平成24年6月3日

細谷直英 ほそや・なおひで (細谷十太夫)

弘化2年(1845年)~明治40年(1907年)5月6日

※天保10年(1839年)生まれの説あり

宮城県仙台市・龍雲院でお会いしました。






細谷直英像(細谷地蔵)

(宮城県仙台市・龍雲院)




(平成24年6月3日)

細谷地蔵
~細谷十太夫ほそやじゅうだゆう(1845~1907)と『烏組からすぐみ』~

いみなは直英、武一郎とも称し、鴉仙あせんと号した。
1868年の戊辰戦争の際、仙台藩の大藩士であった十太夫は密偵として二本松にいたが、5月1日の白河城攻防戦の敗戦を聞くや官軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客等57人が集まった。
『衝撃隊』と名付けたが、黒装束をまとっていたことから『烏組』と呼ばれるようになり、後には実際に烏を連れ歩いたといわれ、隊旗にも烏を描いた。
槍と刀を武器に夜襲を得意とし、30余戦ことごとく勝利を収めたといいその勇猛果敢な戦いぶりは、『細谷からすと十六ささげ なけりゃ官軍高枕』とまでうたわれ恐れられた。
戦争は、官軍の勝利に終わり、烏組も翌年には解隊となったが、十太夫はその後も陸軍少尉として西南戦争に従軍、また県吏員、牡鹿郡大衡道開拓場長として士族授産事業にかかわり、さらに日清戦争にも軍夫千人長として参加するなど多方面に活躍した。
晩年は、仏門に入りかねて敬慕していた林子平の墓所・ここ龍雲院の住職となった。
墓は、本堂西側にある、この座像はその十太夫の姿であり『細谷地蔵』という。

(説明板より)



伊達藩隠密 鴉組の大将
細谷十太夫の墓
(龍雲院)

當山八世中興鴉仙直英和尚



(平成24年6月3日)




龍雲院
(宮城県仙台市青葉区子平町19-5)




(平成24年6月3日)

本寺院の開山と著名人のご紹介    住職 坂下松雲

当金臺山龍雲院は、慶長2年(1597)に政宗公によって開山された。
天正19年(1591)豊臣秀吉が、正宗の領地を替え城も米沢から岩出山に移転させた。
政宗はこれを機に仙臺進出を心に秘め、その先遣として造営されたと云われている。

本寺院を菩提所としている著名人
林 子平 (国指定史跡)
寛政の三奇人とも謂れ、徳川三百年の鎖国政策の夢醒ますべく、日本の進むべき道を説き、晩年有名な六無斎の歌を残し1793年56才で歿す。
②細谷十太夫 (伊達藩の隠密鴉組の大将)
実に30余戦の戦いに連戦連勝の記録を保持し続けた。
“負け知らず”に肖り縁起を担ぎ、立候補の諸先生、請負業者、商人、入試の学生さんなど、多くの方がお参りに見えているようです。
1907年68才で歿す。
万城目 正 (作曲家)
昭和の歌謡史に偉大な業績を残す。
先祖は、稗貫と称し、源頼朝に仕え功を挙げ、奥州稗貫郡鳥谷崎とやざき城を賜る。
以後姓を萬丁目と改め、天正18年(1590)城陥され、文禄2年正月(1593)貞山公が宮城野で猟の折り、山岡志摩と、屋代勘解由の計らいでお目通りを許され、公は委曲を問われ禄を賜り、家臣となる。
この時姓を萬城目とした。
寛永2年(1705)公から家紋「九重水玉」を賜る。
当寺院には、寛文7年(1667)に菩提所とした記録がある。
昭和43年(1968)63才で歿す。

(説明板より)




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