平成22年5月1日
明治32年(1899年)12月3日〜昭和40年(1965年)8月13日
広島県広島市・広島城でお会いしました。
京都大学卒。
大正14年(1925年)、大蔵省に入省。
各地の税務署長や本省の主税局長を務め、おもに税務畑を歴任する。
昭和23年(1948年)、大蔵次官を辞職して民主自由党に入り、翌年の総選挙で当選。
吉田茂自由党総裁の指導を受け政治家として成長。
第三次吉田内閣では蔵相となり、ドッジ・ライン、シャウプ勧告を実施する。
サンフランシスコ講和会議では全権委員の一人として列席。
吉田茂の右腕として活躍した。
昭和35年(1960年)、安保闘争で岸信介内閣が退陣した後を受けて、自由民主党総裁に当選、内閣総理大臣に就任する。
「寛容と忍耐」をスローガンに掲げ、所得倍増政策を推進した。
「内閣総理大臣 池田勇人君」像 (広島市・広島城の堀沿い) (平成22年5月1日) |
【碑文】
池田勇人君ハ明治三十二年竹原市ニ生ル
京都帝國大学ヲ卒業シテ大蔵省ニ勤ム
性豪毅ニシテ誠実 善ク力ヲ尽シテ 其ノ任ヲ全ウス
主税局長 大蔵次官ヲ歴任
推サレテ衆議院議員ニ当選シ 直チニ大蔵大臣トシテ混乱セル戦後ノ財政ヲ処理ス
爾来常ニ台閣ニ列シ 昭和三十五年自由民主党総裁トナル
而シテ内閣ヲ組織スルコト三度
寛容ト忍耐ヲ政治姿勢トシ 所得倍増政策ヲ推進シテ邦家ノ隆昌ヲ致ス
在職四年有余 恰モ東京オリンピック大成功ノ■遂ニ病厚クシテ大任ヲ辞ス
翌四十年薨去
正二位大勲位ヲ贈ラル
郷党茲ニ像ヲ建テテ 其ノ偉業ヲ讃ヘ敬仰ノ念ヲ新タニス
昭和四十五年十二月
前尾繁三郎 撰
【池田勇人】
明治32年12月3日、広島県豊田郡竹原町(現・竹原市)で生まれた。
生家は広島県の銘酒『豊田鶴』の醸造元で、二男五女の末っ子。
中学は県立の忠海中学。
高校は熊本の旧制五高に進む。
飛びきりの秀才というわけではなかった。
将来のライバルとなる池田と佐藤栄作は、同期生として五高に入るが、池田は途中で中退し、再度一高を目指したが失敗し、再び五高に入りなおしたため、佐藤より1年後輩となった。
のちに「落第総理」といわれるのは、このためである。
高校卒業後、佐藤栄作は東京帝国大学に入ったが、池田は東大に入れず京都帝国大学に進む。
大学時代に奮起して高等文官試験(上級職国家公務員)に合格し、大正14年に大蔵省に入った。
大蔵省では、函館税務署長を経て宇都宮税務署長と順調なスタートを切る。
この間に、郷里の先輩で逓信大臣だった望月圭介の秘書官だった宮沢裕(宮沢喜一の父)衆議院議員の仲介で結婚する。
結婚相手は元伯爵で貴族院議員だった広沢金次郎(明治維新の功労者・広沢真臣の血を引く)の三女・直子。
媒酌人は時の蔵相・井上準之助。
ところが、突然、身体中に水泡ができては潰れるという、奇病「天疱瘡」に罹る。
再起の見込みなしという難病だったため、休職届けを出していた大蔵省をやむなく依願退職せえざるをえなかった。
しかも、妻・直子が不眠不休の看護疲れから狭心症で急死するという不幸が続いた。
母親の“うめ”は、池田を東大病院から郷里の自宅に連れ戻し、家族をあげて看護した。
この時に頼まれて看病に来たのが、母の従姉妹の娘にあたる大貫満枝。
医者の娘で広島の名門・山中高女を卒業、名古屋の金城女専を出た才女である。
彼女の献身的な看護によって、池田は闘病4年間の末、奇跡的に助かった。
昭和9年12月、大蔵省復帰が正式に決まり、玉造税務署長を命じられ、翌昭和10年、満枝と正式に結婚した。
玉造税務署長時代、池田は和歌山税務署長の前尾繁三郎という生涯の親友を得る。
前尾は池田の4年後輩だが、やはり肋膜で退職し、5年間の治療のあと復帰したという共通の経験を持っていた。
終戦時、どうにか主税局長まで昇進し、出世もここまでと諦めていた時に、GHQによる公職追放の嵐が大蔵省を襲う。
池田の同期生で将来の次官といわれた植木庚子郎(当時・主計局長)、山際正道(当時・総務局長)が退職したため、池田は京都帝大卒で初めての次官に昇進した。
この公職追放の嵐のほかに、池田が次官になれたのは石橋湛山の引きがあったからだと言われている。
第一次吉田内閣の蔵相は、東洋経済新報を主宰していた石橋湛山。
石橋はGHQの政策に反対したかどで政界追放となるが、その寸前、政界入りを狙っている池田の意思を汲んで「政界入りするなら」と、次官に据えたといわれている。
昭和23年、池田は大蔵省を退官。
石橋湛山のいる自由党から衆議院を目指し、翌昭和24年1月、政界へ躍り出た。
同時にこのとき、前尾繁三郎も政界入りを果たしている。
政界入りした池田は、初当選ながら、第三次吉田内閣の蔵相に抜擢される。
吉田が池田を抜擢した理由は、戦後の混乱期の人材不足ゆえだったが、吉田の名門好み、一流好みが幸いしたと伝えられている。
吉田は池田の素性を聞き「広沢伯爵の娘婿で、大隈重信侯、木戸元内大臣とも縁続き」というのを知って納得したという。
以後、池田は佐藤栄作とともに“吉田学校”の優等生として政界の実力者となり、昭和35年の安保問題で辞任した岸信介内閣のあとを受けて総理大臣となった。
池田には上から直子、紀子、祥子の三姉妹の子供がいる。
いずれも学習院大卒で、池田の上流階層志向がうかがえ、また、勢力拡大のために戦略的に嫁がせている。
長女・直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男・荒一郎。
荒樹はいわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年ころは、高額所得番付で全国6位にランクされるほどの資産家だった。
二人の結婚は昭和33年1月。
世間から「池田は資金源を身内に入れた」と見られた。
この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の明治神宮宮司・甘露寺受長の長女・績子という関係から、旧皇族の北白川家まで繋がり、箔をつけている。
次に結婚したのは三女の祥子。
相手は当時、日本ゴム会長・石橋進一の長男の慶一。
石橋家は、あのブリヂストンの“石橋一族”である。
慶一は、ブリヂストンタイヤの元会長・石橋正二郎の甥にあたる。
この結婚により、鳩山一郎、石井光次郎、三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになる。
この結婚式が行われたのが昭和40年。
だが、池田はこの年の8月13日、総理退陣1年後に癌に倒れ、不帰の人となった。
(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)
(平成26年7月15日 追記)
【池田勇人と大平正芳】
池田勇人が吉田内閣の蔵相になると、大平正芳は宮沢喜一、黒金泰美とともに秘書官になった。
“秘書官トリオ”は、いずれも代議士となり池田の側近となるが、当時、三人を称して「頭脳の黒金、懐刀の大平、政策の宮沢」といわれていた。
池田は「鈍牛」と呼ばれるこの大平が好きだった。
自分と似ているところがあったからだ。
たとえば大蔵省は、戦前も戦後も、「東大にあらずんば大蔵官僚にあらず」といわれているところだ。
だが、二人の学歴は池田が五高から京大の傍流コース、大平は高松高商から東京商科大(現・一橋大)とさらに悪い。
二人とも大蔵官僚としては決してエリートではなかったのである。
しかし二人はエリートにはない人情味があり、人の心の痛みを理解する人物だった。
そのため誰からも愛された。
池田も苦労人だった。
造り酒屋の息子だから金銭的に苦労したわけではないが、大蔵省ではずっと傍流を歩いた。
しかも税務署長時代は大病を患い、長期のブランクを作っている。
その池田がトップの大蔵事務次官になるのだが、それは時の運が幸いしたというしかない。
敗戦後、GHQの公職追放で要職についていた池田の同期生が誰もいなくなり、期せずして押し上げられたのである。
そのため池田は人を大切にし、人脈こそ財産だと大平に教えた。
池田は財界人の酒席には必ずといっていいほど大平を連れて行った。
黒金、宮沢といった頭の切れる優等生秘書官は、もっぱら昼間の仕事で使い、夜は酒が殆ど飲めない大平を侍らせた。
よく気の付く大平が、それには打ってつけだったのだ。
そして、この時の財界人の会合が「末広会」となり、「宏池会」の資金ボックスとなるのだ。
大平はそれをそっくり引き継いでいる。
(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)
(平成26年7月15日 追記)
【池田勇人の政歴】
昭和24年1月23日 | 衆議院初当選 |
昭和24年2月 | 第3次吉田内閣大蔵大臣 |
昭和25年 | 通産大臣兼任 |
昭和27年 | 第4次吉田内閣通産大臣 |
昭和28年5月 | 第5次吉田内閣政調会長 |
昭和29年 | 自由党幹事長 |
昭和31年12月 | 石橋内閣大蔵大臣 |
昭和32年2月 | 第1次岸内閣大蔵大臣再任 |
昭和33年 | 第2次岸内閣国務相 |
昭和34年 | 岸改造内閣通産大臣 |
昭和35年 | 岸内閣総辞職のあとを受け、7月19日第1次池田内閣成立 総理大臣に就任(第3次改造内閣まで務める) |
昭和39年10月 | 癌のため辞意を表明 |
昭和39年11月9日 | 総辞職 |
昭和40年8月13日 | 死去(65歳) |
(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)
(平成26年7月15日 追記)
ポスト 岸 |
岸信介は、自分の後任の首相に池田勇人通産相を推薦した。
岸の退陣表明から3週間後の1960年(昭和35年)7月14日、自民党・党大会が開かれ、新総裁に池田が選ばれた。
池田と石井光次郎、藤山愛一郎の3人が出馬した。
第1回目の投票で決まらず、決選投票で、池田302票、石井194票で、池田が勝った。
巣鴨を出たばかりの不遇の時代の岸を助けた岸の盟友、藤山愛一郎は破れ「岸は冷たいよ」と言ったという。
岸は安保闘争の責任を取って辞めたが、藤山にも外相としての責任があり、「今回は立つな、次の機会を待て」と岸は自重を促したという。
藤山を支持しなかった理由について、岸はそう述べている。
舞台裏で、アメリカは、ポスト岸をにらみ、米国の国益にとって最も望ましい池田に照準を当て、事実上、池田擁立を背後から支援した。
7月18日、臨時国会で池田が首班に指名された。
池田勇人首相といえば、だみ声と毒舌がトレードマークだった。
安保騒動の混乱後に成立した池田内閣は「寛容と忍耐」と「所得倍増」をスローガンに、高度経済成長路線を推進した。
(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)
(平成27年7月4日・追記)
【政権末期】
池田はその政権末期には、ライバルの佐藤栄作との確執から大野伴睦を副総裁に、河野一郎を建設大臣にしていた。
つまり、岸政権のときのように、主流派と反主流派が入れ替わるという現象が起きていた。
このままでいけば、二人のどちらかが、池田派から政権の禅譲を受ける可能性もあったのだ。
ところが、やはり運がないのか、まず大野が病に倒れ(心筋梗塞で急死)、これによって孤立し力を失った河野まで次期総理大臣レースから脱落してしまった。
1964年の11月、喉頭がんで余命いくばくもなかった池田は、佐藤に総理大臣の座を譲り、ここに佐藤政権が誕生した。
兄である岸信介を政権につけるため、そしてその政権を維持するために多くの犠牲を払ってきた弟がようやく自ら総理大臣の椅子に座った。
河野はこれに堪えられなかったのか、腹部動脈瘤を破裂させ、憤死してしまった。
(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)
(令和2年5月2日 追記)
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