北条政子 ほうじょう・まさこ

保元元年(1156年)〜嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)


鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻。
父は北条時政。
伊豆流刑中の頼朝と結ばれ、治承4年(1180年)鎌倉に入り、二男二女をもうけた。
頼朝が急死した正治元年(1199年)に出家したが、父の時政・弟の義時らとともに幕政の主導権を保持する。
建仁3年(1203年)将軍頼家を廃し、その外戚比企氏を討ち、次男の実朝を擁立して自ら将軍後見役となる。
元久2年(1205年)将軍廃立を企てた父・時政を失脚させ、建保6年(1218年)には自ら上洛して京都の実力者藤原兼子と会見。
実朝の死後は、幼少の藤原頼経にかわる事実上の鎌倉殿として幕政に参画。
承久の乱では御家人の結束の大切さを説いて勝利に導いた。
嘉禄元年、70歳で没す。


北条政子の墓



北条政子の墓

(神奈川県鎌倉市・寿福寺)





(平成18年9月24日)
やぐら



源実朝と北条政子の”やぐら”

”やぐら”とは山や丘の岩肌に掘られた横穴式の墳墓のことです。




(平成18年9月24日)
寿福寺



寿福寺

(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1−17−1)





(平成18年9月24日)

国指定史跡
寿福寺境内じゅふくじけいだい

昭和41年3月22日 指定

亀谷山きこくさん寿福金剛禅寺こんごうぜんじ(臨済宗建長寺派)は、正治2年(1200年)頼朝夫人政子が、明庵栄西みょうあんえいさい禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。
この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。
墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が2基あります。
現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に4株の柏槇があり、往時のおもかげを残しています。

平成8年3月30日
神奈川県教育委員会




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