(別称:伊賀文化産業城)
三重県上野市丸之内
平成16年2月8日
伊賀上野城の沿革
”忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた9里四方の小さな盆地、その中心は上野市である。
街の北側の丘には、白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸かもしながら、端麗な姿を見せている。
伊賀全土を焦土と化した「天正伊賀の乱」後、大和郡山から移って伊賀国を領した筒井定次は、直ちにこの乱によって焼かれた平楽寺跡に城郭を築き、三層の天守を構え、殿門を整えた。
しかし、秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、家康は慶長13年(1608)、定次を失政の理由をもって改易、筒井氏改易のあと、伊賀・伊勢両国の城主として、伊予から移ってきた藤堂高虎は、「津は平城なり。当座の休息所までと思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠と思うべし。」との家康からの密命を受け、筒井の故城を拡張して大改修に着手した。
当時、戦国武将のなかでも築城の名人と評されていた高虎は、自ら縄張りを指図、目前に迫る豊臣氏討伐戦に備えるため、地山を利用して濠を深くし、30mの高石垣で囲み五層の大天守を築いたのである。
ところが、竣工直前の慶長7年(1612)9月2日、暴風雨のため天守が倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したのと、いわゆる元和偃武えんぶ以後の武家諸法度によって諸大名の城普請を禁止したので、この城は再びたてられることがなく明治維新を迎えた。
ところで現在の伊賀上野城(雅名白鳳城)は、昭和10年川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて往時藤堂高虎が築いた基台に木造建築による模擬復興したものである。
天守の結構は、三層三重の大天守、外壁は純日本式土蔵壁とし、本体の総丈76尺(23m)基台をあわせると110尺(33.3m)建坪面積は、71坪2合5勺(276㎡)である。
小天守は総丈31尺5寸(9.54m)、建坪面積21坪5合5勺(83.6㎡)で、その構造は大天守と同様手法によるものである。
(リーフレットより)
筒井故城本丸跡 筒井定次が築いた城の本丸跡です。 藤堂高虎が入部後、更に城を拡張したときに、この場所に「城代役所」(城代家老が執務を行う場所)が置かれました。 ここに「城代役所跡」の小さな碑が建っています。 伊賀上野城(上野城)は明治初年に廃城となりますが、城代屋敷の建物がいつごろ取り壊されたのかは分かっていません。 |
筒井故城本丸跡(城代役所跡)の発掘調査現場 |
「筒井天守跡」の碑 本丸跡の隅の藪の中に建っています。 案内板がないので気が付かないかもしれませんが・・・ ここに筒井故城の三層の天守閣が建っていたようです。 |
筒井故城本丸南郭 しっかりとした立派な石垣が残っています。 (平成16年2月8日) |
筒井故城
「誠に以て兵術の達人、軍法秘段を伝授し、三略の要文を旨とす」と評せられた戦国の名将筒井定次は大和国衆を引き連れ伊賀に入国すると直ちに築城の秘術をつくして、この地に城郭を築き、三層の天守を構え殿門を整えた。
堅固な石垣築城は野づら積みから打込はぎの手法に移向する石積み技術を顕著にしめすもので、今田播磨一派の穴太衆が築成した。
(『伊賀上野城』昭和60年第2刷・伊賀文化産業協会刊の小冊子より)
筒井定次
1562年~1615年3月5日
大和郡山城主・筒井順慶の養子。
天正12年(1584)遺領を継ぎ、翌年、伊賀国上野9万5000石に移封。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。
慶長13年(1608)家臣に不行跡を提訴され改易。
元和元年(1615)豊臣方への内通の嫌疑で子・順定とともに死罪となり、一族は断絶。
「史跡 上野城跡」の碑 |
伊賀上野城・復興模擬天守閣 木造瓦葺き、白亜の塗込めの純日本建築様式の復興天守閣です。 初層は唐破風の大玄関、二層三層と千鳥と唐破風の組み合わせ。 |
天守閣一階内部 |
天守閣内部の資料展示状況 |
藤堂高虎の兜 (黒漆塗唐冠形兜) |
具足 島川専助が大坂冬・夏の陣に着用したものです。 上野市指定文化財です。 島川専助は藤堂高虎に仕えた200石の侍。 大坂冬・夏の陣で数々の武功をたてました。 大坂冬の陣で3人と鎗を合わせて1人を突き倒して首を取ろうとした時、股を矢で射抜かれて斃れましたが、深手にも屈せず奮迅の働きをしたので、敵味方にその名を高めました。 その後、島川は大坂夏の陣で討死しました。 これは冬の陣と夏の陣の両陣で着用していた具足だそうです。 |
天守閣の絵天井 天守の竣成を記念して贈られた大色紙が格天井いっぱいにはめ込まれています。 1メートル角の大色紙46点。 |
色紙寄贈者
小室翠雲 尾崎行雄 岡田啓介 土田麦僊 高浜虚子 近衛文麿 富田渓山 佐々木信綱
山本達雄 頼母木桂吉 永井柳太郎 宇垣一成 横山大観 町田忠治 岡崎邦輔
池上秀畝 下田歌子 清浦奎吾 日下部道寿 若槻礼次郎 徳川家達 川合玉堂
益田孝 細川護立 田中親美 安達謙蔵 竹越与三郎 松林桂月 松田源治 金子堅太郎
堂本印象 高田早苗 原富太郎 杉渓六橋 大野百錬 一木喜徳郎 棚橋絢子 南次郎
渡辺千冬 木村武山 徳富蘇峰 清水六兵衛 永田秀次郎 嘉悦孝子 宮川香山 川崎克
横山大観の寄贈の色紙『満月』 絵天井の中央にあります。 (平成16年2月8日) |
西大手多聞櫓の古写真(展示資料より)
石垣と濠 石垣は結構高かったです。 高所恐怖症の私としては足がすくむほど怖かったです。 (平成16年2月8日) |
【伊賀上野城】
徳川家康は、大坂の豊臣秀頼を監視する地として、近江(滋賀県)の彦根と伊賀(三重県)の上野を重視し、彦根には譜代の井伊直勝を置いて守りをかためた。
ところが、木津きづ川を使えば大坂まで、わずか1日という伊賀上野には、豊臣以来の大名・筒井定次ざだつぐが居座っている。
しかもこの定次は、たいへんな器量人で、世間の信望も厚く、家康と言えども横柄ずくで動かすわけにはいあKなかった。
しかし、慶長13年に筒井家家中に内紛が起こる。
これには大久保長安も絡んでおり、どうも謀略の臭いが強いが、ともかく家康は待ってましたとばかりに筒井家を改易かいえき処分に付し、強引に伊賀上野を手に入れてしまった。
そして家康より、新たに伊賀上野に封じられたのが藤堂高虎である。
伊賀盆地は山間の小盆地で、柘植つげ川・服部はっとり川・長田川の流域が最も低地となっており、その低地を東西に長く洪積台地が横たわっている。
この台地は南から北に行くほど高くなり、北端は急峻な崖となっている。
高虎の伊賀上野城は丁度その北端に築かれた。
定次の居城を大改修したものである。
この時、高虎は伊賀上野城を天下の三名城の一つにしようと大いに意気込み、伊賀忍者を全国に派遣して、全国の城の要害図を盗写させたとおうが、これは後世の作り話である。
今、伊賀上野城址には、総高30メートル前後の日本一高いといわれる石垣が本丸西側に残っている。
高虎は、石材を荒木村・寺田村の山中、中の瀬・長田夙しゅく河原などから集め、石積みの専門職である近江坂本の穴太あのう衆を招集して、これらの石垣を築かせた。
更に、定次時代には北を大手としていたのを、南に改めもした。
しかし、一見、名城と見えるこの城には、実は縄張上の大きな欠陥がある。
それは、大手にあたる南面に内堀がなく、石垣も貧弱なことだ。
その欠陥を補うかのように、本丸の前に一段低い腰曲輪こしくるわが設けられ、池をうがってはあるが、ほとんど実戦の役には立ちそうもない。
高虎は、平時は津城に住み、非常時に限って伊賀上野城を本拠とすることにしたが、津城もそのまま使える状態ではなかった。
22万石の太守たいしゅである高虎の居城とするには、なお手狭だったのである。
そのため高虎は、伊賀上野城の大改修工事と同時に、津城の修築にもとりかかった。
伊賀上野城に縄張上の欠陥があるのは、恐らくそそれゆえであろう。
いくら22万石の太守といっても、二つの城を同時に修築するのは経済的にも労働力の点でも荷が勝ち過ぎ、どこかで手抜きをしなければならなかった。
また、伊賀上野城は元来、大坂の豊臣方に対する抑えの城であり、徳川方の前進基地であったので、そのような構想のもとに改修強化された。
ところが、豊臣方は大坂冬・夏の陣により、まだ伊賀上野城が完成しないうちに滅び去ってしまった。
そうなると、改修強化の目的がなくなった以上、更に改修強化を続けて堅城の完成を目指すのは、いたずらに徳川氏の猜疑心を煽る可能性もある。
伊賀上野城の欠陥は、あるいはそのような懸念を抱いた外様大名・藤堂高虎の配慮の産物かもしれない。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月10日 追記)
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