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平成18年4月10日
文化12年10月29日(1815年11月29日)〜安政7年3月3日(1860年3月24日)
滋賀県彦根市・彦根城内の公園でお会いしました。
井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日、第11代彦根城主の井伊直中が50歳のときの第十四男として生まれました。
青年時代は井伊直孝の遺訓による藩の掟により不遇の時期を過ごしましたが、後に第12代藩主・長兄の直亮なおあきの養嫡子となり、直亮の没後、第13代彦根藩主となります。
嘉永6年(1853年)アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには開国を主張し、前水戸藩主の徳川斉昭と対立しました。
また、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福よしとみを推挙、一橋派と対立しました。
安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂いえもちを将軍継嗣に決定します。
その後、「安政の大獄」と言われる攘夷派の志士の弾圧を行い、このこともあり安政7年=萬延元年(1860年)3月3日、桃の節句の祝儀に江戸城に参上の途中、桜田門において水戸・薩摩の浪士に襲われ命を落としてしまいました。
46歳の時でした。
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井伊直弼像 (滋賀県彦根市・彦根城) 昭和24年11月10日再建 建設者代表 彦根市長 小林郁 原型 森大造 鋳造 鋳匠 黄地佐平 (平成18年4月10日再訪問) |
井伊直弼
開国の英雄井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父に死別し、わずか300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青春時代を埋木舎ですごしもっぱら心身の修練につとめた。
ところが思いがけなく嘉永3年(1850年)36歳のとき彦根藩主となり安政5年(1858年)大老職となった。
時に44歳。
嘉永6年6月アメリカのペリーが日本を訪れて開国をせまり、以来鎖国か開国かと国内は非常に混乱した。
大老井伊直弼は我国の将来を考えて安政5年(1858年)6月開国を断行、これに調印し外国と修交を結んだのである。
この大偉業をなしとげた直弼も大老の心情をくむことのできなかった人々によって万延元年(1860年)3月3日桜田門外で春雪を血に染めて消えた。
時に46歳であった。
この銅像は、井伊直弼が最後の官職であった正四位左近衛中将の正装をうつしたものである。
(説明板より)
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「井伊直弼生誕地」の碑 (滋賀県彦根市・楽々園) (平成18年4月10日) |
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楽々園(槻御殿) (平成18年4月10日) |
楽々園
旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。
1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ、往時には能舞台を備えた広大な建物であったが現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。
また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。
庭は枯山水で、布石の妙を極めている。
開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。
(説明板より)
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井伊大老歌碑 (滋賀県彦根市・彦根城前) (平成18年4月10日) |
歌碑説明文
あふみの海 磯うつ波の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな
安政7年正月(同年3月18日万延と改元)、大老は、正四位上左近衛中将の正装をした自分の画像を、お抱え絵師狩野水岳に描かせ、この自作の和歌を讃して井伊家菩提所清涼寺に納めた。
歌の意は、びわこの磯うつ波が打ちくだけては引き、又、打ちくだけては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来、難問が何回となく次々と押し寄せてくる。
しかし自分は常に日本国の平和と安泰を願って、全身全霊を尽くして心をくだいてきたので悔いは残らない。
波がざーと引くような清爽な気持ちである。
この3ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れたときの大老の心境は、将にこのように清澄なものであったと思われる。
(説明板より)
井伊直弼が青春時代を過ごした藩の公館「北屋敷」は「埋木舎」として残っています。
佐和口多聞櫓の斜め前、護国神社の裏にあります。
佐和口多聞櫓前の中濠に黒鳥を見かけますが、この黒鳥は茨城県(水戸藩)から贈られたという話です。
「桜田門外の変」で有名な「桜田門外襲撃図」が茨城県の大洗町にある「幕末と明治の博物館」に収蔵されています。
神奈川県横浜市 掃部山の公園でお会いしました。
碑文
安政5年大老井伊掃部頭直弼は 内外の紛擾を排して 日米修好通商條約の調印を決行し ひろく通商の基を開き 近代日本發展の端緒をつくった
明治14年旧彦根藩有志は 直弼追慕のため建碑の舉を興し 大老の事蹟に縁故深き横浜に地を卜し 戸部町に一■■い 掃部山と称してここに造園を施し 明治42年園内一角に銅像を建立し ■えて大正3年園地とともにこれを横浜市に寄附した
不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和18年撤去の運命に遭い 公園また昔日の■なきところ たまたま昭和29年開國百年祭を催すに方り 記念行事の一環として 開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し ひろく市民の協賛を求め ここに復旧の業を興した
昭和29年6月2日
神奈川縣
横濱市
横濱商工會議所
横濱市長平沼亮三書
※■は判読できなかった文字です。
井伊直弼銅像(掃部山公園) 午後、夕方近くになると逆光となります。 写真を撮るなら朝がいいかもしれません。 |
銅像はランドマークタワーのほうに向いて建っていました。 (平成15年12月14日) |
横浜の開港と掃部山公園(説明石碑の碑文)
安政5年(1858)
日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼は
よく内外の激動に耐え
機に臨み英断
日米修好通商条約を締結した
安政6年
ここに横浜は
未来の発展を予見するかのように
世界の海洋に向かって開港した
明治14年(1881)
井伊大老を追慕する彦根藩士有志により
開港に際しての功績を顕彰するため
記念碑建立の計画をたて
明治17年この地の周辺の丘を求め
掃部山と称し造園を施し
明治42年(1909)
園内に銅像を建立しこれを記念した
大正3年(1914)
井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈
掃部山公園として公開された
ここに
平成元年を以て
市政100周年
開港130周年を迎え
これを記念してこの碑を建立した
平成元年6月2日
横浜市長
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井伊掃部頭邸跡 (東京都千代田区永田町・憲政記念館「国会前」交差点付近) (平成18年5月25日) |
井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸跡)
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広ただひろの時に改易かいえきされ、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷かみやしきとして明治維新まで利用しています。(歴代当主は、掃部頭かもんのかみを称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門そとさくらだもんへ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。
平成9年8月
千代田区教育委員会
(説明板より)
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外桜田門遠景 (江戸城) (平成18年5月25日) |
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外桜田門 (平成18年5月25日) |
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桜田門・櫓門 (平成18年5月25日) |
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櫻田烈士愛宕山遺蹟碑 (東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社) (平成18年7月25日) |
碑文
此の地は萬延元年3月3日昧爽水戸藩士斎藤監物 関鐵之介 佐野竹之介 黒澤忠三郎 大関和七郎 廣岡子之次郎 山口辰之介 森五六郎 岡部三十郎 鯉淵要人 稲田重蔵 杉山彌一郎 蓮田市五郎 森山繁之介 廣木松之介 増子金八 海後磋磯之介 薩摩藩士有村次左衛門等天下ノ為ニ幕閣 大老井伊直弼ヲ斃サントシテ勢揃ヲ為セル處ナリ
■■櫻田事變ナルモノハ■■ノ志士協力シテ井伊大老ヲ斃シ後直チニ京都ニ結集シ 至■■奉シテ天下ニ大義ヲ唱ヘントシタルモノナリ
金子孫次郎 高橋多一郎■ニ領首ハ機ヲ逸セス京阪ニ赴キシモ事ハ齟齬シテ■兵■■ス
終ニ金子ハ京都伏見ニ捕ヘラレ高橋ハ其ノ子庄左衛門ト共ニ大阪四天王寺ニ■■ス
然リト雖モ斯ノ一擧遂ニ克ク三百年ノ幕府政治ヲ倒壊セシメ以テ■政維新皇国興隆ノ新體制■招来スヘ■導火線タルノ偉功ヲ樹タリ
然ルニ世人櫻田門ノ史蹟ヲ知ルモ事前ニ於ケル烈士愛宕山上勢揃ノ事蹟ニ■■テハ■■トシテ之ヲ識ル者ハ殆ト殊ナリ
吾人其ノ遺蹟ノ■滅ニ歸セントスルヲ慨シ此ニ碑ヲ建テ来者ニ■クルアラントス
皇紀二千六百一年三月三日 建之
櫻田烈士遺跡顕彰會長 三木哲次郎
故貴族院議員 室田■之
貴族院議員 徳富■一郎
財団法人多摩聖蹟記念會長 長尾欽■
芝區■志 茂又四郎■
同 茂又幸雄
大東文化學院教授文學士正四位 峰間信吉
金子孫次郎孫法學士 金子榮一
※ ■は判読不可の文字です。
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愛宕神社 (東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社) (平成18年7月25日) |
愛宕神社由緒
当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。
幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。
また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。
寛永11年3代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。
万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。
(説明板から抜粋)
| 愛宕山事件 |
昭和20年8月15日、右翼団体の『攘夷同志会』のメンバーらが愛宕山に立て籠もり徹底抗戦を叫んだ事件。
しかし、警官隊に包囲され8月22日に10人が手榴弾で自爆して事件は終結した。
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井伊直弼の墓 (東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺) (平成20年7月4日) |
都史跡 井伊直弼墓
所在 世田谷区豪徳寺2丁目24番7号 豪徳寺
指定 昭和47年4月19日
井伊直弼(1815〜60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政5年(1858)4月大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約など安政5ヶ国条約に調印。
また13代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。
さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政7年3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
墓石の高さは342センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将蜍ナ覚翁大居士」とある。
昭和47年10月30日 建設
東京都教育委員会
(説明板より)
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井伊家墓所 (東京都世田谷区豪徳寺2−24−7・豪徳寺) (平成20年7月4日) |
国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所
井伊家は遠江国とうとうみのくに井伊谷いいのやを中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く2代直孝なおたかも大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。
以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間たまりのまに控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。
直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時なおとき(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。
直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風からはふ笠付位牌いはい型で造られている。
以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子せいし、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。
これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺せいりょうじ(滋賀県彦根市)、永源寺えいげんじ(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。
平成20年3月
世田谷区教育委員会
(説明板より)
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豪徳寺 (東京都世田谷区豪徳寺2−24−7) (平成20年7月4日) |
大谿山だいけいざん豪徳寺ごうとくじ(曹洞宗)
豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳寺こうとくじを前身とする。
天正12年(1584)中興開山門菴宗関もんなんそうかん(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改宗した。
直孝の娘掃雲院そううんいんは多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏さんぜぶつ像、達磨・大権修理だいげんしゅり菩提像、及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。
ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道おんじょうけんどう、近代三大書家の随一日下部鳴鶴くさかべめいかく(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。
また同寺の草創を物語る、洞春院とうしゅんいん(吉良政忠)と弘徳院の宝篋院塔ほうきょういんとうが残されている。
平成4年3月
世田谷区教育委員会
(説明板より)
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