平成13年9月29日
永禄4年2月9日(1561年2月22日)〜慶長7年2月1日(1602年3月24日)
滋賀県彦根市 JR彦根駅前でお会いしました。
父親の井伊直親の死後の天正3年(1575年)に初めて徳川家康に会い、後に徳川四天王の一人に数えられます。
高天神城攻略や家康の伊賀越えの危難などで活躍。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で、敗走中の島津勢を追撃し、島津豊久の首を討ち取るなどの戦功がありました。
同年、佐和山城の城主になり18万石を領しました。
井伊直政公像 (滋賀県彦根市・JR彦根駅前) (平成18年4月10日再訪問) |
井伊直政公像
永禄4年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ヶ原の戦で功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。
その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602年)41歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ20年の歳月を費やし元和8年(1622年)彦根城を完成させた。
こうして、彦根35万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。
(銘板より)
【井伊直政】
徳川四天王、徳川十六神将しんしょう、徳川三傑の一人。
15歳のとき、遠江とおとうみで鷹狩り中の徳川家康に見出されて随身ずいしん。
新参ながら知勇兼備の名将で、家康の信頼は厚く、天正10年(1582年)の天正壬午じんごの乱のおりに、北条氏との和睦交渉に当たる。
直後、甲斐武田氏の旧臣を取り込んだ旗本一手役いってやく、およそ2千の軍団長に抜擢される。
この時、全ての軍装を赤一色で統一した精鋭先鋒部隊「井伊の赤備え」を編成。
赤備えの初出陣となった天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで諸部隊中、最多の首級しるしを斬獲。
「井伊の赤鬼」と恐れられ、一躍、天下にその名を知らしめた。
天正18年(1590年)の小田原の陣では、夜襲をかけて小田原城内まで攻め込んだ唯一の武将。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、福島正則を出し抜いて抜け駆けし、徳川直臣じきしんの意地を見せたが、敗走する島津軍を追撃中に右腕に被弾。
戦後、近江佐和山18万石を与えられたものの、関ヶ原の鉄砲傷がもとで、翌々年に死亡した。
(参考・引用:『歴史街道 2013年6月号』)
(平成25年11月8日 追記)
井伊氏歴代墓所 (静岡県浜松市・龍潭寺) (平成18年4月14日) |
井伊氏歴代墓所
井伊氏は平安時代より戦国時代にかけて井伊庄とその周辺地域を支配した有力な土豪(国人領主)であった。
この墓所には、始祖共保公より直政公に至る歴代25名が祀られている。
(説明板より)
井伊家お籠 (静岡県浜松市・龍潭寺) (平成18年4月14日) |
龍潭寺 (静岡県浜松市引佐町井伊谷1989) 拝観受付:午前9時〜午後4時30分(午後5時閉門) (平成18年4月14日) |
龍潭寺 りょうたんじ
今から1300年前、天平5年(733)行基菩薩により開創され室町時代、黙宗瑞淵禅師がご開山となられ、禅宗の寺となる。
井伊谷は、井伊家元祖共保公出生(1010)の地であり、24代直政公が彦根に出世されるまで、井伊家が治めている。
当寺は元祖からの菩提寺として今日まで、歴代の殿様に深く帰依されてきている。
縁深い1万余坪の境内には、本堂(1676)を始め庫裏、開山堂、総門、井伊家霊屋等の建物が、江戸時代をそのままのたたずまいと歴史を残し、点在している。
堂内鶯張りの廊下を踏み、甚五郎作龍の彫刻を見て本堂裏の庭園に出る。
小堀遠州作 龍潭寺庭園は、東峰・中峰・西峰の三つの築山を設け、東西に心字池が流れ、数多くの石組による枯滝を配している。
サツキの5月、ドウダンの秋等四季おりおり風情に富む
(拝観券の説明文より)
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