井伊直弼像 平成18年4月10日

井伊直弼 いい・なおすけ

文化12年10月29日(1815年11月29日)〜安政7年3月3日(1860年3月24日)

滋賀県彦根市・彦根城内の公園でお会いしました。


井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日、第11代彦根城主の井伊直中が50歳のときの第十四男として生まれました。
青年時代は井伊直孝の遺訓による藩の掟により不遇の時期を過ごしましたが、後に第12代藩主・長兄の直亮なおあきの養嫡子となり、直亮の没後、第13代彦根藩主となります。
嘉永6年(1853年)アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには開国を主張し、前水戸藩主の徳川斉昭と対立しました。
また、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福よしとみを推挙、一橋派と対立しました。
安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂いえもちを将軍継嗣に決定します。
その後、「安政の大獄」と言われる攘夷派の志士の弾圧を行い、このこともあり安政7年=萬延元年(1860年)3月3日、桃の節句の祝儀に江戸城に参上の途中、桜田門において水戸・薩摩の浪士に襲われ命を落としてしまいました。
46歳の時でした。


井伊直弼像

井伊直弼像
(滋賀県彦根市・彦根城

昭和24年11月10日再建
建設者代表 彦根市長 小林郁
原型 森大造
鋳造 鋳匠 黄地佐平


(平成18年4月10日再訪問)

井伊直弼

開国の英雄井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父に死別し、わずか300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青春時代を埋木舎ですごしもっぱら心身の修練につとめた。
ところが思いがけなく嘉永3年(1850年)36歳のとき彦根藩主となり安政5年(1858年)大老職となった。
時に44歳。
嘉永6年6月アメリカのペリーが日本を訪れて開国をせまり、以来鎖国か開国かと国内は非常に混乱した。
大老井伊直弼は我国の将来を考えて安政5年(1858年)6月開国を断行、これに調印し外国と修交を結んだのである。
この大偉業をなしとげた直弼も大老の心情をくむことのできなかった人々によって万延元年(1860年)3月3日桜田門外で春雪を血に染めて消えた。
時に46歳であった。
この銅像は、井伊直弼が最後の官職であった正四位左近衛中将の正装をうつしたものである。

(説明板より)

生誕地の碑



「井伊直弼生誕地」の碑

(滋賀県彦根市・楽々園)





(平成18年4月10日)
楽々園



楽々園(槻御殿)







(平成18年4月10日)

楽々園

旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。
1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ、往時には能舞台を備えた広大な建物であったが現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。
また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。
庭は枯山水で、布石の妙を極めている。
開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。

(説明板より)


【大老・井伊直弼】

徳川家康が定めたルールは「譜代大名でなければ老中になれない」というもので、将軍を補佐し幕府の最高意思を決定する老中は定員5人であった。
しかし、緊急非常の時は、この上に「大老」を置くことができた。
老中は、あくまで合議制であり、筆頭老中はいるが議長のようなもので、他の老中が揃って反対すると物事を決裁できない。
しかし、大老は5人の老中がすべて反対しようとも、何でも決定できるという独裁権を持った特別な地位なのである。

13代将軍・家定は病弱で、脚気だったようだ。
当時は珍しくもない病気であり死病でもあった。
家定も自分の死期を悟っていたようである。
子供のいない自分が真っ先に考えなければならないのは後継者問題である。
そしてもうひとつ重要なことは、武力で日本の開国を迫っているアメリカに対し、何か決断し返事をしなければならない。
家定は疲れ果てていたのだろう。
脚気の症状は極度の疲労感である。
そこで家定は後継者問題と外交問題を自分の手ではなく、大老を任命して決断させようと思いついたのだ。

家定が白羽の矢を立てたのが、中年になって初めて中央政界に登場した井伊直弼であった。
なぜ、家定が直弼を選んだのか、最大の理由は選択肢がなかったということかもしれない。
大老になれる大名は片手で数えられるほどしかいないので、その中で適当な年齢で仕事が出来そうな人物というと直弼しかいなかったのだろう。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月14日 追記)


歌碑



井伊大老歌碑
(滋賀県彦根市・彦根城前)





(平成18年4月10日)

歌碑説明文

あふみの海 磯うつ波の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな

安政7年正月(同年3月18日万延と改元)、大老は、正四位上左近衛中将の正装をした自分の画像を、お抱え絵師狩野水岳に描かせ、この自作の和歌を讃して井伊家菩提所清涼寺に納めた。
歌の意は、びわこの磯うつ波が打ちくだけては引き、又、打ちくだけては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来、難問が何回となく次々と押し寄せてくる。
しかし自分は常に日本国の平和と安泰を願って、全身全霊を尽くして心をくだいてきたので悔いは残らない。
波がざーと引くような清爽な気持ちである。
この3ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れたときの大老の心境は、将にこのように清澄なものであったと思われる。

(説明板より)


井伊直弼が青春時代を過ごした藩の公館「北屋敷」は「埋木舎」として残っています。
佐和口多聞櫓の斜め前、護国神社の裏にあります。
佐和口多聞櫓前の中濠に黒鳥を見かけますが、この黒鳥は茨城県(水戸藩)から贈られたという話です。

「桜田門外の変」で有名な「桜田門外襲撃図」が茨城県の大洗町にある「幕末と明治の博物館」に収蔵されています。

井伊直弼銅像 平成15年12月14日

神奈川県横浜市 掃部山の公園でお会いしました。


碑文

安政5年大老井伊掃部頭直弼は 内外の紛擾を排して 日米修好通商條約の調印を決行し ひろく通商の基を開き 近代日本發展の端緒をつくった
明治14年旧彦根藩有志は 直弼追慕のため建碑の舉を興し 大老の事蹟に縁故深き横浜に地を卜し 戸部町に一■■い 掃部山と称してここに造園を施し 明治42年園内一角に銅像を建立し ■えて大正3年園地とともにこれを横浜市に寄附した
不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和18年撤去の運命に遭い 公園また昔日の■なきところ たまたま昭和29年開國百年祭を催すに方り 記念行事の一環として 開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し ひろく市民の協賛を求め ここに復旧の業を興した

昭和29年6月2日
神奈川縣
横濱市
横濱商工會議所
横濱市長平沼亮三書

※■は判読できなかった文字です。


井伊直弼銅像




井伊直弼銅像(掃部山公園)


午後、夕方近くになると逆光となります。
写真を撮るなら朝がいいかもしれません。

井伊直弼銅像




銅像はランドマークタワーのほうに向いて建っていました。




(平成15年12月14日)

横浜の開港と掃部山公園(説明石碑の碑文)

安政5年(1858)
日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼は
よく内外の激動に耐え
機に臨み英断
日米修好通商条約を締結した
安政6年
ここに横浜は
未来の発展を予見するかのように
世界の海洋に向かって開港した
明治14年(1881)
井伊大老を追慕する彦根藩士有志により
開港に際しての功績を顕彰するため
記念碑建立の計画をたて
明治17年この地の周辺の丘を求め
掃部山と称し造園を施し
明治42年(1909)
園内に銅像を建立しこれを記念した
大正3年(1914)
井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈
掃部山公園として公開された
ここに
平成元年を以て
市政100周年
開港130周年を迎え
これを記念してこの碑を建立した

平成元年6月2日
横浜市長


日米修好通商条約と外交

日米修好通商条約締結にあたって幕府がもっとも心配したのは、諸大名の動向であった。
老中・堀田正睦は、条約締結へのゴーサインを出してから大名たちに繰り返し、交渉の経過を知らせ了解を求めた。
条約の内容がほぼまとまった安政4年12月29日には、江戸城内に諸大名を集め、条約を結ぶに至った経過とその内容を詳しく説明し、賛同を求めた。
大名たちからはさしたる反対もなかったが、隠居していた水戸の斉昭は、激怒してハリスの首を刎ねろと喚いたという。
ともかく、天皇の許可(勅許)を得なければと、堀田正睦は、岩瀬忠震と川路聖謨を連れて、安政5年1月21日(1858年3月6日)に上京した。
時の天皇は孝明天皇であったが、条約締結を拒否し、たとえ戦争になっても構わないと、攘夷を主張し続けた。
堀田正睦は、4月20日(6月1日)江戸に戻った。
幕府は進退窮まってしまった。
その3日後の4月23日(6月4日)、井伊直弼が大老に就任した。
大老とは、非常時に置かれる特別な役職で、将軍を補佐し、絶大な権力を持っていた。
直弼は、大老に就任すると直ちに行動を開始し、5月6日、大目付の土岐丹波守と勘定奉行の川路聖謨らを左遷、外国掛老中の堀田備中守は京都の不始末(勅許失敗)により罷免され、次期将軍に紀州の慶福(家茂)を立てることを発表し人々を驚かせた。

直弼はもともと保守的な考えを持っていた人で、本心では条約締結には反対であった。
しかし、天皇の考えで幕政が動かされることには危機感を持っていた。
直弼は、目付の岩瀬忠震と下田奉行の井上清直に再度、条約の締結の延期の交渉を命じたが、会談が決裂することだけは避けようと、どうしてもやむを得ない場合には調印してもよいとの許可を出した。
下田で条約調印を痺れを切らして待っていたハリスは、ポーツマス号に乗り込み6月18日、いきなり横浜沖にいきなり現われ調印を催促した。
翌日の安政5年6月19日、大老・井伊直弼の意を受けた日本側全権・岩瀬と井上は通詞の森山多吉郎を伴って、ポーツマス号に赴き、日米修好通商条約に調印した。

この調印の20日後、7月9日、これからますます多忙となる外交業務を専門に担う奉行「外国奉行」5名が初めて任命された。
水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震の5名で、いずれもこれまで外交関係の任務に当たっていた。

安政5年9月3日、日仏通商条約の調印が取り交わされたが、その日に条約締結の立役者であった岩瀬忠震は、作事奉行に左遷され、さらに安政6年8月27日には作事奉行を罷免されて永蟄居を命じられた。
安政の大獄である。
幕臣の中で井伊大老の弾圧の標的となったのは、外国奉行の面々であった。
特に、ことごとく大老に逆らった岩瀬忠震は永蟄居にされた。
岩瀬をこれまで登用していたのは、外国との交渉に全く自信のない井伊直弼が、自分を小馬鹿にして逆らってばかりいた忠震を条約締結のけりがつくまでやむを得ず任せていたもので、条約締結の山を越えた所で即座に処断したものであった。
また、他の奉行たちも同類と見ていたが、一度に辞めさせると今後の外交交渉に差し障りが出てくると困るというので、そのまま任せていたのである。
その後、永井、井上が軍艦奉行と小普請奉行に転任させられ外交の前線から外されてしまった。
後任の酒井隠岐守と加藤壱岐守は全く外交には不慣れであった。
堀田正睦が失脚して、井伊直弼が大老となり一新された老中には、直弼をはじめ誰一人、諸外国の使節と渡り合える閣老はいなかった。
こうして外国問題は、外国奉行に一任される事態になったが、岩瀬、永井、井上が外されたのち、水野忠徳も安政6年7月27日に発生したロシア水兵殺害事件の責任をとって外国奉行を辞任した。

安政の大獄によって、最初に任命された外国奉行が次々に左遷され、補充の外国奉行が次々と日替わりのように任命されたが、ほとんどが外国人との折衝は不得手であった。
新たに任命された外国奉行たちも井伊直弼の行き当たりばったり外交の被害者であった。
このように、井伊大老の出現で、幕末の俊秀、外交問題のエキスパートたちが一掃されてしまった。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)


日米修好通商条約の真実

安政5年6月17日、日米修好通商条約調印の2日前のこと。
ハリスは会見した下田奉行・井上清直きよなお、目付の岩瀬忠震ただなりに、直ちに条約を結べば、英仏が強引な要求をしても、米国が調停することを約束した。
この報告を受け、直弼のもと幕閣による評議が開かれた。
調印に賛成する者がほとんどだったが、直弼は慎重で、さらに老中との協議の後、井上、岩瀬を呼び「勅許を得られるまでは、できる限り調印を延期するよう交渉せよ」と命じた。
すると井上は「交渉が行き詰った際は調印してよいか」と尋ね、直弼は「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」と答えた。
これを井上・岩瀬は井伊大老から調印許可の言質げんちを取ったものと解釈し、二人はすぐに条約に調印してしまったという。

評議から帰った彦根藩邸で、直弼は側役そばやく兼公用人の宇津木景福うつぎかげよしに、なぜ天皇の意向に背き、緊急に諸大名を招集して、考えを開いた上で決定しなかったのかとたしなめられる。
直弼は自分の非に気が付き、大老辞任をほのめかした。
すぐに藩側役・公用人が呼ばれ評議の末、大老を辞任すれば、責任は将軍にも及び、徳川斉昭ら陰謀を企む輩の術中にはまるとして諫言かんげんされる。
ここに直弼は辞意を撤回し、強気に転じて、矢継ぎ早に施策を打ち出した。

在府諸大名に調印を告げ、老中の堀田正睦と松平忠固を罷免。
将軍継嗣を紀州の慶福と公表。
京都に条約調印の弁疏べんその使者を派遣。
更に、不時登城し、直弼の無断調印の責任を追及する斉昭・慶篤よしあつ父子、また慶永や尾張藩の徳川慶恕よしくみらを逆に罪に問うた。

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月24日追記)


【将軍継嗣問題】

次期将軍候補について、直弼は御三家の一つ、紀伊徳川家の慶福よしとみを推し、島津斉彬は御三卿の一つ、一橋家の慶喜よしのぶを推した。
しかし、慶福と慶喜は9歳違いであった。
慶喜の方が年上で、斉彬ら改革派の大名はすでに20歳に達していた慶喜を推した。
御三家の一つ、水戸徳川家の当主・徳川斉昭の実子であり、英明との評判も高かった慶喜に比べ、まだ小学生の年齢の慶福を将軍の座に据えても、ペリーらと渡り合っていくのは無理だと斉彬らは考えたのである。
一方、守旧派は慶福でなければダメだと考えていた。
彼らがそう考えていた理由は、慶福のほうが13代将軍・家定、あるいは始祖・徳川家康との血縁が濃いからである。
それにしても国家が大変な時期に「小学生」の将軍では困ると思うかもしれないが、天皇家でも将軍家でも一番大切なのは血筋であって本人の資質ではない。
たとえ将軍が幼くても老中以下がきちんと補佐すれば問題はないのであり、現に幼くして将軍を務めた人間は他にもいる(4代家綱、7代家継)。
直弼にしてみれば斉彬の方が非常識なのである。

安政5年(1858年)、幕府は強権を発動し、調印を認めないという姿勢を貫いていた孝明こうめい天皇を無視して、アメリカとの条約に調印した。
それに対して水戸の徳川斉昭を筆頭とする開国絶対反対派が、「天皇を無視するとは何事か!」と江戸城にまでやってきて直弼を詰問したのである。
ところが、そのやり方に問題があった。
江戸時代、大名は約260人いたため、家格によって登城日というものが決まっていた。
いっぺんに押し掛けられては大変だからである。
しかし斉昭は緊急非常の時だとして、そのルールを破って登城してきた。
このルール破りを、直弼は100%利用した。

直弼はこの押し掛け登城のメンバー(他に越前藩主の松平春嶽らがいた)を無理やり隠居させ謹慎させた。
つまり、重罪人として終身禁固刑に処したのだ。
そして、その「重罪人」の実子である、将軍後継候補の一橋慶喜も登城禁止にした。
これで直弼の推す「小学生」の徳川慶福が次期将軍になることが事実上決定した。
直弼の大勝利である。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月15日 追記)


【直弼は極悪人?】

直弼は、何が何でも反対だった慶喜の実父・徳川斉昭に比べれば、アメリカの申し入れ通り開国をしなければ日本は危ないということに気が付いていた。
皮肉なことに開国すべきという点では、直弼も島津斉彬も同じ意見なのだ。
にもかかわらず、その他はすべて違った。
斉彬は、この際、将軍家も大名家も一致団結し、古いルールは改めて日本を立て直していかねばならないと考えていた。
直弼はそうは思わない。
これまで徳川家は二百数十年、日本をきちんと治めてきたのである。
ルールを変える必要はまったくない。

こうした中、水戸の徳川斉昭は朝廷に働きかけ、開国絶対反対の孝明天皇を動かし、アメリカとの条約調印を撤回させ、併せて慶喜が次の将軍になれるよう推挙してもらおうとした。
この動きに直弼は激怒した。

直弼の目から見て、反対派は野合の集団に見えた。
斉彬や亡くなった老中・阿部正弘らは、国家の仕組みを革新して外国に対抗していこうという立場で、開国そのものには賛成している。
しかし、彼らと組んでいる徳川斉昭は開国絶対反対である。
本来、主張が全く違う人間たちが徒党を組むのは、目先の利益を求めてのことに違いないと直弼は見たのである。
また、開国を決断しなければ、日本は阿片戦争でイギリスに国家を滅茶苦茶にされた清国の二の舞になりかねないということ。
ところが、斉彬たちは開国には反対していないが、斉昭は絶対反対である。
そんな連中の言うことに耳を貸したら、日本国が滅んでしまうではないか直弼は考えたのである。
だから直弼は自分の立場を正義と考えた。
それに逆らう人間は悪であり、しかも敵は天皇の権威を利用しようとしている。
なんと畏れを知らない連中か、ならば徹底的に叩くしかないと直弼は考えたのである。

このような行動に出ることは、将軍・家定のご遺志を実行することであり、絶対の正義ということになる。
その方針に逆らう人間たちを徹底的に排除することも、家定の遺志にかなうということになる。
主君の遺志に忠実なのだから、直弼は忠臣ということになる。
直弼は反対派に対する徹底的な弾圧を始める。
いわゆる安政の大獄である。
それ以降、直弼は「井伊の赤鬼」などと呼ばれ、吉田松陰橋本左内を死罪にしたこともあって、歴史上極めて評判の悪い人物になった。
極悪人という評価すらある。

直弼は徳川家に忠実なあまり、他の人間を徳川家にとって忠臣なのか敵なのかという観点でしか見られなかった。
だから結果的に安政の大獄でも多くの有為な人材を殺すことになったのである。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月15日 追記)


井伊掃部頭邸跡



井伊掃部頭邸跡
(東京都千代田区永田町・憲政記念館「国会前」交差点付近)





(平成18年5月25日)

井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸跡)

この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広ただひろの時に改易かいえきされ、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷かみやしきとして明治維新まで利用しています。(歴代当主は、掃部頭かもんのかみを称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門そとさくらだもんへ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。

平成9年8月
千代田区教育委員会

(説明板より)

外桜田門遠景




外桜田門遠景

江戸城




(平成18年5月25日)
外桜田門




外桜田門






(平成18年5月25日)
桜田門・櫓門




桜田門・櫓門






(平成18年5月25日)

映画「桜田門外ノ変」オープンセット





映画「桜田門外ノ変」オープンセット入口
(茨城県水戸市・千波湖湖畔)




(平成23年11月23日)





桜田門
(ロケセット)




(平成23年11月23日)

桜田門

江戸城 桜田門
十四代将軍 徳川家定

江戸城の内堀に造られた門のひとつです。
桜田濠(現国会議事堂側)と凱旋濠(日比谷側)の間にあります。
手前にある小さな門が「高麗こうらい門と内側の大きい門が「櫓門やぐらもん(渡櫓門わたりやぐらもん)」の二重構造となっています。
門の間のスペースは「枡形ますがた」となっており、城へ攻撃を受けた際の兵の待機場所であり、攻められたときは敵兵を引き入れる場所ともなります。
実は「桜田門」はふたつあります。
一般的に呼ばれる警視庁前の桜田門は「外桜田門そとさくらだもん」、もうひとつの「内桜田門うちさくらだもん」は別に「桔梗門ききょうもん」と呼ばれています。
昭和36年(1961)に「旧江戸城外桜田門」として、国の重要文化財(建造物)に指定されました。
現在でも国内外の多くの観光客が訪れる名所・旧跡のひとつです。

〜映画『桜田門外ノ変』撮影メモ〜

『桜田門外ノ変』が起こって数年後・・・・
明治になり、西郷吉之助(隆盛)率いる官軍が江戸城に入城します。
約400名のエキストラが集まり、その入城シーンを撮影しました。

(説明板より)






近江彦根藩上屋敷 井伊邸
(ロケセット)




(平成23年11月23日)

近江彦根藩上屋敷 井伊邸

近江彦根藩(30万石・滋賀県彦根市)
十五代藩主 井伊直弼
井伊掃部守かもんのかみ

初代井伊直政は、徳川四天王のひとりとして多くの武功をたてて活躍しました。
直政の長子ちょうし、直継なおつぐは慶長11年(1606)に彦根に入城するも大坂の陣に参陣できなかったことを理由に直勝なおかつと名を改め、安中藩あんなかはんに移封いほうとなりました。
継いで弟の直孝なおたかが二代藩主として就任しました。
直孝は幕閣の中枢として活躍を認められ、三度の加増がなされ、文字通り譜代筆頭となりました。
有力譜代大名が転封てんぽうを繰り返す中、彦根藩は一度の転封もありませんでした。
上屋敷のあった一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広の時に改易かいえきされ、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しました。
現在は、国会前庭ぜんてい北地区となっています。

〜映画『桜田門外ノ変』撮影メモ〜

歌川広重による浮世絵にも描かれている「赤門あかもん」を再現しました。
井伊大老が供侍ともざむらいなど約60名を従えて江戸城に向かうシーンの撮影が行われました。
井伊大老が駕籠かごに乗り込むシーンは現在記念展示館の入口になっています。






襲撃現場付近

(ロケセット)




(平成23年11月23日)

襲撃現場付近

橋の手前にある辻番所のかげには、最初に斬りかかる森五六郎。
彦根藩邸に向かって左の松平大隅守屋敷の塀ぞいには黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子ましこ金八、蓮田はすだ市五郎、鯉淵要人こいぶちかなめ、広木ひろき松之介、有村次左衛門の8名。
右のお濠ほり側には、佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎ねのじろう、稲田重蔵じゅうぞう、森山繁之介、海後磋磯之介かいごさきのすけの6名。
関鉄之介は現場指揮官、岡部三十郎は検視見届役、斎藤監物けんもつは斬奸ざんかん趣意書提出役。
桜田烈士、総勢18名。
よしず張りの茶店が2軒出ていました。
志士たちはそれぞれ商人や武士の恰好で、茶店に入り武鑑ぶかんを片手におでんや酒を口にし、大名行列の見物人を装っていながら、雪の降りしきる外桜田そとさくらだで、井伊家の門が開くのを待っていました。
しばらくすると、井伊家の赤門が開き、60名ほどの行列が向かってきます。

〜映画『桜田門外ノ変』撮影メモ〜

襲撃シーンの撮影は平成22年2月上旬の数日にわたり撮影されました。
早い時間のときには毎日早朝4時台にキャスト、エキストラの皆様が集合し、撮影に臨みました。
実際に雪の降る日もあり、参加した皆様が寒さを感じながら臨場感のある襲撃シーンの撮影となりました。

(説明板より)


櫻田烈士愛宕山遺蹟碑



櫻田烈士愛宕山遺蹟碑
(東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社)





(平成18年7月25日)

碑文

此の地は萬延元年3月3日昧爽水戸藩士斎藤監物 関鐵之介 佐野竹之介 黒澤忠三郎 大関和七郎 廣岡子之次郎 山口辰之介 森五六郎 岡部三十郎 鯉淵要人 稲田重蔵 杉山彌一郎 蓮田市五郎 森山繁之介 廣木松之介 増子金八 海後磋磯之介 薩摩藩士有村次左衛門等天下ノ為ニ幕閣 大老井伊直弼ヲ斃サントシテ勢揃ヲ為セル處ナリ
■■櫻田事變ナルモノハ■■ノ志士協力シテ井伊大老ヲ斃シ後直チニ京都ニ結集シ 至■■奉シテ天下ニ大義ヲ唱ヘントシタルモノナリ
金子孫次郎 高橋多一郎■ニ領首ハ機ヲ逸セス京阪ニ赴キシモ事ハ齟齬シテ■兵■■ス
終ニ金子ハ京都伏見ニ捕ヘラレ高橋ハ其ノ子庄左衛門ト共ニ大阪四天王寺ニ■■ス
然リト雖モ斯ノ一擧遂ニ克ク三百年ノ幕府政治ヲ倒壊セシメ以テ■政維新皇国興隆ノ新體制■招来スヘ■導火線タルノ偉功ヲ樹タリ
然ルニ世人櫻田門ノ史蹟ヲ知ルモ事前ニ於ケル烈士愛宕山上勢揃ノ事蹟ニ■■テハ■■トシテ之ヲ識ル者ハ殆ト殊ナリ
吾人其ノ遺蹟ノ■滅ニ歸セントスルヲ慨シ此ニ碑ヲ建テ来者ニ■クルアラントス

皇紀二千六百一年三月三日 建之
櫻田烈士遺跡顕彰會長 三木哲次郎
故貴族院議員 室田■之
貴族院議員 徳富■一郎
財団法人多摩聖蹟記念會長 長尾欽■
芝區■志 茂又四郎■
同 茂又幸雄
大東文化學院教授文學士正四位 峰間信吉
金子孫次郎孫法學士 金子榮一

※ ■は判読不可の文字です。

愛宕神社



愛宕神社
(東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社)





(平成18年7月25日)

愛宕神社由緒

当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。
幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。
また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。
寛永11年3代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。
万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。

(説明板から抜粋)

愛宕山事件

昭和20年8月15日、右翼団体の『攘夷同志会』のメンバーらが愛宕山に立て籠もり徹底抗戦を叫んだ事件。
しかし、警官隊に包囲され8月22日に10人が手榴弾で自爆して事件は終結した。


【桜田門外の変・彦根藩士死者(供廻り)】

河西忠左衛門(御供目付)
沢村軍六(御供目付)
小河原秀之丞(御供目付側小姓)
岩崎徳之進(平供助)
永田太郎兵衛(駕籠付)
越石源次郎(駕籠付)
加田九郎太(御供方騎馬徒)

他、負傷者11名

(参考:『歴史街道 2010年11月号』)

(平成22年11月24日追記)


【桜田門外の変・幕府の権威失墜】

大名というのは軍団長だから、大名行列というのは軍団の行進なのである。
だから参勤交代で大名行列が宿泊するところも宿屋と言わず、本陣と言い、軍事基地の扱いだ。
軍団が完全武装で行進しているところを狙う馬鹿はいないだろう。
一人になったところを狙うのが暗殺の基本である。

だから井伊直弼にも油断があった。
殿中(江戸城内)で襲われることや屋敷に対する討ち入り(赤穂浪士の前例がある)は想定内だったが、まさか行列が襲われることはあるまいということだ。
しかし時代は大きく変わっていた。
江戸時代初期には、個人がピストルを持つなどということは全くあり得なかった。
だから、大名行列はそうした攻撃に対する備えはない。
しかし桜田門外の変では、最初に浪士の一人がピストルで井伊を撃ち、身動きできなくしたのである。
身動きできれば、井伊は駕籠を飛び出して桜田門内(江戸城内)に駆け込むこともできたはずだ。
井伊自身も居合いの達人である。

しかし、襲撃は成功した。
幕府において将軍を総大将とするならば、大老はそれに次ぐ副将である。
その副将が白昼堂々、軍団に守られていたのに打ち取られたというのでは話にならない。
幕府の権威は失墜し、幕府は自信を喪失した。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月15日 追記)


井伊直弼の墓



井伊直弼の墓

(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺)





(平成20年7月4日)

都史跡 井伊直弼墓

所在 世田谷区豪徳寺2丁目24番7号 豪徳寺
指定 昭和47年4月19日

井伊直弼(1815〜60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政5年(1858)4月大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約など安政5ヶ国条約に調印。
また13代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。
さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政7年3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
墓石の高さは342センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将蜍ナ覚翁大居士」とある。

昭和47年10月30日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

井伊家墓所



井伊家墓所
(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺)





(平成20年7月4日)

国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所

井伊家は遠江国とうとうみのくに井伊谷いいのやを中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く2代直孝なおたかも大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。
以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間たまりのまに控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。
直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時なおとき(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。
直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風からはふ笠付位牌いはい型で造られている。
以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子せいし、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。
これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺せいりょうじ(滋賀県彦根市)、永源寺えいげんじ(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。

平成20年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)

豪徳寺



豪徳寺
(東京都世田谷区豪徳寺2−24−7)





(平成20年7月4日)

大谿山だいけいざん豪徳寺ごうとくじ(曹洞宗)

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳寺こうとくじを前身とする。
天正12年(1584)中興開山門菴宗関もんなんそうかん(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改宗した。
直孝の娘掃雲院そううんいんは多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏さんぜぶつ像、達磨・大権修理だいげんしゅり菩提像、及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。
ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道おんじょうけんどう、近代三大書家の随一日下部鳴鶴くさかべめいかく(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。
また同寺の草創を物語る、洞春院とうしゅんいん(吉良政忠)と弘徳院の宝篋院塔ほうきょういんとうが残されている。

平成4年3月
世田谷区教育委員会

(説明板より)


 (関連商品のご紹介)



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送