慶長2年(1597年)〜寛永11年1月25日(1634年2月22日)
父は稲葉正成、母は春日局。
丹後守。
慶長9年(1604年)から徳川家光に近侍し、徒頭かちがしら、小姓組番頭を経て書院番頭となる。
元和9年(1623年)、従五位下丹後守に叙任され、奉書加判の家光付年寄となる。
寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に際して肥後国熊本城受取を務め、4万石余が加増され、8万5千石で相模国小田原藩主となる。
家光政権の幕閣として活躍が期待されたが、38歳で没する。
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稲葉正勝の墓 (東京都文京区・養源寺) (平成23年1月22日) |
養源寺開基 稲葉正勝公 墓所
養源寺殿古隠紹太大居士
寛永十一年正月二十五日寂、稲葉丹後守越智正勝公(母 春日局)元和二年(一六一六)湯嶋天神下に養源寺創建す
明暦大火に類焼、当地に移轉す
関東大震災に崩壊、戦災等に依り破損甚大、今般整備改修す
昭和四十八年七月
(副石碑・碑文より)
3代将軍家光の乳母春日局の子
稲葉正勝の墓
慶長2年〜寛永11年(1597〜1634)
江戸前期の大名。
父は佐渡守正成。
母は、徳川3代将軍家光の乳母となった春日局である。
8歳で家光に召し出され、累進して丹後守に叙せられ、後に小田原8万5千石の城主となった。
葬儀は、正勝を開基とするこの「養源寺」(当時は倚松庵いしょうあんと称した)で営まれ、将軍家光の名代みょうだい阿部忠秋が弔詞を読んだといわれる。
平成元年3月
東京都文京区教育委員会
(説明板より)
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養源寺 (東京都文京区千駄木5−38−3) (平成23年1月22日) |
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