池田治道 いけだ・はるみち

明和4年(1768年)〜寛政9年(1798年)


池田治道公の墓



鳥取藩第6代藩主・池田治道公の墓
(鳥取市(旧国府町)奥谷・鳥取藩主池田家墓所)




(平成16年11月20日)

鳥取藩第6代藩主

第5代藩主・池田重寛の第三子。
1768年(明和5年)江戸の藩邸で生まれる。生母は側室の村上氏。
1778年(安永7年)第5代藩主・池田重寛の夫人仲姫(老中・松平定信の姉)に養われて嫡子となる。
重寛には第一子に鶴五郎(のちの治恕)がおり、将来を非常に期待されたが、1781年(天明元年)病により江戸藩邸で逝去した。
続く1783年(天明3年)父・重寛の逝去により、16歳で家督を相続、第6代藩主となる。
1784年(天明4年)将軍・徳川家治の前で元服をおこなう。
治道は最初は癇癖の強い人であったが、藩校である尚徳館で経義を聞き修行に努めた結果、藩主としての重きをなすに至り、またこの間、祖母である桂香院の指導が藩政にも通達するようになり、営々として藩政に努めた。
藩主を補佐する家老にも乾長孝など名家老が現れ、先代からの藩政の立て直しの効果が徐々にあらわれた。
また、この時代ほど学問が盛んとなった時代はない。
箕浦父子、河田孝成、安藤庄助、田中万蔵、伊藤千里、辻権之丞などそうそうたる学者が現れている。
また、稲村三伯は蘭学者として江戸において大槻玄沢に師事し、『ハルマ和解』をあらわして我国の洋学研究に貢献したことは有名である。
また、治道は子にも恵まれ、7代斉邦、8代斉稷はともに側室の子であるが、治道の子である。
また女子は、毛利、鍋島、島津という幕末維新に活躍した三家に嫁いでいる。
1798年(寛政10年)31歳で逝去。

池田家墓所 池田家墓所・山門
(鳥取市)

国指定史跡
鳥取藩主 池田家墓所


昭和56年10月13日指定

鳥取藩主、池田家墓所は、池田家初代光仲以下11代慶栄に至る、歴代藩主と藩主室等の墓所があり、75基の墓碑のほか多数の石灯籠を整然と配している。
藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の壮大なもので江戸時代大名墓所の代表的なものの一つである。

財団法人 史跡鳥取藩主池田家墓所保存会

(説明板より)



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