北条実時像 平成20年2月8日

北条実時 ほうじょう・さねとき

貞応3年・元仁元年(1224年)〜建治2年10月23日(1276年11月30日)

神奈川県横浜市金沢区・称名寺でお会いしました。


父親は北条義時の子の実泰。
文暦元年(1234年)、11歳で小侍所別当に就任し、以後、歴代の将軍に近侍する一方、建長4年(1252年)引付衆となる。
翌年には評定衆に加わり、幕政の中枢にあった。
学問を好み、将軍宗尊親王に従って関東に下った儒者・清原教隆について勉学に励み、和漢の書籍を書写・収集した。
膨大な書籍は、所領の武蔵国六浦荘むつらのしょう金沢に建てられた別邸内の文庫に収められ、金沢文庫のもとになった。
西大寺の叡尊えいぞんに深く帰依し、鎌倉に招いて北条時頼とともに受戒。
文永4年(1267年)には念仏寺院の称名寺を律宗に改めた。


北条実時公像



北条實時公像

(神奈川県横浜市金沢区・称名寺)





(平成20年2月8日)
称名寺



称名寺

(神奈川県横浜市金沢区金沢町212−1)





(平成20年2月8日)

国指定史跡
称名寺境内

    大正11年10月12日 指定
追加 昭和47年1月31日  指定
(史跡面積 155,245u)

称名寺しょうみょうじは、金沢山きんたくざん称名寺と号し、真言律宗りっしゅうの別格本山として西大寺末の律院りついんで、本尊には木造弥勒菩薩立像みろくぼさつりゅうぞう(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏かなざわほうじょうし一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉しょうか2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224〜1276)が、六浦荘むつうらのしょう金沢の居館内に営んだ持仏堂じぶつどうから発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍がらんの整備が着手され、実時の子、顕時あきとき(1248〜1301)の時代には、弥勒堂みろくどう、護摩堂ごまどう、三重塔さんじゅうのとうなどが建立され、さらに、顕時の子、貞顕さだあき(1278〜1333)は伽藍の再造営を行い、元亨げんこう3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵らいごういたえ(重要文化財)に荘厳された金堂こんどうを初め、講堂こうどう、仁王門におうもんなど、七堂しちどう伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅じょうどまんだらにもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘げんこう3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。

平成6年3月
横浜市教育委員会
史跡称名寺境内愛護会

(説明板より)

北条実時の墓



北条実時の墓

(神奈川県横浜市金沢区・称名寺市民の森(称名寺の裏山)





(平成20年2月8日)
北条実時・一門の墓所



北条実時・一門の墓所
(神奈川県横浜市金沢区・称名寺市民の森(称名寺の裏山)





(平成20年2月8日)

[金沢かねさわ北条一門の墓]
北条実時の墓

北条実時(1224〜1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時よしときの孫で、貞応じょうおう3年に実泰さねやすの子として生まれました。
実時は、引付衆ひきつけしゅうや評定衆ひょうじょうしゅうなど幕府の要職を歴任し、文永ぶんえい3年(1275)には越訴奉行おっそぶぎょうをつとめています。
政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業べつぎょうを開き、金沢文庫の礎を築きました。
墓地内中央の宝篋印塔ほうきょういんとうは、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔ごりんとうは一門の墓といわれています。
また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。

平成7年3月31日
横浜市教育委員会

(説明板より)

市民の森から見た称名寺 市民の森から見た称名寺


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