸初期の特徴を示している。

(説明石碑・碑文より)





四つの廟
(熊本県熊本市・立田自然公園)





(平成23年2月7日)

四つの御廟

向って右は藤孝公幽斉の御廟
細川初代幽斉公は武将であって又日本歌道の奥義に通じ古今伝授で有名である。
一生を通じその行うことは実に大義名分に基かざるものなく、よく大義に生きた人と稱すべく天文3年(1534年)京都に生れ慶長15年(1610年)8月20日京都に於て逝去された。
次の霊廟は元和4年(1618年)75才で逝去された藤孝公夫人麝香しゃこうの方。
3番目の霊廟は正保2年(1646年)12月2日八代に於て83才で逝去された2代忠興公の御廟。
左端は忠興公夫人伽羅奢がらしゃの方(明智光秀の三女)慶長5年(1600年)大阪玉造の舘に於て自殺行年38才。

(説明板より)

忠興公室秀林院御廟
(秀林院殿華屋宗玉大姉)

細川ガラシャ

ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。
織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは、天正6年(1578)16歳のときであったが、同10年本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され味土野の山中に幽閉された。
豊臣秀吉の許しで復縁し、同15年にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
慶長5年(1600)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人達を人質として大阪城内に入れようとした。
玉子はその要求を拒み「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、38歳の生涯を終えた。

熊本市

(説明板より)





ガラシャ夫人の手水鉢
(熊本県熊本市・立田自然公園「四つの廟」内)





(平成23年2月7日)

ガラシャ夫人の手水鉢

慶長5年(1600)7月17日、石田三成から人質として大阪城入城を迫られたガラシャ夫人は、老臣、小笠原少斎に介錯させて命を絶った。
その直前にこの手水鉢を水鏡として最後の身じまいをしたと伝えられている大阪の玉造邸跡から移したものである。

(説明標柱より)






立田自然公園(泰勝寺跡)入り口
(熊本県熊本市中央区黒髪4−610)




(平成23年2月7日)

立田自然公園(泰勝寺跡)

この公園は、細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡です。
寛永14年(1637)細川三代藩主忠利が泰勝院(泰勝院とは初代藩主藤孝の法名)として建立。
四代藩主光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き泰勝寺と改めました。
ここには、細川初代藩主藤孝夫妻と二代忠興、その妻ガラシャの墓である「四つの御廟」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。
その他、苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒こうしょうけん」などがあり、昭和38年(1963)には県の名勝及び史跡に指定されています。

熊本県

(説明板より)




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