穂積陳重 ほずみ・のぶしげ

安政2年7月11日(1855年8月23日)〜大正15年(1926年)4月7日


穂積陳重

安政2年(1855年)、穂積重樹の次男として生れた。
藩校明倫館に学ぶこと8年、16才の時、藩の貢進生として上京。
大学南校(東京大学の前身)に学び、明治9年(1876年)には文部省留学生として5年間、英・独において法学を研究した。
明治14年(1881年)に帰朝。
のち、27歳で東京大学教授兼法学部長に任ぜられたが、33歳で我が国最初の法学博士になった。
大学教授として法学を講じ、学生を指導すること30年に及んだので、明治から大正にかけて活躍した法学者や政治家で、直接、間接に陳重の教えを受けた者は、実におびただしい数にのぼっている。
陳重の学殖、識見、人格は、この人に一学究に終始することを許さなかった。
貴族院議員、法制調査会委員、帝国学士院第一部長、臨時法制審議会総裁、文政審議会委員などに選ばれた。
功により華族に列せられて男爵を授けられ、晩年には枢密院議長の栄職についたが、大正15年(1926年)4月7日、72歳で世を去った。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月28日追記)


記念碑

記念碑

(愛媛県宇和島市錦町・新町)

碑文
老生は銅像にて仰がるゝより
萬人の渡らるゝ橋になりたし
      穂積陳重


(平成19年11月7日)
穂積橋



穂積橋
(愛媛県宇和島市錦町・新町)





(平成19年11月7日)

穂積橋の由来

この穂積橋は、郷土の発展に終生貢献された穂積陳重男爵の御功績を讃えて昭和4年に命名されたものです。
穂積陳重先生は、安政2年(1855)市内中ノ町(今の京町)に生まれ、幼少より俊童の誉れ高く、若くして英独に留学し法学を研鑽、帰国後は、東京大学で教鞭をとり、法学部長を勤め、法典調査会主査委員として明治民法戸籍法を編纂するなど、民法生みの親といわれました。
明治24年(1891)の大津事件では「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と進言して大審院長児島惟謙を支え、後年には枢密院議長となり、男爵を授けられました。
また先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。
この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。
それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。
近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。

平成4年7月11日
宇和島市

(説明板より)


生家長屋門



生家長屋門
(愛媛県宇和島市・宇和島城





(平成19年11月6日)

穂積陳重 八束兄弟の生家長屋門

旧所在地 宇和島市中の町11番地(現京町1番34)
建造年代 天保13年(1842年)ごろ、格子出窓は明治4年に改造された。(■に大工覚書あり)
構造形式 木造入母屋造り
面積 97.868u(29坪6合)
解体移築 昭和46年12月6日着工
       昭和47年3月31日完工

明治の碩学穂積兄弟は旧宇和島藩士の出生である。
父は穂積重樹、陳重(1855〜1921年)はその二男、八束(1860〜1912年)は三男である。
兄弟ともに法学博士、東京帝国大学教授として日本の近代法学の開祖的業績をあげた。
陳重の専攻は民法で「法律進化論」「五人組制度論」など、八束は憲法を専攻「憲法大意」「憲法提要」など兄弟とも著書は多くいづれも古典的名著の評価が高い。
兄弟は法学者である一方、政治的要職に就き、陳重は帝国学士院長、枢密院議長、八束は貴族院議員、宮中顧問官などを歴任した。
特に陳重は男爵を授っている。
この長屋門は兄弟が幼年期を過ごした当時の建物である。
後、物部氏の所有になったが、昭和46年秋、当主重樹氏から史的遺構として宇和島市に寄贈された。

宇和島市
宇和島市観光協会

(説明板より)




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