井上伝銅像 平成16年6月12日

井上伝 いのうえ・でん

天明8年12月29日(1789年1月24日)〜明治2年4月26日(1869年6月6日)

福岡県久留米市・五穀神社郷学の森でお会いしました。


米穀商の平山源蔵の娘として筑後国久留米の通町に生れ、井上次八と結婚。
久留米絣かすりの特色である霜降・霰織あられおりと呼ばれる模様は、12〜13歳の頃、自分の着ていた衣服の退色部分に白い斑点のできるのを発見したのがきっかけだったと言われている。
久留米絣は幕末には久留米藩の特産物として生産奨励を受け、”お伝絣”とも呼ばれた。


井上伝女の像



『井上伝女』の像

(福岡県久留米市・五穀神社郷学の森)




(平成16年6月12日)

井上伝銅像 平成16年6月12日

福岡県久留米市寺町・徳雲寺でお会いしました。

井上伝について

久留米絣の始祖井上伝女は、天明8年(1778)の暮、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ幼少の頃から布を織ることにすぐれ、13才の頃(1801)平常着の斑紋になっていることから、絣の図柄を考え得たものです。
その後、21才の時市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけましたが、28才の時夫を失い、3人の子供をかかえながらこの道に励み、40才の頃には四百人の弟子がいて郷土の機業の振興に務めましたが、明治2年4月26日に82才の高齢で世を去りました。
純綿正藍のよさを誇り、伝統の技術により伝承されています久留米絣は、国の重要無形文化財に指定されています。

久留米市
財団法人久留米市 観光コンベンション協会

(徳雲寺・井上伝の墓入口の説明板より)

※説明板の「天明8年(1778)」は誤記です。正しくは「天明8年(1788)」です。

 (説明板より)

久留米絣始祖井上伝女の像



『久留米絣始祖 井上伝女』の像

(福岡県久留米市寺町・徳雲寺)




(平成16年6月12日)

久留米絣始祖井上伝女

井上伝女は天明8年(1788年)通外町の米屋の娘として生れた
この地方の婦女子は必ず機織りを習う習慣があった
このようななかで育った伝女は生来器用で幼にして木綿機にたけ しかも常に研究を重ねついには「加寿利」を考案した
井上家に嫁いでは技量も更に進み(久留米原古賀織屋おでん大極上御誂)の商標で売出し好評を博した
晩年は実家の近くに作業場を設け多くの子女を養成招かれては近郊に出張教授するなど久留米絣の発展に尽くし明治2年(1869年)82才で死去
女性の地位も認められていなかった19世紀の封建時代に女性が近代産業への脱皮へ力強い息吹を示したことは偉とすべきである

昭和47年10月建之
久留米絣組合連合会

(説明石碑より)

井上傅子之墓



『井上傅子之墓』

(徳雲寺)




(平成16年6月12日)

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