寛永6年(1630年)〜元禄5年(1693年)
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鳥取藩第初代藩主・池田光仲公の墓 (鳥取市(旧国府町)奥谷・鳥取藩主池田家墓所) (平成16年11月20日) |
鳥取藩初代藩主
1630年(寛永7年)岡山藩5代藩主・池田忠雄の長子として江戸藩邸で生れる。
母は阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の娘、三保姫(芳春院)。
幼名は勝五郎。
1632年(寛永9年)父、忠雄の逝去により当時3歳で藩主の座につく。
幼年の藩主であったが、家老らの運動と父・忠雄が徳川家康の外孫であることなどを訴えた幕府への働きかけが功を奏し、備前(岡山)から因幡・伯耆(鳥取)へ移るだけで藩は存続した。
この時、幕府は光仲の叔父にあたる松平(池田)輝澄、右近太夫輝興の両名にその後見役を命じ、岡山藩6代藩主で光仲のいとこにあたる池田光政にも後見を命じた。
1638年(寛永15年)将軍・徳川家光の前で元服し、名を光仲と改めた。
江戸城内の将軍の前で元服の式を行い、官位と将軍の名の一字を賜るという非常に名誉ある大名は、御三家の他に、加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など「殿上元服之家」十五家があり、鳥取の池田家もそのうちの一つである。
光仲の正室は、1645年(正保2年)幕府の命により嫁いできた、紀州徳川頼宣の長女、茶々姫(芳心院)である。
こうして姻戚関係が出来たことにより、その後、鳥取池田家の婚姻は紀州家との間に多く成立している。
1648年(慶安元年)3月、鳥取に初入国。
藩主の権力は家臣の格式を固定した上に安定するという。
家老を出す「着座」家を筆頭とする格式は光仲の時代(明暦年間〜寛文年間)に固定した。
光仲は初代藩主としてその定着に努力したといえる。
光仲は幼くして藩主となったため、初期の藩政は荒尾氏をはじめとする家老政治であった。
成長後は、これを改め、1652年(承応元年)には、当時権力を握っていた首席家老・荒尾成利(米子荒尾氏)を罷免し、以後、光仲の代には藩主の親政が徹底したという。
光仲は、学問より武芸を好み、性格的には厳正寡黙な人であったらしく、寵臣である和田三信でさえ、光仲の前に出ると「厳冬にも背に汗をした」という。
常に政治に熱心で、藩主の座を綱清に譲って隠居した後も藩政の舵取りに携わったという。
1693年(元禄6年)7月、64歳で卒中により逝去。
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池田家墓所・山門 (鳥取市) |
国指定史跡
鳥取藩主 池田家墓所
昭和56年10月13日指定
鳥取藩主、池田家墓所は、池田家初代光仲以下11代慶栄に至る、歴代藩主と藩主室等の墓所があり、75基の墓碑のほか多数の石灯籠を整然と配している。
藩主の墓碑は、いずれも亀趺円頭型の壮大なもので江戸時代大名墓所の代表的なものの一つである。
財団法人 史跡鳥取藩主池田家墓所保存会
(説明板より)
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