井上馨像 平成15年7月27日

井上馨 いのうえ・かおる

天保6年11月28日(1836年1月16日)〜大正4年(1915年)9月1日

山口県山口市湯田温泉・高田公園でお会いしました。


幕末期の萩藩士。
百石取りの井上五郎三郎光享みつゆきの次男として生まれ、のちに二百五十石取りの志道慎平しじ・しんぺいの養子になりました。
幼くして藩校・明倫館めいりんかんに入学。
その後、次第に蘭学に興味を抱くようになり、江戸に出て岩屋玄蔵いわや・げんぞうや江川太郎左衛門えがわ・たろうざえもんに蘭学を学びました。
攘夷実行には海軍興隆が不可欠との見解を藩に進言、聞き入れられ海軍学修行を命じられ、更にイギリス軍艦の買取交渉などにも当たりました。
万延元年(1860年)、藩主から聞多もんたの名を賜りました。
文久2年(1862年)末、高杉晋作たかすぎ・しんさく久坂玄瑞くさか・げんずいらとともに品川御殿山のイギリス公使館の焼討ちに参加。
翌年、久坂玄瑞から佐久間象山の武備充実論を聞かされると、たちまち洋行を志し、周布政之助を通じて藩に嘆願し、伊藤博文らとイギリスに密航しました。
現地で国力の違いを目の当たりにし開国論に転じました。
留学中、長州藩の外国船砲撃事件を知り、伊藤博文とともに急遽帰国、講和交渉で通訳を務めました。
幕府の第一次長州征伐では武備恭順を主張、幕府との講和を模索する俗論党に襲われ瀕死の重傷を負い、謹慎となりました。
のちに高杉晋作が長府の功山寺で決起し萩の俗論党政権が一掃されると再び藩の中枢に復帰しました。
慶応元年(1865年)、坂本龍馬の仲介で小松帯刀こまつ・たてわきと会い、薩摩藩の名義でグラバー紹介から武器を購入して幕府の第二次長州征伐に備えました。
長州戦争では芸州口で諸隊を指揮し、休戦に当っては幕府の使者の勝海舟と談判しました。
明治元年(1868年)32歳で参与兼外国事務掛として新政府に出仕。
造幣頭、大蔵大輔などを歴任しました。
明治9年(1876年)、全権副大臣として日朝修好条規を締結。
欧州出張後、参議兼工部卿をへて参議兼外務卿(のち外相)となりました。
外務大臣時代には条約改正に尽力しましたが、鹿鳴館ろくめいかんに象徴される極端な欧化主義が避難の的となりました。
明治20年(1887年)外人法官任用問題などの紛糾で辞任。
黒田内閣で農商務相となり自治党結成を試みるが失敗、大隈重信外相の条約改正に反対して内閣崩壊の原因を作りました。
第二次伊藤内閣で内相、第三次伊藤内閣で蔵相を務め、政友会結成にも関与しました。
第四次伊藤内閣退陣後に組閣命令をを受けましたが、渋沢栄一が蔵相就任を断ったため辞退しました。
以後、財政通の元老として活躍しました。

(平成16年8月2日改訂)


井上馨邸跡


井上馨生誕の地跡

(現:高田公園)





(平成15年7月27日)
井上馨像 銅像は高田公園内に建っています。

銅像の側には袖解橋の遭難の時に治療に当たった所郁太郎の顕彰碑が建っています。

碑文

公長門藩士井上光享の次男此地に生る
通称聞多後に馨と称す
幕末外患至るや国事に奔走し同志と横浜を発し喜望峰を廻りて英国に渡る
英米蘭仏の下関砲撃をなすと聴き急遽帰国し藩政の改革に當り保守派のために袖解橋に遭難し僅に死を免る
明治維新の創業以来終始内外の機務に参劃し特に産業の振興に盡し国運を打開して元勲と仰がる
常に勇決進んで難に當り忠忱にして能く節を効し大正4年9月1日歿す
歳81

井上公四十年記念会会長鮎川義介誌


井上馨候

天保6年(1835)12月萩藩士井上五郎三郎の次男として、この地で生まれました。
俊才を認められ藩公の小姓役となり、幕末国事多難な折、同志らと共に国事に奔走、大義を唱えました。
伊藤博文らと共に英国に留学し、帰国後藩論沸騰の際に当り、市内中讃井で反対派の壮士数名に斬り付けられ瀕死の重傷を負いましたが、名医所郁太郎の手当てによりあやうく一命をとりとめました。
やがて藩内で正義派が大勢を占めるようになり四境戦争、鳥羽伏見の役に出陣するなど、明治維新の大業推進に貢献しました。
明治維新後は新政府に仕え大阪造幣寮を創立、ついで民部大輔、大蔵大輔となり廃藩置県を成し遂げました。
明治18年内閣制度が成立、はじめての外務大臣となり、その後、農商務、内務、大蔵大臣などを歴任。
後、実業界に転じて大いに力を尽くしました。
晩年は元老として政財界に重要な地位を占め、明治40年(1907)功により侯爵となり、大正4年(1915)興津で没しました。

(銅像脇の説明板より)


高田公園

この公園は、明治維新の大業推進に功があった井上馨候の生誕地で、井上公園と呼ばれ親しまれていましたが、後に区域が広がり、地名をとって高田公園となりました。
園内には、井上馨候の銅像や、文久3年(1863年)の政変で、京都から長州に落ちのびた三条実美ら七卿が寄宿した何遠亭かえんてい跡や、かん難辛苦のなかに国事につくした功績を記念して建てられた七卿の碑があります。
このほか、「日本のランボウ」といわれた中原中也の詩碑や、防府市出身の漂泊の俳人、種田山頭火の句碑が建っています。

(説明板より)


七卿の碑



七卿の碑

(高田公園内)



(平成15年7月27日)

七卿の碑

幕末、長州藩は勤皇の公卿たちと連絡して、尊皇攘夷の先鋒となって働きました。
これに対し幕府は、長州に政権を奪う野心があるとして、長州藩士とそれに同調する三条実美ら七卿に文久3年(1863)8月退京を命じました。
これが有名な七卿落です。
藩主毛利敬親公はこれを迎え、三条らには井上家を増築して住まわせ、諸国の志士たちと王政復古のことを相談しました。
七卿らの志はやがて実現し、明治の新政府樹立後、三条らはその中枢にあって活躍しました。
この碑は七卿の忠誠をしのび、その遺跡を記念するため大正15年(1926)11月に建立されたものです。

(説明板より)


翠紅館跡



翠紅館跡

(京都市東山区高台寺南門通)





(平成19年3月17日)
翠紅館跡



翠紅館跡

(京都市東山区高台寺南門通)

京都霊山護国神社に向かう道の右側が翠紅館跡です。



(平成19年3月17日)

翠紅館すいこうかん

ここに、幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。
世にこれを翠紅館会議という。
同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こって攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。

京都市

(説明板より)


井上馨遭難の地

井上馨候遭難の地

山口市・JR山口駅とJR湯田温泉駅の丁度中間あたりに位置しています。
袖解橋の近くです。
かなり大きな碑が建っています。
この前の道を真っ直ぐ進むと高田公園に着きます。


(平成15年7月27日)

井上馨候遭難の地

元治元年(1864)幕府は京都蛤御門の変を理由に長州征伐の軍を進めたが、長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきだとする保守派が、少壮有意の正義派をしりぞけ責任者を処罰した。
9月25日藩主の前で開かれた会議で井上馨(聞多)は恭順派と争い武備を整えて幕府に対すべきだと主張したため、湯田の自宅への帰路、この地において反対派の壮士に重傷を負わされた。
しかし名医所郁太郎の手当てにより一命をとりとめた。
その後明治政府に仕えた井上馨は外務、農商務大臣を経て明治25年内務大臣となり、更に大蔵大臣となって条約改正、行政整理、日清戦争後の運営などに当った。
晩年は実業に入ったが政界にも大きな力をもち各種の事業を育成した。

(説明板より)


所郁太郎顕彰碑



所郁太郎 顕彰碑

(高田公園内)



(平成15年7月27日)

所郁太郎顕彰碑

所郁太郎は天保9年 美濃国赤坂に生まれた
長じて京都に出 医学を学び さらに大阪の適塾で西洋医学・洋学を修め 学・術ともに精進した
京都で医院を開いたが 長州藩の京都邸の近くであったので 藩の邸内医員を委嘱された
尊皇の志が篤く 長州藩士と深く交わって時勢を通観し 医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来住した
下関の攘夷戦にも参加し 七卿西下に降してはその医員を命ぜられた
元治元年9月 井上馨の袖解橋の遭難には ただちに馳せつけ 数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし 瀕死の井上を奇跡的に救った
後年の井上の偉業を思うとき この所の治療を忘れてはならない
慶応元年正月 高杉晋作が兵を挙げ 藩の俗論党と戦った時 所は迎えられて遊撃隊の参謀となり 高杉に協力した
その後幕府の長州征伐に備えて 軍を進めようとした時 にわかに病んで 吉敷の陣中で歿した
27歳であった
明治になり特旨をもって従四位を贈られた
(大垣市赤坂町本陣公園内の銅像を元に彫刻)

(顕彰碑 碑文より)


【三井の番頭】

明治政府が行なった殖産興業政策は、一部の財閥を優遇しているということで、当時から評判が悪かった。
特にその中でも悪名が高かったのは、元老・井上馨で、彼のことを「三井の番頭」と呼ぶ人も多かった。
彼は自分が設立した貿易商社を、そっくりそのまま三井財閥に買い取らせている。(これがのちの三井物産になる)
そのほかの面でも三井に便宜を図っている。

井上は、青年時代に密航してマルセイユに上陸し、西洋の港や市街を見た時の感銘を終生忘れることがなかった。
三井財閥の強化も、日本郵船の発展に尽力したのも、欧米との競争を考えれば、日本のために必要と見たからだ。
新聞は毎日のように「井上は財閥からカネをもらっている」と書きたてたが、当人はそんなことは少しも気にかけなかった。
その代わりに彼は毎日、イギリスの新聞だけは人に翻訳させて読んでいた。
それはイギリス人たちが日本のことをどのように報じているかを知るためだったという。
つまり、井上にとって自分に対する世間の評判など、どうでもいいのである。
それよりも、日本に対する世界の評判のほうが、ずっと大事だという感覚が彼にはあった。

(参考:渡辺昇一 著 『かくて昭和史は甦る〜人種差別の世界を叩き潰した日本〜』 平成7年第3版 クレスト社発行)

(平成27年1月5日 記)


【尾去沢銅山事件】

江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をしていたが、身分制度からくる当時の習慣から、その証文は藩から商人である鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっていた。
鉱山の採掘権は南部藩から鍵屋茂兵衛に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行なっていた明治政府の大蔵大輔の職にあった井上馨は、この借主が貸主を装った証文を根拠に尾去沢鉱山を鍵屋茂兵衛から取上げた。
井上は更に尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせたうえで「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。
鍵屋茂兵衛は司法省にこの一件を訴え、司法卿であった江藤新平山縣有朋と共に井上馨も検挙しようとしたが、すでに政権を我が物にしていた長州閥が抵抗し、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。
あまりにモラルの欠く新政権に薩摩は立腹し、西郷隆盛は下野した。
江藤新平も新政府に愛想を尽かして下野、結局は「佐賀の乱」で首を斬られた。

(参考:高山正之 著 『「官僚は犯罪者」は世界の常識』 PHP研究所 2010年第1版)

(平成27年12月10日・追記)


【総理大臣にはなれない】

井上は「内田山の雷親爺」といわれ、三井の益田孝でもどなられたというし、麻布の内山田の井上邸というものは、戦時中、翼賛青年団の事務所かなにかになっていて、行ったことがあるが、あんな、庭も家も豪壮な邸宅は見たことはなかった。
井上には私財を蓄える癖があり、それがため総理大臣にはなれなかったが、財政を専門としていただけに、日露戦後の西園寺政友会内閣と阪谷蔵相の放漫政策に、居ても立ってもいられぬほど憂慮し、明治40年の恐慌を引き起こした西園寺内閣を問責して桂内閣をつくったわけであった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年7月1日 追記)


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