井伊直憲 いい・なおのり

嘉永元年4月20日(1848年5月22日)〜明治37年(1904年)1月9日

※ 没年:明治35年(1902年)の説あり


えい髪塚の碑


『正二位勲一等伯爵井伊直憲公えい髪塚』碑

(滋賀県彦根市古沢町・井伊神社参道入り口)


明治35年4月1日建



(平成18年4月10日)

井伊直憲公顕彰碑

井伊直憲は、大老直弼の嫡子ちゃくしである。
萬延元年(1860)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠じゃっかん13才で彦根藩最後の藩主となった。
就任当初は従前どおり幕府譜代大名筆頭の家格をもって、35万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁かずのみやこうかの際は、将軍の名代みょうだいとして京都朝廷への上使を勤めた。
その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是はんぜであった「勤王の大義」に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決した。
これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺うかがっていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。
その政治力、決断力は、まさに大老直弼の「開国の決断」にも比すべきものがある。
しかし彦根藩は、幕府の厳しい処遇を受けるなど危機的な状況にあった。
その後、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津までも出兵し、多大の戦功を挙げた。
藩籍奉還後は、彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び今日ある彦根の文化、教育、産業振興の確固たる基礎を確立した。
大老直弼は「日本の夜明け」を開いた開国の恩人であり、その息直憲は、まさに「彦根の夜明け」を開いた郷土の恩人、英雄と称すべきであろう。
直憲の死後、その功績を偲び、彦根町、犬上郡、大阪市などの有志による基金をもって佐和山神社参道に公の「えい髪塚」を建立した。
戦後は時世の変化や周辺樹木の繁茂するにまかせ、市民にほとんど知られることなく、道なき山中に人知れず孤高を保っていた。
幕末・維新を通じて、苦難の道を歩み続けた直憲公の存在と功績が、再認識されることをこい願い、このたび多くの有志の浄財を得て「井伊直憲公顕彰碑」として由緒深い井伊神社の地に移設した。

平成15年6月
井伊直憲公顕彰会

(説明板より)

井伊神社



井伊神社
(滋賀県彦根市古沢町)





(平成18年4月10日)

井伊神社・由緒

天保13年(1842)井伊直亮なおあきが、井伊家の始祖共保ともやす公の750回忌に當あたり、遠州引佐いなさ郡の井伊谷いいのや八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に奉斎したのを創祀とする。
弘化2年(1845)社殿を今の位置に移し、現社殿を建立した。
明治16年(1883)県社に列格された。
昭和13年(1938)近接の佐和山神社(祭神は藩祖井伊直政、直孝両公)並びに祖霊社(祭神は井伊直中、直亮、直弼、その他井伊家歴代藩主)の神霊を合祀ごうしした。

(説明板より)


井伊直憲の墓



正二位勲一等伯爵井伊直憲公墓
(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺)


忠正院殿清節恕堂大居士


(平成20年7月4日)
井伊家墓所



井伊家墓所
(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺)





(平成20年7月4日)

国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所

井伊家は遠江国とうとうみのくに井伊谷いいのやを中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く2代直孝なおたかも大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。
以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間たまりのまに控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。
直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時なおとき(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。
直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風からはふ笠付位牌いはい型で造られている。
以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子せいし、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。
これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺せいりょうじ(滋賀県彦根市)、永源寺えいげんじ(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。

平成20年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)

豪徳寺



豪徳寺
(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7)





(平成20年7月4日)

大谿山だいけいざん豪徳寺ごうとくじ(曹洞宗)

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳寺こうとくじを前身とする。
天正12年(1584)中興開山門菴宗関もんなんそうかん(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改宗した。
直孝の娘掃雲院そううんいんは多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏さんぜぶつ像、達磨・大権修理だいげんしゅり菩提像、及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。
ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道おんじょうけんどう、近代三大書家の随一日下部鳴鶴くさかべめいかく(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。
また同寺の草創を物語る、洞春院とうしゅんいん(吉良政忠)と弘徳院の宝篋院塔ほうきょういんとうが残されている。

平成4年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)


井伊家



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