平成20年6月18日
文久2年(1862年)10月30日〜昭和24年(1949年)3月29日
※文久2年10月30日はグレゴリオ歴では存在しません。
文久2年10月29日=1862年12月20日
文久2年11月1日=1862年12月21日
大阪市中央区・大阪商工会議所前でお会いしました。
京都生まれ。
明治10年(1877年)、京都府からフランスのリヨンに派遣され、染色技術を学ぶ。
明治23年(1890年)、稲畑染料店(のち稲畑商店)を創立。
明治30年(1897年)、稲畑染工場を創立。
大正11年(1922)〜昭和9年(1934年)、大阪商工会議所会頭。
稲畑勝太郎君寿像 (大阪市中央区・大阪商工会議所前) (平成20年6月18日) |
碑文
稲畑勝太郎君壽像記
君以文久二年十月生于京都明治十年京都府簡派佛國留学専治染色化学■歴獨瑞諸國研精八年業成而帰創設染織梳毛洋紗洋絨染料製造等會社■畫周到其業大振君為人英邁國豁達接人推誠是以衆皆■服四十四年選為大阪商工會議所議員■選任副會頭三次遂重選會頭四次昭和九年七月辞任前後在職廿二年兼為日本商工會議所副會頭悉心企畫産業貿易之開發伸展卓著功績又任羅馬尼亞玻利比亞白耳義波蘭土葡萄牙等國名譽領事■使外邦謁元首訪名士視察商工業多至十回有功於國民外交不鮮 朝旨特叙正六位勲三等佛葡羅惠等國羅馬法王亦贈頭等章大正十五年 勅任貴族院議員頃者大阪商工會議所総會決議製君銅像立之前庭以旌功労永傳不朽云
昭和十年七月 長尾甲■并書
(碑文大意)
君は文久2年10月京都に生まれ、明治10年京都府からフランス留学生として派遣された。
もっぱら染色化学を勉強し、ドイツやスイスにも渡って8年間研究した。
帰国後は、染色、梳毛、洋反物、染料製造などの会社を企画したが、すべて成功した。
君の人となりは、英邁で豁達である上に人とは誠をもって接したので、衆みなその意見にしたがった。
明治44年、大阪商工会議所議員に選ばれ、副会頭に三度、そして会頭を4期つとめた。
昭和9年7月、前後22年にわたる在職ののち辞任したが、その間日本商工会議所副会頭を兼ねた。
また、ルーマニア・バリビア・ベルギー・ポーランド・ポルトガルなどの名誉領事に任じ、しばしば外遊、各国の元首・名士を訪問し商工業を視察すること10回、国民外交に大きく貢献した。
正六位勲三等に叙せられ、ローマ法王などからも勲章を受けた。
貴族院議員。
君の功績を永く伝えるために大阪商工会議所の前庭に銅像をたてることを総会で決議した。
※ 銅像の「碑文大意」の資料は商工会議所職員様のご厚意によりご提供頂きました。ありがとうございました。
銘板・碑文
第10代会頭稲畑勝太郎君の銅像は昭和10年10月建立せられたるも昭和17年11月金属類回収令によりて供納す
刻下大阪経済の振興に各界挙げて研精する秋商工都大阪の盛名を内外に発揚せし君が偉業追慕の念益々厚きを加ふ
茲に議員の総意により銅像を再建して遺風顕彰の記念とす
昭和31年10月
大阪商工会議所
【稲畑勝太郎】
明治20年(1887年)、フランスに8年間留学して染織の研究をした稲畑勝太郎は、この染織法を応用して機械力による製織を始めるべく、京都に新しい織物会社の設立を首唱した。
しかし伝統を重んずる京都では共鳴してくれる人はなく、彼は東上して大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝の三人を訪問して援助を求めた。
すると三人とも立ちどころにその計画に賛同し、それぞれ尽力を惜しまなかった。
そしてついに資本金50万円の「京都織物会社」が設立されるに至った。
同社は昭和43年(1968年)まで存続したが、その技師長を務め、のちに貴族院議員や大阪商工会議所の会頭にもなった。
(参考:砂川幸雄 著 『大倉喜八郎の豪快なる生涯』 草思社 2012年第1刷発行)
(令和2年1月13日 追記)
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