(愛媛県今治市通町3−1−3)
平成19年11月10日
今治城沿革
藤堂高虎公は慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に東軍徳川家康方の先方として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として慶長7年より間9年にかけて城壁高さ6間乃至8間を築き本丸には五層の天守閣その他には櫓城門等二十数棟を配し三重の城濠をめぐらしてそれに海水を導入して当時としては他に類例のない一大平城を構築した。
また公は家康に新任され慶長13年伊勢の津に国替え増封されたが天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命ぜられた時、献じて亀山城に移築した。
その後今治城は義子高吉が2万石で維持し更に寛永12年(1635)に伊勢長島より久松定房が入城し、後3万5千石で世々10代を経て明治維新となった。
現在の天守閣は昭和55年10月10日今治市制60周年記念として再建され往時の偉容を再現するに至った。
今治城跡は昭和28年10月9日愛媛県教育委員会から史跡として指定を受けている。
今治市教育委員会
(説明板より)
今治城の歴史 |
(〜略〜)
戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の領主村上武吉が居城としていたが、天正13(1585)年秀吉による四国征伐で侵攻した小早川隆景に戦う事なく開城。
伊予平定後の隆景に国府城を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年筑前名島に転封。
代わって福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城。
8年後の文禄4年清洲城に転封。
その後、池田景雄(慶長の役で1598年戦死)、小川祐忠(関ヶ原の合戦で西軍に加わり改易)と城主が変わり、慶長5年藤堂高虎が城主となった。
高虎は浅井長政に仕えて、15歳で姉川の合戦に初陣。
その後、天正4年羽柴秀長に仕えて、天正13年雑賀根来一揆征伐の功で1万石、同15年九州征伐の功で2万石を領するが、秀長、その嗣子秀俊が相次いで没し、高虎は二人の菩提を弔うために文禄4年高野山で出家。
秀吉は才を惜しみ、同年7月招いて伊予宇和郡7万石を与えた。
高虎は父と共に大洲に入城し、板島城(宇和島城)築城にかかる。
慶長3年朝鮮再征の功で1万石加増。
翌年諸侯に先んじて弟正高を人質に差出す。
関ヶ原の合戦では、福島正則と共に徳川軍の先陣で活躍。
その功で12万石加増され、伊豫半国20万石の大名として国府城に入城した。
藤堂高虎は、発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や経済発展にも便利な、20万石の大名に相応しい城郭と城下町を建設するため、城域を越智平野中央の今張に定めた。
山城の戦略的城郭から、平城の政治的城郭へと脱皮を図ったのである。
慶長7年6月11日に普請を開始、慶長9年9月に完成。
その広さはおよそ八町十六間四方、現在の金星川以南、旭町以東を城域とし、三重の堀に海水を引き入れ、南方は総社川、東方は瀬戸内海を自然の守りとした大規模な海城であった。
本丸には高さ八間の石垣の上に五層高楼の天守があり、二之丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が、要所要所には城門や櫓をもうけた。
石積みは自然石をそのまま使う野面積みで、軟弱な地盤を補うために、本丸、二之丸の石垣の下に、犬走りを巡らせた。
高虎は慶長11年に江戸城縄張の功で備中に2万石加増され、22万石となった。
同年妻子を江戸に移り住まわせ、これが後の参勤交代の基になったといわれている。
慶長13(1608)年高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封となり、今治2万石には藤堂高吉を処守で残し、伊勢津城に去った。
そのさい天守は解体し、大阪まで運び、慶長15(1610)年天下普請の丹波亀山城に移築した。
亀山(現亀岡市)は近畿の枢要地で、大阪城の豊臣秀頼に心を寄せる諸大名に備えて、要所を固めんとする家康の意図をくみ取り、伊賀上野城に移築するつもりの今治城天守を亀山城に移築した。
高吉が約27年間処守を務めた後は、寛永12(1635)年家康の甥の松平定房が3万石で就封し、松平家の居城として明治維新を迎えた。
(〜略〜)
(『今治城』リーフレットから抜粋)
鉄御門 |
■今治城鉄御門くろがねごもんについて
築城の名手、藤堂高虎はそのもてる技術をつぎ込んで今治城を築き、多くの新機軸を打ち出しているが、三の丸大手側虎口となる鉄御門もそのひとつである。
近世城郭の虎口で強力な防御力を有する枡形は、関ヶ原の戦以降、徳川幕府系城郭において普及したと言われている。
幕府の天下普請を担った藤堂高虎によって、関ヶ原後、比較的早期に今治城が築城されたことから、今治城鉄御門は完成期枡形の原点であると推定される。
また、多聞櫓を巡らし、内側の櫓門を鉄門とし、さらには内堀をはさんで土橋で連結した場所に重ね馬出を構築するなど、最強ともいえる構えであり、天下人あるいは大大名クラスの居城に比肩しうるものである。
(『今治城 鉄御門』リーフレットより)
中央:武具櫓(昭和55年再建) 右:多聞櫓(平成19年再建) 【再建・多聞櫓】 総床面積700u。 建築材料はケヤキ材、松材、檜材、杉材など。 瓦は当地方産品の菊間瓦を使用。 外装は白漆喰 (平成19年11月10日) |
■鉄御門の再建について
鉄御門再建は平成15年、今治築城・開町400年祭の記念事業として計画され、平成19年9月に完成した。
その内容は鉄御門を構成する建造物のうち石垣、櫓門、多聞櫓および東西の控塀を多数の市民の寄付を得て復元したもので、基礎資料は幕末期写真や普請帳(芳野家文書)、および旧櫓台の根石や築石、門礎石などを検出した発掘調査結果などである。
また事業にあたっては史跡今治城整備検討委員会などの指導を受けて、可能な限りの再現を行った。
その結果、内堀で囲まれた内郭のうち大手側からの景観は、往年の偉容をおおむね取り戻すこととなった。
(『今治城 鉄御門』リーフレットより)
御金櫓 昭和60年に再建 (平成19年11月10日) |
御金櫓 (平成19年11月10日) |
山里櫓 市制施行70周年記念事業として平成2年に再建 (平成19年11月10日) |
山里櫓 (平成19年11月10日) |
今治松平藩の成立まで
天文10年(1541)三河岡崎城主松平忠は、三河刈谷城主水野忠政の娘於大と結婚し、翌年家康が生まれた。
広忠が結婚する前年、安祥(現安城)が織田信秀(信長の父)に奪われた。
ここは岡崎城以前約50年間、松平が居城としてきた所で、刈谷はそのすぐ西に接している。
広忠が水野氏と縁組したのは、東西から安祥を挟みつけて奪還しようとする政略からだった。
ところが天文12年(1543)水野忠政が死ぬと、跡を継いだ於大の兄信元は織田方についた。
これでは今川義元の保護を受けている松平家とは敵となる。
そこで於大は翌年離縁された。
於大はその後、尾張阿古居領主(現阿久比)久松俊勝と再婚して定勝を産んだ。
定勝は家康の異父弟ということで、松平姓を許される。
慶長6年遠州掛川で3万石、慶長12年伏見城代で5万石、元和3年伊勢桑名に11万石と、久松松平の基盤を固めて、寛永元年(1624)65歳で桑名に没した。
今治松平藩祖・定房は、その定勝の五男である。
定勝の長男は早世。
次男定行は宗家で寛永12年松山15万石藩主。
三男定綱は寛永12年桑名11万石藩主。
四男定実は寛永9年36歳で桑名に病没、子の定之が寛文5年から2千石直参。
六男定政は将軍家光の小姓組頭を務め、慶安2年刈谷2万石藩主。
同4年家光が没し、世相風刺の歌を詠み所領返上を申し出て出家、江戸市中を「松平能登入道に物給え」と托鉢に回ったので、乱心扱いで所領没収、松山藩預かり。
長女松尾は服部半蔵の子正就に嫁ぎ、子孫は代々今治藩筆頭家老を務める。
妹光寿院は老中酒井忠行に嫁ぎ、下馬将軍と称された大老忠清を産む。
定房は慶長9年掛川城に生まれ、慶長16年家康に初御目見え。
元和7年肥前守、後美作守。
寛永2年伊勢長島7千石を拝領。
寛永12年今治3万石を領す。
(〜略〜)
この時、長島から随行した譜代家来は家老久松長政(俊勝の弟織部の子孫)、家老戸塚政次(定房幼少からの御守役)以下38人で、家禄を2倍半に加増されて要職につくが、明治まで存続したのは18家であった。
(〜略〜)
(『今治城』リーフレットより抜粋)
天守閣 市制施行60周年記念事業として昭和55年に再建 (平成19年11月10日) |
天守閣内部 (平成19年11月10日) |
天守閣から見た景色 |
今治城主 |
城主 | 生年・没年 | 治世初年 | 主な事蹟 |
藤堂高虎 | 弘治2(1556) 〜 寛永7(1630) (75歳) |
慶長5(1600) (45歳) |
現在の滋賀県甲良町に生まれる。 文禄4(1595)年宇和島5万石。 慶長の役で1万石加増。 関ヶ原の戦いの功で伊予半国20万石。 今治城を築く。 慶長11(1606)年江戸城縄張で2万石加増。 慶長13年(1608)年伊勢の津へ転封。 後加増され元和3(1617)年32万3900石。 |
藤堂高吉たかよし | 天正7(1579) 〜 寛文10(1670) (92歳) |
慶長13(1608) (30歳) |
丹羽長秀(織田信長の老臣)の三男。 初め羽柴秀長の養子。 天正15年藤堂高虎の養子。 慶長6(1601)年高虎に実子・高次が生まれる。 そのため微妙な立場となる。 高虎が津に転封の後、今治2万石の処守で留まる。 寛永12(1635)年伊勢等2万石へ所替となる。 伊賀名張に陣屋を普請。 |
松平定房さだふさ | 慶長9(1604) 〜 延宝4(1676) (73歳) |
寛永12(1635) (32歳) |
松平定勝の五男。 寛永12年今治3万石。 天保4年長崎黒船警備に1190人で出陣。 寛文5年江戸城代。 武蔵東葛飾、下総臼井栗原、常陸下館に1万石加増。 寛文9年従四位下侍従。 鷹司氏入内祝の使者で参内、1万両の出費。 |
松平定時さだとき | 寛永12(1635) 〜 延宝4(1676) (42歳) |
延宝2(1674) (40歳) |
松平定房の次男。 兄・定経の病死で家督4万石を相続。 延宝4年江島為信に命じ兵制整備。 三男の定昌に5千石を分知。 従兄弟の大老酒井忠清に遺書を残す。 |
松平定陳さだのぶ | 寛文7(1667) 〜 元禄15(1702) (36歳) |
延宝4(1676) (10歳) |
松平定時の次男。 兄・定直の松山藩4代就封で家督3万5千石を相続。 延宝6年徴租を検見から定免へ。 元禄11年に関東の5千石が宇摩郡18ヶ村と替地。 同年福山城請取。 江島為信を家老で重用し藩政改革。 為信、甘藷を移植し、享保飢饉に餓死者なし。 |
松平定基さだもと | 貞享3(1686) 〜 宝暦9(1759) (74歳) |
元禄15(1702) (17歳) |
松平定陳の長男。 元禄15年泉岳寺へ警備兵を派遣。 宝永元年奥詰。 宝永4年駿河加番。 宝永5年減免歎願の一揆、弓削土生騒動が起こる。 享保2年木挽町上屋敷類焼、旧記焼失。 翌年も類焼、麹町5242坪移転。 享保9年総社川瀬堀開始。 災害多く引き米恒例化、最高は給人の5割引。 |
松平定郷さださと | 元禄15(1702) 〜 宝暦13(1763) (62歳) |
享保17(1732) (31歳) |
松平定昌(松平定時の三男)の六男。 松平定基の養子。 就封の年に享保大飢饉。 宝暦元年総社川川筋付替普請。 宝暦4年大坂加番。 延享3年今治騒動で家老、大目付遠島。 士気沈滞引き締めに不忠私曲の藩士を処分。 |
松平定休さだやす | 宝暦2(1752) 〜 文政3(1820) (69歳) |
宝暦13(1763) (12歳) |
松平定郷の孫。 父定温の病死で嫡孫承祖。 届出が遅れお家断絶の危機。 就封の年に総社川大改修落成。 安永元年より商業からの税収を図る。 高輪下屋敷の別荘普請で1538両出費。 |
松平定剛さだよし | 明和8(1771) 〜 天保14(1843) (73歳) |
寛政2(1790) (20歳) |
松平定休の長男。 寛政4年上屋敷類焼し小川町へ移転。 文化2年南堀端に藩学校を設立。 朱子学で君臣関係強化を図る。 文化14年大手御門に新築移転。 松平定信が「克明館」と命名揮毫す。 文化5年〜文政7年奏者番。 文政7年小川町隠居御殿普請に2701両出費。 |
松平定芝さだしげ | 寛政3(1791) 〜 天保8(1837) (47歳) |
文政7(1824) (34歳) |
松平定剛の次男。 兄は早世。 財政逼迫し、文政11年から大減給。 天保3年天保山築堤開始、翌年落成。 天保5年江戸城二ノ丸普請上納金に約5千両出費。 天保7年天保の飢饉損高2万石。 御救小屋で一日1200人の粥炊出し。 天保8年大塩平八郎の乱に鎮圧兵。 |
松平定保さだもり | 文化10(1813) 〜 慶応2(1866) (54歳) |
天保8(1837) (25歳) |
池田政行(松平定休の六男)の次男。 松平定芝の養子。 天保13年差上金約1万両を前領内から集める。 天保14年〜文久2年奏者番。 弘化2年伯方塩田開発開始。 弘化4年大手門新規普請。 櫓を修繕し、海岸防備を強化。 嘉永6年異国船渡来により武具馬具を点検させる。 その補修金を支給する。 |
松平定法さだのり | 天保5(1834) 〜 明治34(1901) (68歳) |
文久2(1862) (29歳) |
松平定芝の四男。 松平定保の養子。 文久3年入部土産に家老から徒まで西洋銃を支給。 銃兵への兵制改革。 追手に砲台築立。 今川城鈍川移城計画。 慶応4年戊辰戦争で御所警備、奥羽出兵。 本姓久松に復姓。 明治2年版籍奉還で今治藩知事。 明治4年廃藩置県で知事免官、帰京する。 |
(参考:『今治城』リーフレットより)
今治城案内 | |
5層6階の天守閣には、甲冑や刀や火縄銃、今治城絵図や藩主の書画、徳川将軍の領地朱印状、その他、今治藩にゆかりの武家文化資料などが主に展示されています。 多聞櫓は自然科学館、櫓門は地場産業館、御金櫓は郷土美術館、山里櫓は古美術館として、主に郷土にゆかりのあるものが展示されています。 (展示内容は、企画展等により変わることがあります。) 今治城が全国的に珍しいのは、堀の水が海水だという点です。 高虎築城当時から、堀は海とつながっていて、潮の干満で堀の水位も変わります。 現在も鯛やヒラメなどの海水魚が泳いでいます。 また快晴時には天守閣6階の展望台から来島海峡大橋を一望に見渡すこともできます。 |
|
観覧時間 | 観覧料 (天守閣・御金櫓・山里櫓の3館共通券) |
3月〜11月 午前9時〜午後5時 12月〜2月 午前9時〜午後4時30分 休館日・年末の3日間(及び別に定める日) |
大人(16歳以上) 300円 |
【今治城】
藤堂高虎が、今治城の築造に乗り出すのは、関ヶ原の合戦後、徳川家康により20万石に加増のうえ、伊予半国を与えられてからである。
工事は慶長7年(1602年)6月に始まり、2年4ヵ月後の同9年9月に一応のかんせいを見た。
今治城は、山や丘陵を活用した城ではなく、海岸の砂浜に盛土をして築いた城なので、この工期は異例の短さといって良いだろう。
今治城の特徴は、あらゆる面で海を意識したその縄張にある。
古図を見ると、城域の中央に本丸・二の丸・三の丸が置かれ、その周囲を幅30間(1間は約1.8メートル)の内堀が巡っている。
内堀は今も残っているが、30間といえば50数メートル、あまりに広すぎて、本丸部分はあたかも池に浮かぶ小島のようである。
さらにその外部を、昔はそれぞれ幅20間と8間の中堀と総堀が守っていた。
ただし、総堀は南・北・西にしかなく、東方は海がその役目を果たしている。
もちろん堀の水はすべて海水である。
また、中堀の東北の部分には宏壮な舟入りが設けられ、舟入川によって外海と結ばれている。
しかも、今治城には23の櫓があったが、その過半数以上は本丸から見て海岸寄りに設けられていたという。
今治城は、俗に「一で来島くるしま、二で鳴門なると、三と下って馬関ばかん瀬戸」とうたわれた、瀬戸内海上交通の最大の難所である来島海峡に直面している。
すぐ北に見える来島は、古来有名な伊予の河野こうの水軍の支族来島氏が城を構え、眼下の海峡を通る船舶に対して、航海の安全を保障するかわりに、一種の通行税を要求して繁栄を誇った故地である。
出来るだけ短時日で船旅を済ませようとするなら、来島海峡を通るしか方法はなかった。
難所はつまり要衝を意味し、だから来島氏も通行税をせしめることができたのである。
秀吉の死後、家康にとって怖いのは、西国大名の動向である。
兵器の海上輸送が事の成否を分ける。
その成否のキーポイントを握るのが、来島海峡で、この海峡を無傷で迅速に通過できるか否かということで、それを防ぐための高虎の工夫が、今治城の特異な縄張として現れている。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月15日 追記)
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