池禅尼 いけのぜんに

生没年不詳


藤原宗兼の長女・宗子むねこ
平忠盛の後妻となり、家盛・頼盛を生む。
平清盛の継母。
保元元年(1156年)の保元の乱に際して、頼盛に後白河天皇側につくことを勧めるなど、政治判断にすぐれていたという。
平治の乱に敗れた源頼朝の助命を平清盛に嘆願し、流罪とした。
名の由来は、忠盛の死後、出家して京都六波羅の池殿に住んだことによる。


池禅尼の塚



池ノ禅尼之塚
(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)





(平成18年4月3日)
大御堂寺本堂



大御堂寺本堂

(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)

現在の建物は3度の火災等にあり宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建された。



(平成18年4月3日)

寺院沿革

正式には鶴林山大御堂寺おおみどうじ(通称:野間大坊のまだいぼう)といいます。
その歴史は古く天武天皇(673〜86)の時代に始まり聖武天皇(723〜49)の時、行基菩薩が中興します。
後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。
承暦年間(1077〜81)に白河天皇の勅願寺として、大御堂寺と称せられました。
後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王・毘沙門天を奉安され、七堂伽藍を造営します。
そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。
現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。

(リーフレットより)


保元の乱



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