伊奈忠次の銅像 平成15年9月24日

伊奈忠次 いな・ただつぐ

茨城県水戸市・備前堀の道明橋のところでお会いしました。

天文19年(1550年)〜慶長15年6月13日(1610年8月1日)


三河国小島おじまの生まれ。
代官として徳川家康の信任を得て、家康の関東入国後に武蔵国小室・鴻巣の内に1万石を与えられ(武蔵国小室藩)、小室に陣屋を構えて関東郡代となりました。
検地、知行割、新田開発、交通制度の整備、水利・治水事業、諸産業の奨励に貢献しました。
また甲斐代官も兼任し、その支配領域は関東から甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張諸国に及びました。
関八州の検地(備前検地)を実施し、のちの幕府農政の基本となりました。


伊奈忠次像


備前堀に架かる道明橋の上の伊奈忠次の像

思ったより小さな銅像です。
うっかりすると見逃してしまうような銅像です。


(平成15年9月24日)

銅像の碑文

江戸時代初期の幕臣で関東郡代になった伊奈忠次は、検地や知行割、利根川をはじめとする河川改修などの諸政策にあたり、幕府の政治と経済基盤の拡充に重要な役割を果たした。
水戸藩時代には慶長15年(1610)、初代藩主頼房の命により千波湖の水を引いて、下町や以東の村々の用水と千波湖の治水を兼ねて開削したのが備前堀(伊奈堀)で、その水の恵みは現代にまで及んでいる。

平成3年3月
水戸市教育委員会

備前堀の由来(説明石碑より)

水戸藩が徳川頼房を初代として始められた慶長14年(1609)の頃、城東・城南の低地帯は、少しの雨にも千波湖の氾濫に悩まされるばかりか、わずかの日照にも旱害かんがいに見舞われること再々であった。
この時、水戸藩の民政をつかさどる幕府の関東郡代伊奈備前守忠次は藩の重役とはかり、治水と水田地帯への利水を兼ねて、慶長15年(1610)非常な困難を克服して「備前堀」を開き、千波湖の水を引いた。
堀は別に「伊奈堀」とも呼ばれ、下町の商工業の繁栄を招来したばかりか、当時の浜田村以東二十一ヶ村の水田をうるおし、その恩恵は現代に及んでいる。


【伊奈忠次】
通称は熊蔵。
天文19年(1550年)、三河国幡豆郡はずぐん小嶋(愛知県西尾市)に、伊奈忠家の長子として生まれる。
伊奈家は元来、信濃国伊奈郡の土豪であったが、忠次の祖父・忠基の時に松平広忠(家康の父)の臣下となった家柄である。
忠次は父・忠家とともに徳川家康の嫡男・信康のぶやすに仕える。
天正7年(1579年)、信康の自殺後、父と共に堺に出奔。
天正10年、ふたたび小栗吉忠おぐりよしただの同心として家康の下に戻る。
天正14年、家康が駿府すんぷ(静岡県静岡市)に移るに際し、近習となる。
やがて忠次は、検地や年貢などの制度改革の責任者に抜擢される。
天正17年(1589年)から翌年にかけて、信濃など5ヶ国の検地を担当。
天正18年、家康が関東に移封されると、1万3000石を給され、武蔵国足立郡小室(埼玉県北足立郡伊奈町)に陣屋を構える。
関東から駿河するが、遠江とうとうみ、三河みかわにわたる、のべ100万石に及ぶ地域の支配を担当。
とくに関東地域では、検地、河川改修、新田開発、交通政策などに敏腕を振るった。
彼の農政方法は『伊奈流』と呼ばれ“関東三奉行”と称された、他の代官頭・彦坂元正ひこさかもとまさ(彦坂流)、大久保長安ながやす(石見流)とともに、江戸幕府初期の農政の主流の一つであった。
その後、彦坂の失脚、大久保の死とその後の改易により、『伊奈流』が幕府の基本政策として継承された。
忠次の死後、彼の子孫は寛政4年(1792年)まで、幕府の関東直轄領の農政を担当する関東郡代の職を世襲している。

このように忠次は、家康の領国経営の実務の中心人物だった。
茨城県域でも幕府直轄地のみならず、譜代大名領、江戸時代初期の水戸藩領の農政を担当した。

慶長検地(備前検地)
水戸藩領域では、佐竹時代の文禄3年(1594年)に石田三成奉行による「太閤検地」が行われている。
慶長3年(1598年)には、佐竹義宣よしのぶの検地が行われていた。
「慶長検地」は佐竹氏の秋田移封に伴い、慶長7年(1602年)に、忠次をはじめ、島田重次しげつぐ、内藤清成きよなり、長谷川長綱ながつならを検地奉行として実施されたものである。
忠次は常陸国茨城郡と那珂郡、下総国結城郡と猿島郡などを担当。
彼のこの検地は「備前検地」と総称されている。
この検地は「太閤検地」と同じ六尺三寸四方を一歩、300歩を一反という基準で行われた。
しかし、検地方法は厳しく、一歩一尺も残さず測量したばかりではなく、山林や寺社の土地まで厳密に調査し、多くの石高を新たに打ち出した。
このため、村々では苛政を怨む声が絶えず、のちのちまで「慶長の苛法」として伝えられたという。

伊奈掘(備前掘)
慶長15年、忠次は千波湖せんばこを水源とする用水路を開削した。
これは城南方面の用水と、千波湖の氾濫による下町の洪水を防止するのが目的だった。
この用水堀を「伊奈堀」または「備前堀」という。
総延長は約12km。
流域の村々は21ヶ村に及んだ。
これにより、980町余りの水田が潤い、現在もその恩恵を受けている。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月31日発行)

(平成25年6月25日・追記)


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