井上日召像

井上日召 いのうえ・にっしょう

明治19年(1886年)4月12日〜昭和42年(1967年)3月4日

茨城県東茨城郡大洗町 護国寺境内でお会いしました。


群馬県出身。
本名の井上昭の昭の字を分解して日召と名乗る。
明治43年(1910年)早大・東洋協会専門学校中退後、中国に渡り”大陸浪人”となり参謀本部の諜報活動に従事。
大正9年に帰国し日蓮宗僧侶となる。
のちに茨城県大洗海岸の立正護国堂にこもり、「一人一殺」による国家革新運動を企画。
昭和7年(1932年)5・15事件の先駆けとして、小沼正おぬま・しょう、菱沼五郎を指揮して井上準之助、団琢磨だん・たくまを暗殺した「血盟団事件」により無期懲役。
昭和15年(1940年)仮出所し、その後、近衛文麿前首相のブレーンとして活躍。
戦後、公職追放。昭和29年(1954年)には護国団を結成して講演活動を行う。
昭和31年に引退。
昭和42年、80歳で没す。

(平成18年8月25日改訂)




井上日召先生は、明治19年群馬県利根郡川場村に生る。
幼名は四郎、通称尚、後昭と改め更に宇宙の原理を「天地一体、萬物同根なり」と大悟して日召を名乗り、晩年は日象とも号す。
先生は夙に国家、社会の艱難また疲弊、特に農村の困窮、困■の罪責は悉く政党、財閥並に元老、重臣等の特権階級が相結託して私利私欲に没頭し、国政を紊り、国家存立の大義を誤りたるにありと断じ、之が革正を図り、国家改造の実現を達成するには、敢えて斬奸の剣を把り、一人一殺、一殺他生の非常手段に訴えるの他なしとして、東光台の護國堂に集し同士に胸中を吐露し、共鳴共感を得、堅く盟を誓ひ即ち挺身、実行す。
これ世に謂う血盟団事件にして、昭和維新運動の魁たり。
先生、去り逝きて二十有余年、今は見ずと雖も魂魄は尚留りて後輩を鞭撻して止まず、何時の日にか当代の健児等蹶起して先生の大志を継ぎ、先生の足跡を踏み、先生の霊に応える日の必ずやあらむことを信じ、先生の言葉を以て結ぶ。
理想は遠い、が決して不可能ではない
努力!

平成元年4月吉日
蒼風社日本義塾
会長 冨澤孝輔 建之

(銅像の碑文より)
※■は判読できなかった文字です。

(平成17年2月11日記)


東光山護国寺

昭和維新発祥の地・東光山護国寺(護国堂)です。
「幕末と明治の博物館」のすぐ側にあります。

昭和維新烈士の墓

「昭和維新烈士の墓」というのが境内にありました。


【血盟団事件から五・一五事件】

井上日召の主張は「政党財閥竝に特権階級は相結託して私利私欲にのみ没頭し、国政を紊り国家存立の大義を誤っているので、一君万民の政治実現を期するためには非常手段によりこれら旧勢力を打倒しなければならない。そのためにはまずこれら巨頭の暗殺を決行して革正運動の烽火を揚げ、以て国家改造運動促進の気運を醸成すべし」というにあった。
彼らは暗殺目標人物と暗殺実行担当者を決めたが、「特権階級」は元老西園寺公望、徳川家達(貴族院議長)、牧野伸顕、伊東巳代治、政界では政友会の犬養毅床次竹二郎、鈴木喜三郎、三土忠造、民政党では井上準之助、幣原喜重郎、大野緑一郎(警視総監)であった。
財界は次の通りである。
(1)三井系
三井合名会社理事長・団琢磨、三井家当主・三井八郎右衛門、三井合名会社理事・有賀長文、三井合名会社理事兼三井銀行常務・池田成彬
(2)三菱系
三菱家当主・岩崎小弥太、三菱合資会社社長・木村久寿弥太、日本郵船会社社長・各務鎌吉
(3)其他
住友家当主・住友吉左衛門、安田家当主・安田善次郎、大倉家当主・大倉喜七郎

井上日召は、愛郷塾頭・橘孝三郎、紫山塾頭・本間憲一郎、日本国民党書記次長・鈴木善一とも連繋があり、金鵄学院学監・安岡正篤、玄洋社の頭山満の息子秀三とも関係があった。(警保局編「社会運動の状況」)

血盟団は、十月事件と関係があった。
十月事件では陸軍側の尉官将校が菅波三郎、大岸頼好、若松満則、東昇、対馬勝男で、海軍側尉官士官が藤井斉、鈴木四郎、三上卓、古賀清志、村山格之、伊東亀城らである。
民間側は西田税、井上日召、古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二であった。
十月事件が未遂のうちに発覚したのと、この計画中、橋本欣五郎ら幕僚部中堅将校の腐敗的行動に憤ったこれらの陸海軍青年将校らと民間側は、橋本らとは別行動をとることにし、昭和7年2月の紀元節を期して一斉蹶起するつもりであったが、そのうちに上海事変が勃発して陸海軍の同志多数が出征して実行不可能となった。
そこで計画を変更して、まず井上日召の門下生の民間人で、一人一殺を強行し、その後、なるべく時をおかずに陸海軍がクーデターを決行することになった(大谷敬二郎「落日の序章」)。

井上準之助、団琢磨の暗殺は五・一五事件の序幕である。
団琢磨の暗殺で警戒が厳重になり、爾後の一人一殺が無理となったので、残った陸海軍同志でことをあげるのを急いだ。
ところが、陸軍側の菅波、大蔵、安藤らは、自分らは近く上海に出征するので、帰るまで待って欲しい、との理由で動かなかった。
彼らは西田税の影響下にあるので、海軍側と井上日召ら民間側は、陸軍側の不参加を西田の裏切りとみた。
西田はスパイ視され、五・一五事件中、血盟団の川崎長光にピストルで撃たれた。

(参考:松本清張 著 『北一輝論』 講談社 昭和51年2月第1刷発行)

(平成29年10月24日 追記)


血盟団事件

昭和7年2月から3月にかけて井上日召とその門下生が「血盟団」と称し、「一人一殺」を標榜して要人テロを行った事件。

2月9日
小沼正おぬま・しょうが井上日召の命令により前蔵相・井上準之助を射殺。
(小沼は戦後、右翼系出版社「業界公論社」の社長となる。昭和53年没。)

3月5日
菱沼五郎が井上日召の命令により三井合名会社理事長・団琢磨を三井本社前で射殺。
(菱沼は戦後、茨城県議会議員・県議会議長となる。平成2年没。)

3月11日
事件の首謀者である井上日召が自首して事件が終結した。

(平成18年8月25日追記)


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